沖縄キャンプ知念はアジア最大の CIA (米中央情報局) の拠点だった

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キャンプ知念、あるいは知念補給地区とよばれた米軍基地について。

 

 

 

南部は地獄の沖縄戦

その舞台となっただけではない。

 

実に知念半島は、戦後、

アジア屈指の米軍情報戦略の拠点となっていた。

 

今は、琉球ゴルフ倶楽部となっている土地

そこにキャンプ知念 (知念補給地区) はあった。

 

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キャンプ知念のメインゲートが現在ではゴルフコースのゲートに。

 

キャンプ知念、

その基地の性格からして、

最も閉鎖的で得体のしれない基地。

 

その存在は、本土復帰前の1971年、

国防総省の高官が持ち出した極秘文書が、

ニューヨーク・タイムス紙とワシントン・ポスト紙に暴露され、問題化されて閉鎖されることになった。

 

もし、ここも全面返還されてなかったとしたら、

いったいどんなことになっていただろうか。

  

あまり知られていない、というか、「復帰後も秘密のベールに」つつまれてきた、南城市にかつてあったキャンプ知念について、沖縄タイムス (ジョン・ミッチェル氏取材) の記事も含め、簡単にまとめてみた。

 

米CIA沖縄基地 元従業員が詳細語る
2013年4月22日 09時20分


1972年5月の本土復帰時まで、米中央情報局(CIA)の沖縄基地があった「知念補給地区」(旧玉城村、通称・キャンプ知念)内に、外国人捕虜などを拘禁する秘密収容施設が存在するなど、基地内の施設配置やその用途などの詳細が21日までに分かった。同基地で働いていた複数の元従業員が沖縄タイムスの取材で明らかにした。

 米公文書を研究する専門家は「米軍の占領下、謀略の拠点であり、地図は大変興味深い。同基地は当時、CIAのアジア最大の基地だったと考えられる」と指摘している。(吉田伸)

 CIA沖縄基地だったキャンプ知念の配置図は、沖縄タイムスがことし3月に県公文書館で入手した琉球政府時代の地図を基に、元従業員らに聞き取り調査を行って作製した。

 複数の元従業員らの証言によると、秘密収容施設は基地南側の森に囲まれた「Zエリア」と呼ばれる地域に3棟あった。さらに基地の東側にはコンセット型の建物があり、従業員の立ち入りは厳しく制限されていたという。

 

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 元従業員らは、朝鮮戦争があった50年代から60年代にかけて、アジア系外国人が秘密収容施設に収容される様子も目撃していた。また米国籍とみられる語学専門官の職員が働いており、外国人を収容する際、ともに収容施設で過ごしていたと証言した。

 別の従業員らによると、同基地内では軍人の姿はほぼ見られず、勤務していた職員はワシントンから約3年交代で赴任したという。沖縄の別の米軍基地から出入りする米軍関係者はおらず、米国民政府(USCAR)の最高責任者だった高等弁務官ですら訪問時には所定の手続きが必要だったようだ。

 50年代、警備職だった山入端常雄さん(80)=南城市=は「銃を持たされ、金網から逃げる者があれば、どこでも撃っていいと命令されていた」と明かした。

 キャンプ知念がCIA沖縄基地だったことは復帰前年の71年7月、米紙ニューヨーク・タイムズが米国防総省の秘密文書を基に報じた。だが、詳細については明らかにされておらず、復帰後も秘密のベールに包まれてきた。


[ことば]

 知念補給地区 旧玉城村(現南城市)の面積の半分近くを占め、仲村渠はじめ親慶原、垣花、玉城など計8集落179・5ヘクタールに及んだ。朝鮮戦争が勃発した翌年の51年、「混成サービス群(CSG部隊)」が移駐。72年5月14日撤退した。74年に全面返還。77年、跡地に琉球ゴルフ倶楽部が整備された。

 

 

【沖縄とCIA ロバート・ジャクソン回顧録】

 

(1)アジア謀略作戦の拠点 森に隠れ家、特殊訓練も

2017年8月17日 00:00 沖縄タイムス 

CIA要員の子どもとしてキャンプ知念で暮らしたロバート・ジャクソン氏の回顧録を4回に分けて掲載する。

 

