これは、キャンプ・ハーディーと並び、けっこうヤバい系の基地。
キャンプ・ヘーグ
面積:約 645,100 ㎡
米国陸軍通信隊 【原文】 The 44th Infantry Service Club at Camp Napunja on the island of Okinawa.【和訳】 キャンプ登川の第44歩兵部隊サービスクラブ 沖縄市登川 1947年11月22日
キャンプ・ヘーグの名称について
この基地ほど名前の混乱を生んでいるものはない。
米陸軍が駐屯していた頃、この基地は Camp Napunja*1 と呼ばれていた。日本軍が琉球語を禁止して日本語の使用を強制し、琉球語を使用すればスパイとして処分すると通達した一方で、米軍では沖縄系アメリカ人が語学兵として活躍したので、当然、沖縄のヴァーナキュラー*2な地名が軍内で使用されることになる。Napunja は「登川 (のぼりかわ) 」の琉球読みで、ほかにも波平 (なみひら) は Hanza という地名になる。ということで Camp Napunja を訳すとすると、「キャンプ登川」となる。
1953年頃、日本から追いだされる形で次々と海兵隊の拠点が沖縄に移転してくる。岐阜に配備されていた第9海兵連隊司令本部は、大阪の境基地を経由し、1955年7月5日に沖縄のキャンプ・ナプンジャに移転する。その後、しばらくしてナプンジャは、海兵隊員で名誉勲章をうけた Louis James Hauge Jr. 伍長にちなんで Camp Hauge と改名される。これがまた、もう一つの混乱を生むのだが、Hauge という名前は、日本語ではヘーグと表記されているが、実際には米語でハーグという発音になる。また、そのため、Camp Hauge を Hague と誤記するものが多発することになる。
つまり Camp Napunja は Camp Hauge で、キャンプ登川のことである。
キャンプ・ヘーグと核
宜野座村松田にあった陸軍キャンプ・ハーディーと同様に、ここでも小型核兵器の訓練が行われていたことがわかっている。以下の記事は、琉球新報の英語版を日本語訳したもの。
公文書は、米軍が1960年代に沖縄で行っていた核兵器訓練を示唆する
August 18, 2011
Kenyu Uchima and Wakako Oshiro of Ryukyu Shimpo
米国国立公文書館の論文によると、ベトナム戦争の時期である1960年代に、米軍は当時の沖縄市と具志川市(現在のうるま市)にあるキャンプハーグで小型核兵器の訓練を行った。この文書は、沖縄に駐留する米海兵隊の第3海兵師団が発表した1960年代半ばから後半までの月次報告書に含まれています。「特殊兵器訓練」(米軍用語では核兵器を意味する)が実施されたと述べている。
日米関係史研究者の新原昭二氏は、国立公文書館がネット上で公開している公式文書を見つけた。訓練に加えて、文書には「核兵器復習」(核兵器の再教育プログラム)への言及が含まれています。研修の会場については、「キャンプハーグ」と「沖縄」が明記されています。また、訓練に参加した将校と下士官の数の詳細にも言及した。
「原子力安全担当官」は、核兵器の安全な取り扱いと核攻撃を受けた場合の身を守るための訓練を実施したことを示唆しています。いくつかの報告によると、ベトナムから沖縄に移送された兵士は、訓練中に放射線にさらされたと証言した。
同文書には、訓練は不定期に行われ、1966年から1968年の間に行われることが多かったと記載されている。兵器。問題の期間は、ベトナムで戦闘が激化したケサンの戦いと重なっていたため、核兵器の使用に備えて、作戦部隊は核兵器の訓練を受けました。」
米海兵隊キャンプハーグは沖縄市登川(旧美里村)にあり、1945年に米軍に占領された土地でした。キャンプで使用されていた土地は1964年から1977年にかけて地方自治体に返還された。
1977年5月14日 返還。
1977年5月14日にキャンプ・ヘーグは返還された。しかし核兵器の脅威は消えない。
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