FAC6008 瀬嵩訓練場
これもですが、公的なビジュアル資料がほとんどリリースされていません。
沖縄戦後の基地の歴史を可視化し伝えていかなければ
なかったことになりませんか。
地位協定・SOFAの適用 平成22年度外交記録公開(3)No.3 | 公開日 : 平成22年12月22日
北部訓練場の南側、名護市の西海岸に位置する瀬高訓練場は、本来は軍用地ではなく、一年のうちごく限られた日数だけを地主から直接使用許可をとりつけて使用する一時使用訓練地であった。
1971年の日米合意「沖縄返還協定」は、当事者であるべき沖縄県を排除し、日米間で勝手に取り決められたため、「基地に関する了解覚書」には、瀬高訓練場のように正確には軍用地ではなかったものが含まれ、それにより新たに日本側から米軍側に基地として提供される状況が幾つも浮上した。
そのため、軍用地ではないにもかかわらず継続使用される米軍基地として登録された地所は、安波訓練場、川田訓練場、瀬高訓練場、久志訓練場、屋嘉訓練場、浮島訓練場、前島訓練場の七カ所に及んだ。しかも川田訓練場と瀬高訓練場は、地元が米軍に対して使用を拒否しているにもかかわらすである。
日本政府は土壇場でその辻褄をあわせるため、1972年5月15日の沖縄返還の前までに「返還」を急いだ。
瀬嵩第1・第2訓練場 (122,000m2)
1967年6月30日、瀬嵩第1・第2訓練場の返還
跡地
内ゴルフ場建設(57m2) 保安林 (65m2)
カヌチャの手前。ここのゴルフ場のあたり。
民間人収容所 瀬高
ここは南部の激戦地からやっと救出された住民が、さらに知念収容所から多く北部の収容者に強制移送された場所の一つ。収容所として人口が増え、瀬嵩市が誕生した。
7月13日、大浦湾周辺に瀬嵩市が誕生し、嘉陽市は嘉陽区となった。海岸近くの道路の両脇に知名、安座真の避難小屋が立ち並んでいた。山から木を切り出し共同作業で小屋を建て、土間に木の枯草の葉を敷きここに寝た。マラリアが流行し、また壕疲れの栄養失調で多くのお年寄りと子供たちがこの地で斃れ、合同墓地に埋葬された。
《『知念村史』知念村 (1994年) 》
米軍は傷つき衰えた人々を容赦なく強制移送し、それで多くの人が亡くなった。
住民の収容が開始されて間もない頃、瀬嵩地区一帯でマラリアが蔓延し多くの住民が死亡した。瀬嵩公民館に保存されている「墓地台帳」(昭和20年11月作製)には、当時の瀬嵩区の収容者(同年8月現在で人口669人)のうち、613人がマラリアや栄養失調などで亡くなっている。年齢は60歳以上と10歳以下が多く、出身地は中、南部の人がほとんどだったという(『証言沖縄戦』琉球新報社参照)
米軍 瀬嵩第1・第2訓練場
その後、琉球列島米国民政府の統治下で米軍基地の演習地として利用されていく。瀬高訓練場は、米軍の訓練場であるが、使用するにあたって一年ごとに地元自治体との更新が必要な「許可訓練場」であった。
71年当時、恒久使用の米軍基地以外に、市町村との契約に基づき7つの沿岸部水陸両用訓練地域が存在していた(安波[国頭村]、川田[東村]、瀬嵩第1・第2、久志[名護市]、屋嘉第2[金武村]、浮原島[勝連村])。これらは自治体とUSCAR間で12ヶ月毎の更新が成される許可訓練場であった。7つのうち北部訓練場に隣接する、東村の川田、名護市の瀬嵩第1については反対の声により許可が下りず、安波に関しては区長と国頭村長の許可は取ってあるが、同年10月16日に開催予定の日本の議会の結論を待つという内容であった。もし自治体長らが訓練場使用許可を出さなかった場合、USCARは高等弁務官布令第20号により、強制使用の場合があると考えていた。
森啓輔「統治と挑戦の時空間に関する社会学的考察ー戦後沖縄本島北部東海岸をめぐる軍事合理性、開発、社会運動̶」(2016) p. 149.
そして内陸に孤立して位置している北部訓練場は、奥訓練場、安波訓練場、川田訓練場と連結させなければ、海兵隊の上陸訓練ができないこと。
北部訓練場の成立は、その後の度重なる新規訓練場やヘリコプター着陸帯の建設、地元民のゲリラ訓練への動員など、同地域に軍事的インフラを埋め込んでいく。北部訓練場は米軍統治下においては、北部に位置した奥訓練場、南部に位置した川田訓練場などとも隣接していたが、施政権返還後は、東部に位置する安波訓練場と隣接しながら、海兵隊の水陸両用訓練を可能にしていく。・・・
森啓輔 (2016) p. 99.
しかし許可の更新が必要なこれらの訓練場で、米軍は、地元の反対があれば、訓練できなくなるという危機感をもっており、
もし上記の許可訓練場の継続使用を諦めるならば、「沖教組(OTA)やその他の者達に、全面撤退の道を開く第一歩となってしまうだろう」(同上:7)と報告されている。当時海兵隊が、沖縄の革新勢力を非常に警戒していたこと分かる。
森啓輔 (2016) p. 150.
その不安を解消し、より恒久的な基地として確保するため、
結果として、川田、瀬嵩第1・第2訓練場は返還され、屋嘉、久志、浮原、安波訓練場は、日米地位協定2-4-(b)に基づく一時使用により、施政権返還後も継続使用されることとなった。安波訓練場は沿岸部から北部訓練場への接続を可能としていたため、海兵隊にとっては重要だったが、1987-9年に安波区内でのハリアー哨戒機の着陸帯建設計画に伴い、国頭村を挙げての激しいハリアーパッド建設阻止闘争が行われ、建設が断念され、ハリアーパッドは伊江島飛行場に建設されることとなった。
森啓輔 (2016) p. 99
地元の抵抗がより大きかった東村の川田、名護市の瀬嵩第1は返還し、その後も、返還という名で条件を付けては安定した接岸部分を確保する。それが SACO の本丸だった。
1971年6月30日、瀬嵩第1・第2訓練場が解消された。
現在はゴルフ場などになっている。
このあたりから見る大浦湾は美しい。
しかし、
第11回 2018シーサーカップ /第3回エナジックオープンゴルフトーナメント in 沖縄 - エナジックジュニアオープン 2022
美しい場所であるが、ここから見える対岸は
今、日本政府が埋め立てを強行している辺野古とキャンプシュワブと辺野古弾薬庫である。
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