FAC6061 牧港住宅地区

 

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那覇市新都心銘苅庁舎や沖縄職業総合庁舎、沖縄県立博物館・美術館などの公共施設、大型ショッピングセンター「DFSギャラリア・沖縄」などが立ちならぶ那覇新都心。そこは1987年まで米軍基地だった。

 

FAC6061 「牧港住宅地区」 

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米軍 牧港住宅地区 中央やや上に、東急ホテル

米軍施設/牧港住宅地区(航空写真) : 那覇市歴史博物館

 

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1945年5月12日 シュガーローフの戦い

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The Final Campaign: Marines in the Victory on Okinawa (Assault on Shuri)

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1945年5月12~18日 地獄の丘、シュガーローフの戦い - Battle of Okinawa

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SUGAR LOAF HILL, western anchor of the Shuri defenses, seen from the north.

/USMC/V/USMC-V-II-8.html

 

シュガーローフの戦い 

1945年 5月12日 『今帰仁村の住民虐殺』

1945年 5月13日 『村全体を破壊する命令』

1945年 5月14日 『“戦力”として必要』

1945年 5月15日 『戦闘と基地建設』

1945年 5月16日 『沢山のブリキの兵隊』

1945年 5月17日 『死者は血の海に横たわる』

1945年 5月18日 『まるで臭い生ゴミの山』

1945年 5月19日 『首里に迫る米軍』

 

 

 

1945-1947年 - 収容所を転々と

現在の那覇のあたりは米軍によって占領されていたため、旧「真和志村」の住民は1946年になっても収容所から解放されず、収容所を転々として生きるための軍作業に従事させられた。

 

銘刈の普久原ウシさんの場合

知念地区 久手堅収容所 → 1946年1月頃大渡・米須・伊原の収容所で遺骨収集「魂魄の塔」の建立 → 5月豊見城村の嘉数のテント → 7月頃真玉橋のテント → 10月頃真嘉比への移住許可 → 1947年、銘苅へ。しかし・・・

普久原ウシ 久手堅からは、主に真和志村出身者だけが集められて、米須の近くの伊原に収容されてね。そこにいるとき、うちなんかの仕事は、遺骨拾いだったさ。手で拾い集めて、カマスに入れてね。担いで近くの、今の「魂魄の塔」ね、あそこに穴が掘ってあったから、あの中に遺骨を入れたさ。山積みになってね。遺骨は一面にころがっていて、海岸から、今の「姫百合の塔」の裏、真壁あたりまで、拾い集めて歩いたよ。

泉水マツ 久手堅には八か月ほどいたと思うね。捕虜になったのが昭和二十年の六月中旬だったから.........。翌年の一月末には、真和志村民だけ移動させられてね。移動させられたところは摩文仁村だった。そこには真和志村民が集結していて、米須を中心に、大渡・米須・伊原とそのへん一帯はひろびろとした焼野が原で、私たちが行ったときは、もうテント小屋ができていたよ。五、六千人以上も集められていたようだよ。そしてテントの班長やら、いろいろの係長が決められていて、武器やヤッキョウや空罐やらで、農具や食器類なども造っていたよ。物物交換したり、集団で仕事したりしてね。私たちの仕事は、一番の犠牲地だったそこら一帯の野や山や畑や道にいくらでも転がっているクチダマ(遺骨)を拾い集めることだったよ。カシガー袋を背負ってね、毎日毎日、あれだけ沢山の骨魂を拾い集めてね、今の「魂魄の塔」に納めたんだよ。米須に四か月ほどいてから、真和志村に移動するという話だったけど、すぐには真和志村には入れなかったよ。五月に移動したところは、豊見城村の嘉数だったよ。嘉数バンタは何もない所だったから、毎日のように遠くまで食糧探しに出かけていたよ。豊見城村の嘉数に二か月いてから、すぐ近くの真玉橋に移ってね。そこのテント小屋には、三か月ほどいたね。そこにいるとき、熊本に疎開していた普久原のタンメー(泉水マツの長兄)たちが、引揚げてきて、入ってきたんだよ。私はその百日間、自分の部落(銘苅)に通って、イモ掘って持ち運んでね。真和志村へ移動がばじまってから、私たちはずっと遅れて移動したけど、銘苅にすぐには入れずにね、真嘉比(手前の部落)に移住許可がおりてね、そこにも三か月ほどいてから、銘苅に入ったわけだよ。捕虜になってから1年半近く経ってね。

沖縄証言 銘苅 『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

 

1947年の解放

那覇のコマ切れ解放 - 下は1952年までに返還された地域。しかし1949年の空色の解放地区 (天久・安謝・銘苅) は再び1953年に強制接収され、米軍基地「牧港住宅地区」となる。

この図は、米軍による土地開放を年次別に図示したもので、段階的かつ野放図な開放のあり方を視覚的に把握することができる。開放のタイミングによって空間化される差異が、戦後那覇の市街地形成に多大な影響を及ぼしたことは想像に難くない。

加藤政洋・河角龍典・櫻澤誠「戦後那覇の都市化と地名の生成に関する地理学的研究」(2016年) pdf 

 

1953年4月 -「銃剣とブルドーザー」強制接収

銃剣とブルドーザーはこの土地から始まった。

そして米軍の住宅街が建設された。

 

戦争ですべてを奪われ、1947年、生まれ里にやっと帰ってこれたかと思えば、また6年後には「銃剣とブルトーザー」で追い立てられ、食べるものはおろか、住む場所まで奪われたのだった。

 

その目の前で、米軍のサバービア (高級住宅) が建設された。

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米軍 牧港住宅地区 中央やや上に、東急ホテル

米軍施設/牧港住宅地区(航空写真) : 那覇市歴史博物館

 