□    □

 私の父は沖縄の米中央情報局(CIA)要員だった。

 1960年代から70年代初頭にかけて、私たちはキャンプ知念に住んでいた。表向きは陸軍の補給施設とされ、外側からはリゾート施設のようにも見えた。島の東部にある180ヘクタール近い広大な敷地にパステルカラーの家100軒、レストラン、教会、9ホールのゴルフ場があった。その見掛けとは裏腹に、CIA施設の中で最も機密性が高く、アジア全体の任務に大きな役割を果たす施設だった。

 キャンプ知念は51年に創設された。米バージニア州ラングレーにあるCIA本部とアジア各地の施設をつなぐ通信アンテナを備えていた。うっそうとした森に覆われた区域には隠れ家があり、外国人が特殊訓練を受けていた。倉庫には消音器付きの銃、通信機器、船外エンジンを静かに改良した小型ボートなど、秘密作戦用の装備があった。

 技術者が働く「ショップ」と呼ばれる工房は、保安のためダイヤル式の錠が毎月交換されていた。彼らは盗聴、写真、武器の専門家だった。備品室にはパスポートを偽造、改ざんするため、タイプライター、入国管理局のスタンプ、ありとあらゆる種類の紙、インク、のりがそろっていた。工具で鍵を開ける練習をしたり、合鍵を作ったりするため外国の錠前もあった。

 倉庫の一つでは、沖縄住民の職員が投下作戦用のパラシュートを袋詰めしていた。ラオスでの秘密戦でも使われたものだ。沖縄の職員はCIAのために働いていることも、数千に上るパラシュートの行き先や目的も知らされていなかった。

 60年代、冷戦はピークにあり、海外任務は多かった。要員はいつでもCIA本部からの指令に備えていなければならなかった。タイの首都バンコクにあるソ連駐在武官の事務所に盗聴器を仕掛けるといった任務も、知念の担当だった。

 ほかに、中国軍人が香港から脱出するのを助けた。インドネシアのパスポートや雇用書類を偽造した。中国人要員に超小型カメラの使い方を訓練した。ベトナム戦争中、北ベトナムが建設した補給路ホーチミン・ルートに沿って、電話を傍受する太陽光発電システムを設置した。

 任務に危険はつきものだった。東南アジアに米軍の飛行機やヘリコプターで潜入した。銃撃や悪天候、事故、故障で要員の命が奪われたが、その数は公表されていない。

 知念で勤務したある要員は60年、キューバの首都ハバナで中国の通信社に盗聴器を仕掛けたところを現行犯で捕まった。別の知念経験者は70年代、イランのCIA施設の責任者を務めている時に拘束された。(構成=ジョン・ミッチェル特約通信員)

 

 

(写図説明)キャンプ知念内にあったゴルフ場(ロバート・ジャクソン氏提供)

 

(2)秘密主義 父の任務、詳細分からず

2017年8月19日 00:00 沖縄タイムス

 米中央情報局(CIA)要員の海外勤務はたいてい3年だった。父は1963〜66年と69〜72年の2回、沖縄勤務を経験した。私たち家族が最初にキャンプ知念に来た時、私は3歳で、最後に離れた時は12歳だった。当時は父の仕事や自分が住んでいる施設の詳細はほとんど知らなかった。

 私が育った環境で、「秘密」は大切な要素だった。CIA要員の子どもたちにとって、父の仕事というのはブラックホールのようなものだった。 分かっていたのは、施設内に立ち入り禁止区域がたくさんあること、父が時に数週間にわたって海外出張に行くこと。自宅の電話に出る時は、名乗らずに割り振られた番号を言うようにと教えられた。

 父は派遣先から土産を買ってきてくれた。インドの彫刻、インドネシアの籠、フィリピンの人形など。夕食後、一緒にアイスクリームを食べながらアジアの農場や森を写したスライドを見ることもあった。

 通っていた米軍人子弟用の学校はキャンプ知念の外にあり、先生に父の仕事について聞かれると、私はあいまいに答えざるを得なかった。父からは「陸軍で働く民間人」と答えるよう教えられていたが、私はそれがうそだと知っていた。秘密のベールが、かえって学校の職員に知念で何が起きているのかという疑念を抱かせていた。実は核ミサイル基地で、ゴルフ場のフェアウエーの下に格納庫が隠されていると考える人もいた。

