久志訓練場とは
1945年、久志村字久志も大浦崎収容所の一部となる。
1960年頃、米海兵隊の水陸両用部隊の上陸訓練場として提供される。
久志訓練場は米軍が対名護市と直接交渉し更新の必要な「許可訓練場」のひとつであった。これは名護市が持つ権限である。
71年当時、恒久使用の米軍基地以外に、市町村との契約に基づき7つの沿岸部水陸両用訓練地域が存在していた(安波[国頭村]、川田[東村]、瀬嵩第1・第2、久志[名護市]、屋嘉第2[金武村]、浮原島[勝連村])。これらは自治体とUSCAR間で12ヶ月毎の更新が成される許可訓練場であった。
森啓輔「統治と挑戦の時空間に関する社会学的考察ー戦後沖縄本島北部東海岸をめぐる軍事合理性、開発、社会運動̶」(2016) p. 149.
しかし、「沖縄返還協定」にリスト化されることで、日本政府が米軍に「提供」する基地の一つ (沖縄返還協定A表) となる。
実際には、飛び地のような訓練地であるので、ほとんど遊休化してたにもかかわらず。
返還は1974年になってからだった。
- FAC6112
- 久志訓練場
- 59千㎡
- 名護市字久志
- 1974年3月31日、全返還
現在は農業用地として使用されている。
久志訓練場のおよその位置。辺野古とキャンプシュワブが右側にある。
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