泡瀬飛行場 - 泡瀬通信施設

 

泡瀬飛行場

 

戦前の泡瀬

戦争直前、私は泡瀬に住んでいました。当時の泡瀬は、首里那覇、泡瀬といわれていたとおり、大変にぎやかな町でした。

沖縄戦証言 中頭郡 - Battle of Okinawa

 

1945年4月9日 - シモバル民間人収容所

米軍は泡瀬周辺をシモバル (下原 Shimobaru) と呼んでおり、1945年4月3日に泡瀬に到達した米軍は4月9日にはそこに米軍政府 (military government) の司令部を設置し、また民間人収容所「泡瀬キャンプ」(シモバル民間人収容所) を開設して次々と住民を送りこんだ。

 

4月13日では住民数は3247人、9日後には6,200人となっていた。戦火を逃れた泡瀬周辺の民家に身を寄せる人々。しかしながら当然住居は足りず、テント村も建てられた。

 

民間人収容所のモデルケースであっただろう5月20日頃までの「シモバル民間人収容所」を米軍は多く写真記録に残している。

米国海軍: Civilians in camp at Shimobaru, Okinawa in Ryukyus, receiving rationed produce they had raised in nearby fields.
沖縄本島の下原にある収容所の民間人が、配給用の農産物を受け取っている様子。この農産物は、近くの畑で彼らによって育てられた。下原 1945年 5月 20日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

米国海軍: Donald B. Levy, PhoM3/c, USNR, giving cigarettes to the Okinawans at Shimobaru, Okinawa.
【和訳】 海軍予備役のレビー撮影要員が、地元民にたばこを配る様子。沖縄本島の下原にて。下原 1945年 5月 10日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

しかし、5月の初めごろから北側に収容所を移動させられている。泡瀬を軍事拠点化し、大規模な飛行場を建設するためである。

 

泡瀬飛行場の建設

この飛行場は島の防空を担う戦闘機の基地として緊急に必要とされ、希望される運用日は7月1日に設定された。

Building the Navy's Bases in World War II [Chapter 30]

 

今度は泡瀬まで歩かされました。私たちは、泡瀬の海に放り込まれるのではないかとみんな不安な気持で歩いていきました。しかし泡瀬に着くとそこの部落は収容所となっており、もうかなりの人が入っていました。そこでは三、四週間位滞在しました。その間に班を作って自分の部落に食糧やいろいろな日用品を取りに帰ることも許されておりました。それにはアメリカ兵がひとりついてきて、他のアメリカ兵に乱暴されるのを防いでくれました。… 五月の初め頃には、具志川の塩屋(マースャー)の収容所に移動させられました。そこでも食糧は乏しかったので、自分たちでイモや野菜を作ったりして自給するようにも働きましたが、とれるまでは時間がかかるので大変でした。

「米兵に襲われて」沖縄戦証言 中頭郡 - Battle of Okinawa

 

そして砂辺に逃れて行かれ、そこで一晩夜を明かしたら次の日は園田を通って泡瀬の本部落の方へ連れて行かれました。泡瀬は島袋と同様に民間人の捕虜収容所になっていたのです。そこでは、大きな民家には四、五十人も詰め込まれて、牛小屋や山羊小屋にも収容されました。食幅は殆んど誰も持っていなかったのでアメリカ軍の配給だけでした。… 泡瀬の収容所からは具志川の塩殿の収容所に移されました。もう味噌や塩が欠乏していたのでなんとか手に入らんもんかと各部落を捜し回わりました。

「護衛付きの食糧探し」沖縄戦証言 中頭郡 - Battle of Okinawa

 

泡瀬に残っていた多くの家屋も、泡瀬飛行場建設のために破壊された。この写真では、背後に入り江のようなものが見える。海岸沿いの町はすべて滑走路用地として破壊された。

米国陸軍通信隊: 日常生活を営む住民と下原の典型的な風景  下原 1945年4月26日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

1945年5月1日 - 泡瀬飛行場の建設

4月23日、第36海軍工兵大隊 NCB によって建設が始まる。

6月30日、泡瀬飛行場の利用を開始。

 