 姉も先生に父の仕事を聞かれ、口ごもりながら「本当に知りません」と答えたことがあった。大人たちは大笑いしたという。

 私が大人になって初めて、父が施設の詳細や危険な任務について話してくれるようになった。東ベルリンで監視任務に就いていた時、シュタージ(秘密警察)に拘束されそうになったこと。アジアのある国の首都で政府高官の文書を入れ替える任務に失敗し、やはり捕まりそうになったこと。ベトナムや南米でも施設に侵入しようとして命の危険を冒したこと。私は父を尊敬していたが、父のことを何も知らなかったということを知った。

 父やキャンプ知念の同僚たちが冷戦構造についてどう考えていたか、任務で良心が痛むことがあったのかは分からない。私から見ると彼らは礼儀正しく、仕事熱心で、家族思いな人々だった。特に第2次世界大戦や朝鮮戦争の従軍経験者は、CIAの仕事は必要であり名誉なことだと考えていた。(構成=ジョン・ミッチェル特約通信員)

 

(写図説明)アジアの国で活動するロバート・ジャクソン氏の父=1970年(提供)

 

(3)子どもの目 楽園の裏に占領の実態

2017年8月31日 18:42 沖縄タイムス

 私たち子どもは、思わぬところで米中央情報局(CIA)技術者たちの高度な技術の「恩恵」を受けることがあった。

 補給部隊の人たちは「ハブの丘特急」を作ってくれた。まるで本物のような列車で、私たちを乗せて施設内を回った。7月4日(米独立記念日)の花火は、爆発物専門家が手掛けた。射撃コンテストでは、いずれ東南アジアのゲリラに渡される本物のライフルを私たちが使った。

 1960年代には、沖縄戦の痕跡が至る所にあった。キャンプ知念の半分ほどはうっそうとした森に覆われていて、私たちはよく洞窟やトンネルを探検した。軍の認識票、壊れた道具や兵器といった遺品を掘り出すことも多かった。友達の一人は頭蓋骨の前の部分を見つけ、シャツにくるんで見せてくれた。もっとも翌朝、お父さんの言いつけで元々あった所に埋め直していた。

 戦争の傷跡を除けば、キャンプ知念は楽園のような所だった。アサガオ、コスモス、アイリスが咲いていた。春になると数千の白ユリが香りを放った。自宅前の道はハイビスカスやリュウキュウマツの植栽で縁取られていた。

 後になって、知念での恵まれた生活の背景には醜い軍事占領があったことを知った。当時、沖縄には核ミサイル基地膨大な化学兵器の集積があり、驚くほど要塞(ようさい)化されていた。耕作に適した土地が取り上げられ、「在日」米軍基地の大半が沖縄にあった。

 CIA施設は世界のどこでも米軍基地の中に秘匿する必要があった。だが米軍支配下の沖縄では隠す必要が少なく、キャンプ知念として存在できた。それでも本土復帰が決まると施設の存在が問題含みとなり、72年7月31日までに閉鎖するよう通達された。

 閉鎖までの数カ月ははっきり覚えている。慌ただしく、感傷的な日々だった。仕分け、荷造り、そして涙の別れの後、それぞれの家族が新たな海外任務に旅立っていった。私たちは6月12日に沖縄を去った。沖縄の家政婦が涙を流し、白いハンカチを振ってくれた。

 CIAが去った後、キャンプ知念の管理は陸軍第1特殊作戦群(グリーンベレー)に移り、訓練拠点や語学学校として使われた。CIAもラオスカンボジアベトナムで作戦を続けていて、補給拠点の役割は引き続き果たした。沖縄の職員の雇用は特殊作戦群に引き継がれた。

 東南アジアの紛争は下火になり、陸軍も74年に去った。跡地は日本側、地主に返還された。(構成=ジョン・ミッチェル特約通信員)

 

(写図説明)ジャクソン氏が解説したキャンプ知念の航空写真

 

(4)40年ぶり「知念」再会 沖縄の基地存続は不正義

2017年8月31日 18:45 沖縄タイムス

 沖縄を出てから数十年後、私は偶然「知念」と再会した。子どもの頃の自宅を探してみようと思い、インターネットで衛星写真を探した。驚いたことに、そこにはキャンプ知念の一部が写っていた。

 それからというもの、沖縄は再び私の人生の一部になった。今も沖縄の人々が直面する米軍基地問題について学ぶようになった。

 沖縄訪問を決めるのに時間はかからなかった。約40年ぶりに那覇空港に降り立ち、翌朝タクシーで知念に向かった。そこで米中央情報局(CIA)施設の跡地にゴルフ場が建つシュールな光景を見た。

