FAC6047 西原陸軍補助施設 (Nishihara Arm Annex) ~ 勝連半島の核ミサイルサイト

 

勝連半島の核ミサイルサイト

1972年までの米軍基地マップ。

沖縄県「米軍基地環境カルテ・西原陸軍補助施設」 

 

米軍占領下の空中写真では黒塗りされていたが、1973年の空中写真では、ナイキ、ホーク、メースという三つの核弾頭対応のミサイルサイトが点在しているようすがわかる。

西原陸軍補助施設は、中央のナイキサイトと左側の管理棟サイトである。

 

沖縄に配属された米陸軍第30砲兵旅団ミサイル部隊 (30th Artillery Brigade missile unit) は、核弾頭を搭載できるナイキを管理していたのではない。正確には、実際に核弾頭を搭載したナイキを日々管理していたのだ。

Nike Hercules Missile 30th Artillery Brigade Okinawa 1970: This conforms to the ancient Japanese principle: Proof rather than argument. 【訳】沖縄の第30砲兵旅団ミサイル部隊のナイキ。これは日本の古いことわざを実証する。論より証拠。

Nike Hercules Missile 30th Artillery Brigade Okinawa 1970 | Flickr

 

 

ナイキのミサイルサイトは、内間と饒辺の住宅街が密集する地域をはさむ地域に配置されていて、ミサイラーは地下のシェルターに引きこもる一方で、住民は知らない間に核ミサイルの足元でのまる裸の生活を強いられていたことがわかる。

 

下は沖縄の写真ではないようだが、説明にあるようにミサイルサイトと管理棟は別々に設置されなければならない。

【訳】ハーキュリーズシステムの技術的要件により、バッテリー制御エリアと発射エリアを離して設置する必要がある。ここは地下の男たち「ボーイズ・ダウン・アンダー」の本拠地。

 

ナイキは沖縄に八か所のミサイル拠点を持ち、実際にナイキの実射訓練も行われていた。

【訳】有名なナイキ・ハーキュリーズ・ミサイルを装備した第30砲兵旅団の兵士兼ミサイル兵は、沖縄の8つの作戦拠点24時間体制の即応態勢を維持しています。第65砲兵連隊第1ミサイル大隊と第61砲兵連隊第2ミサイル大隊は、アメリカ本土以外で初めてナイキ・ハーキュリーズ・ミサイルを実地発射し、優れた射撃効率と命中精度の記録を樹立しました。沖縄と近隣の島にある8つの新たな基地でホーク・ミサイル部隊が運用開始されれば、防空能力はさらに強化されます。沖縄の第1特殊部隊群(空挺)は、全米で3つあるそのようなエリート組織の一つです。

Okinawa, Keystone of the Pacific pdf

 

しかし、大陸間弾道ミサイルなどの開発で、メースやハーキュリーズなどが時代遅れの冷戦時代の産物となっていくことに、矛盾を感じ苦しむ兵士もいた。

【訳】私たちの家族はそこ (沖縄) に住み、冷戦時代に共産主義の世界支配に対するアメリカの防衛網の重要な部分を担い、24時間体制の警戒態勢と即応態勢の防衛体制の維持を助けていると、間違っていながらも、しかし誇りを持って信じていたのです。

30th Artillery Brigade Okinawa 1970-71: Okinawa

 

 

ナイキシステムは、建設されて10年後には閉鎖される。

  • 1959年2月12日、ナイキ・ハーキュリーズ誘導基地(Aサイト)及び、施設基地(Bサイト)として使用開始。米陸軍第30 砲兵旅団ミサイル部隊の支配下となる。
  • 1969年10月頃 ナイキ基地としての機能を停止し、遊休化する。

 

しかし、地下深くに広がる核施設は解体されずそのまま放置される。

 

1972年、日本に「返還」されるのは、このように解体するのに巨額の資金がかかる冷戦時代の無用の長物ばかりであった。

  • 1972年5月15日、施政権移行により日本政府が米軍に「西原陸軍補助施設」を提供する側になる。Bサイトは兵舎として使用される。
  • 1973年6月30日、約 62,000 ㎡(Aサイト)を日本に返還。
  • 1974年4月30日、約 136,000 ㎡(Bサイト)を日本に返還。

要は、「返還」という名で、冷戦時代の核施設を解体させ処分させるということだった。

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■