沖縄作戦の主要な技術的成果の一つは、泡瀬飛行場の急速な建設であった。飛行場は島の東海岸の水田地帯に計画され、水はけが悪く、路床は青粘土で湿ると不安定になる。泡瀬半島では入手可能な指サンゴとサンゴ砂の供給が限られていたため、埋め立てと舗装のための最も近いサンゴ供給源は、それぞれ 3 マイルと 5 マイル離れた具志川と宮里であった。この飛行場は島の防空を担う戦闘機の基地として緊急に必要とされ、希望される運用日は7月1日に設定された。

 

海軍建設部隊を沖縄東海岸に上陸させるという建設部隊司令官の計画は、第36海軍建設大隊が具志川に上陸し、4月23日に泡瀬の建設を開始したときにその成功をみた。大きな排水路が掘られ。そして防潮堤に設置された防潮門が水田から水を抜いた。次に主要供給道路のバイパスが建設され、道路は畑の周囲に迂回された。これらの準備段階はほぼ完了し、埋め立て工事が進行中の5月下旬から6月上旬にかけて豪雨が続いたため、第10軍司令官はすべての重土木設備を主要補給道路の維持管理に転用させた。

 

6月中旬に乾燥した天候が戻り、飛行場への通常の優先順位が戻ると、建設部隊は泡瀬での努力を倍増させた。第36海軍建設大隊は、利用可能なすべての装備とオペレーターで増強された。具志川と宮里の採石場からサンゴを現地に移す作業には6大隊が協力した。アイランドコマンドのMPが交通整理を支援し、トラックや他の土運搬車の列が採石場から飛行場現場まで続いた。

 

作業は敵機の中断を除いて昼も夜も続けられた。埋立石材材は、配置されるときに広げられ、圧縮され、成形され、固められた。ストリップ、誘導路、ショップが急速に形を整えられ、管制塔と運用棟も同時に建設された。6月30日、飛行場は初期運用の準備が整ったと発表された。排水の障害と困難、物質、天候、敵による妨害は克服され、希望の運用日どうりになった。同日、海兵航空グループ33の最初の飛行機がストリップに着陸した。

Building the Navy's Bases in World War II [Chapter 30]

 

こちらのキャプションには5月1日に建築を開始したとある。ドレイン (排水) に難渋する工事であり、滑走路を陸側に移す必要があった。

【原文】 Awase Airstrip receiving the finishing touches from rollers and scrapers of the 36th Navy Construction Battalion while the hardstands and taxiways are being made ready to handle the Navy land and carrier base planes by the 20th Navy Construction Battalion on 31 July 1945. Site of this Navy Strip is on the east coast of Okinawa midway down the island and construction was started on May 1, 1945. The strip has a coral base and surface and is 5000 feet long with over 30,000 feet of taxiway to handle the 500 Marine planes expected to be here by November 1st.
第36海軍建設大隊のローラーとスクレイパーで最後の仕上げにかかる泡瀬飛行場。一方1945年7月31日に第20海軍建設大隊が海軍陸上機と艦載機用に使う舗装駐機場と誘導路は準備が整っている。この東海岸の海軍飛行場建設は5月1日開始。石灰岩の表面で、3万フィートの誘導路と長さ5,000フィートの滑走路は11月1日には500の海兵隊飛行機を受け入れる予定。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

1942年4月、遅ればせながらも米海軍は初のアフリカ系アメリカ人部隊、海軍建設大隊 34th NCB を発足させた、当初は南部の白人士官や隊長が意図的にトップに据えられていたため、体質的に差別的であったが、1945年の沖縄戦まで彼らは軍内の人種差別と闘った。こうして歴史的な黒人部隊、34th NCB は5月22日13時14分泡瀬に到着した。まだまだ黒人に選挙権もない1945年代にあって、キャンプはかなり厳しい状態にあったことは想像できうる。

 

サンゴで道路を舗装する前に、ワゴンで約18インチの泥を除去する必要があった。ここに示されている道路は舗装の準備ができている状態。背景に見える丘に潜伏していた少数の日本兵は、第34シービー哨戒隊によって捕らえられた。