 琉球ゴルフ倶楽部はその日休業だったが、支配人は私の来意を知ると、自由に散策させてくれた。あまりの変化に、私は衝撃を受けた。倉庫群、技術者の「ショップ」は跡形もなかった。隠れ家が立っていた場所の一つはグリーンになっていた。ライフル射撃場はフェアウエーだった。

 ただ、面影はあちこちにあった。100軒あった家のいくつかはそのまま残っていて、草刈り用具やゴルフカートの倉庫に使われていた。壊れてさびた街灯の柱は、私が毎朝スクールバスを待っていた場所だった。友達と登った木も見つけられた。そこで私たちは、ベトナムのゲリラの石弓をどっちが遠くまで飛ばせるか、競ったものだった。

 帰り際に、ゴルフ場のスタッフ3人と会った。彼らはここが元々米軍基地だったことに驚いていた。CIAにはあえて触れなかったが、持ってきた写真を見せた。自宅前の芝生に座る父と私たちきょうだいが写っていた。言葉の壁はあったが、スタッフは目に涙をためていた。私が戻ってきた理由を分かってくれたようだった。

 滞在中は、ほかにもさまざまな場所を訪れた。糸満市平和祈念公園恩納村のミサイル基地跡地は、沖縄の人々が第2次世界大戦や冷戦の最前線に立たされたことを示していた。移動中に通りかかった牧港補給地区や嘉手納、その他の基地は私が去った時と同じようにそこにあった。

 沖縄に今も基地があるという事実は、私を深く困惑させる。兵士による沖縄女性への暴力が頻発していることもショッキングだ。冷戦がおよそ30年前に終わったことを考えれば、米軍の存在は沖縄の人々に対する大きな不正義であり、米国の戦略的にも不必要ではないだろうか。

 私の父も、沖縄の基地が閉鎖されることを願っていた。彼はその長い人生の中で、嫌というほど戦争を見ていた。もはや米国が世界中に大規模な軍事力を維持する必要はないと信じていた。父は2015年、97歳で死去した。

(構成=ジョン・ミッチェル特約通信員)=おわり

 

(写図説明)自宅前の芝生に座るロバート・ジャクソン氏(左)と父、きょうだい=1965年、キャンプ知念(提供)

 

 

日本維新の会儀間光男参院議員のように、

 

辺野古を差し出してでもこの問題を決着し、代わりに嘉手納以南を完全に振興するという担保を国から取るべきだ」「辺野古を造るのに4千億、5千億円かかる。それだったら、嘉手納以南の沖縄全体で1兆、2兆円もらうべきだ」と言いだす平和ボケまでいる。

 

儀間氏「辺野古差し出せ」 早期決着へ容認に転換「嘉手納以南振興を」

 2017年8月31日 10:34  琉球新報

 米軍普天間飛行場移設に伴う名護市辺野古への新基地計画について、日本維新の会県総支部代表の儀間光男参院議員は30日、那覇市内で開いた政治資金パーティーで「(翁長雄志)知事は辺野古を差し出してでもこの問題を決着し、代わりに嘉手納以南を完全に振興するという担保を国から取るべきだ」と述べた。これまで儀間氏は辺野古移設を容認しない立場だったが、今回の発言で容認に転じた。

 発言後、儀間氏は取材に対し「このままでは国権に勝てない。(沖縄側が)突っ張っているうちに墜落事故が起きたら誰も責任を取れない」と述べ、辺野古移設を容認することで早期決着を図るべきだとの考えを示した。その上で「辺野古を造るのに4千億、5千億円かかる。それだったら、嘉手納以南の沖縄全体で1兆、2兆円もらうべきだ」と主張した。

 今後、維新の会県総支部の方針とするか、支部内で議論していく考えも示した。一方、県総支部顧問の下地幹郎衆院議員は、本紙の取材に対して「(儀間氏の)個人的な考えであり、党の考えではない。党内で議論しない」と否定した。

 

沖縄県民みんなが苦しんできた、この状態で、これ以上、差し出す沖縄の土地や命があるとでも ?

 

人間の根っこが

その土地と歴史に根差していないなら

ただただ浅薄に目先のカネにふりまわされる政治屋になる。

 

USN covert ops early Vietnam | Talking Proud