第34シービーキャンプを通過する高速道路の一部。前景に見える2台の給水トレーラーが彼らのための唯一の飲料水源だった。この高速道路を下る「パレード」は、畑を耕す途中の現地の農民たちで構成されており、その90%が女性であった。これらの住民は収容所に収容され、憲兵によって職場への往復行進をさせられている。

The 34th NCB のメモリアルブックより

 

7月20日に米軍の病院に百名病院から運ばれてきた。百名からコザまで私たち家族三人だけアムブランス(患者輸送車)で運ばれたが途中窓越にみた道の周辺はすっかり変りつつあったことに驚いた。知名二区今の海野から与那原までの海岸地帯がすっかり港湾施設をつくっていた。岩をコンプレッサーで破砕する騒音、岩石の粉煙が周囲に立ちこめ、この白いゴミの中を私たちのアムブランスは通り抜けていった。海には破砕された石で突堤がつくられ佐敷の仲伊保海岸まで数ヵ所の突堤ができていた。与那原海岸は円い穴のあいた鉄板カリバートが砂の上に一面に敷きつめられてあって、軍需物資が一杯おろされていた。西原から泡瀬までの海岸平地は飛行場となり数条の滑走路が構築されていた。

「生死を分けた沖縄戦」『南城市の沖縄戦 証言編 (第2版) 』南城市 (2021年) - Battle of Okinawa

 

基地化される泡瀬: 泡瀬飛行場とその一帯は海軍の一大拠点となる。泡瀬周辺に集められていた民間人収容所 (シモバル収容所) から民間人が北部へと移動させられた。

米国海軍: Bivouac area adjacent to Awase Airfield, Okinawa.
泡瀬飛行場に隣接する野営地。 1945年 8月 9日     

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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1950年にアメリカ海軍は北側に、アメリカ空軍は南側にそれぞれ通信施設を建設した。飛行場は使用されなくなる。

 

収容所に移住を強いられた住民は、泡瀬の塩づくりを復興させたいと願った。

当時泡瀬は飛行場内にあり、飛行機の駐留地(米軍泡瀬飛行場)になっていたため、飛行機の翼の下を通って通勤したものである。髙江洲、前原あたりに難を逃れた人々にとって、製塩を盛んにすれば、やがて泡瀬が解放になり、郷里に帰れる日も早かろうと、戦前の経験者はもとより、多くの人々が喜んで参加した。その頃の製塩は戦争のために荒れた塩田の一部を修理しながら、小型平釜式の三つの工場を作り共同で開始した。1946年(昭和21年)、泡瀬は飛行場として使用中であったため帰郷が許されず、不本意ながらも、より近いということで字桃原の畑地と字古謝の地へ移動を始めた。

沖縄塩元売の歴史|沖縄塩元売株式会社

 

1972年 - 泡瀬通信施設

沖縄返還協定により日本政府は泡瀬通信施設として米軍に提供する。

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泡瀬通信施設の位置図 1972年(昭和47年)

 

米空軍 - 泡瀬通信補助施設 (南側) 

1967年、米空軍がOTHレーダーを設置。大陸間弾道ミサイルICBM)の探知を目的としたものであった。1974年、衆議院外務委員会でOTHレーダーの存在が明らかになり、問題となり、翌年の1975年、米軍がOTHレーダーを撤去、翌年1976年には、OTHレーダー施設用地約1,014千㎡が返還された。

 

1983年、残りの施設部分1,861千㎡が返還され、返還後は区画整理が行われて都市開発がすすめられた。

 

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「沖縄の米軍基地」(平成 25 年3月、沖縄県知事公室基地対策課)より引用

 

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泡瀬通信施設の位置図(平成28年時)

 

米海軍 - 泡瀬海軍航空隊通信所 (北側)

現在ある海軍の泡瀬通信所と返還された滑走路跡。

 

沖縄市は嘉手納弾薬庫や嘉手納基地を含む6施設の米軍基地によって東西南北の土地を圧迫されているため、桑江朝幸市長の時代に泡瀬干潟の埋め立てを含む東部海浜開発構想を策定した。泡瀬の浜の埋め立て計画は地元の保守派からも大きな反対の声が上がった。泡瀬通信施設の南側に人口島を造成する案となるが、泡瀬の干潟を守りたいとする住民の声はないがしろにされたまま、工事が進められている。 

 

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