真和志村 銘苅・安謝・天久の牧港住宅地区 (1977年)

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那覇市歴史資料室収集写真/戦後/手前に安謝川口、58号線。

米軍施設/牧港住宅地区(航空写真) : 那覇市歴史博物館

 

1952年10月16日、米国民政府は、12月10日までに銘苅、安謝、天久の集落を明け渡すよう収用通告するが、立法院は、このような収用権原はないと主張。

1953年4月3日、米民政府は「土地収用令」を発行し、4月10日に収用通告、翌11日早朝に、武装兵に警護されたブルドーザーが次々と侵入し強制接収をはじめた。

 

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牧港住宅地区 - Wikipedia

 

天久の米軍住宅

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那覇(真和志市)/天久米人住宅地域 : 那覇市歴史博物館

 

潮満原か寄宮への強制移住

そして再び土地を接収された人々は過密地域に押しやられていった。

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写真でつづる 那覇戦後50年 1945-1995/写真番号239/P100/米軍の強制土地収用で天久銘苅の人々は同地に移動させられた。/(1954-1955)撮影場所 那覇/現・知事公舎付近 (那覇市宮寄)

宮城原の住宅密集地 : 那覇市歴史博物館

 

1987年、土地は返還されるも・・・

1975年から1987年に至るまでの13年間、全6回にわたって例によって例のごとく細切れ返還されたため、跡地開発になかなか着手できなかった。

シュガーローフ激戦地の跡地であるため、不発弾の処理、埋蔵文化財の調査、また遺骨収集など、途方もない時間がかかった。

 

たとえば日本銀行那覇支店の移設予定地だけで・・・

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きょう昼前、工事現場の地面から煙が出ているとの通報から陸上自衛隊の不発弾処理隊が出動し、煙が出ていたアメリカ製のロケット弾一発を処理しました。

現場の土の中からは、このほか全長およそ60センチのアメリカ製の迫撃砲弾23発艦砲弾、さらに小銃弾110発などが次々と確認されました。不発弾は合わせて140発にのぼり… 

激戦地から 日銀移転予定地に大量の不発弾 – QAB NEWS Headline

 

2003年 おもろまち駅の設置

日米地位協定で米軍には原状回復義務が問われないため、基地返還から20年以上、人が住めるとちになるため、膨大な時間と経費が掛かる。

 

1988年 那覇新都心土地区画整理事業施行区域の都市計画が決定する。

2002年1月 沖縄タイムスが移転
2002年10月 サンエー那覇メインプレイス開店。
2003年8月 沖縄都市モノレールゆいレール開通。おもろまち駅設置。12月おもろまち駅前広場利用開始。
2004年11月 沖縄県立博物館・美術館が着工。
2005年3月 DFSギャラリア・沖縄(空港外大規模免税店)開店。
2007年11月1日 沖縄県立博物館・美術館が開館。
2007年11月17日 第1回「那覇新都心まつり」開催。
2007年12月25日 日本銀行那覇支店が移転。
 

いま、「自分の土地が生きている」

土地の接収 そして返還後のまちづくり 屋冨祖良栄さん

琉球新報デジタル
2017年6月21日 16:00

モノレールおもろまち駅を起点に大型免税店やショッピングモールが立ち並び、地元客や観光客でにぎわう那覇市新都心。この街からは想像もつかないが、沖縄戦で激戦地となり、戦後は米軍に土地を接収されて1987年まで基地だった歴史がある“戦後沖縄の縮図”のような街だ。新都心地域の一つ、天久に生まれ、土地接収でこの地を追われた屋冨祖良栄さん(77)は「世の流れに従っただけ」と淡々と語る。

 

激戦地になった故郷 一度は戻ったが

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土地接収から返還までの歴史を語る屋冨祖良栄さん=2017年5月、那覇市天久(又吉康秀撮影)

 

1945年4月1日、米軍が沖縄本島中部に上陸。屋冨祖さんら天久の住民は本島南部に避難した。その間、現在の新都心地域は、日米の攻守が日ごとに入れ替わる激しい攻防戦が繰り広げられ、後に「シュガーローフの戦い」と呼称される激戦地となった。一家で摩文仁(現糸満市)に逃げていた屋冨祖さんは「どうせ死ぬなら天久で」と古里を目指し、北上する途中で米軍に捕まった。

 

米須(現糸満市)の収容所、嘉数(現豊見城市)、真嘉比(現那覇市)。天久の住民は2年間すみかを転々とし、1947年に古里に戻った。戦前の穏やかな農村はすっかり荒れ果て、壊れた戦車や不発弾が転がっていた。一家は戦前に住んでいた付近に再びかやぶき屋根の家を建てて暮らした。子どもたちにとって、艦砲で開いた大きな穴が遊び場だった。「艦砲弾を(水たまりに)投げて水しぶきを上げてわあわあ喜んでいるのよ。戦争なんか忘れて。楽しかったですよ」。屋冨祖さんは当時を思い出し、顔をほころばせた。

 

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激戦地となった那覇市安里のシュガーローフヒル沖縄県公文書館所蔵)

 

古里での生活もつかの間。1950年、米軍住宅を建設するため、米軍の司令を受けた真和志村(現那覇市)が天久地域から出るよう住民に通告する。移動先は天久から約300メートル西の潮満原か都市部の寄宮。屋冨祖さんたちは抵抗せず、潮満原への転居を決めた。「みんな行くのに。絶対服従さ」

 

米軍の土地接収は、現在の国道58号に近い天久側から東へと進み、新都心地域一帯に及んだ。屋冨祖さんが通っていた安里小学校は、安謝地域に新校舎ができる53年まで元の場所に残っていた。

 

屋冨祖さんら児童は、まだフェンスのない基地内に入り、米軍住宅が立ち並ぶ中を通って登校した。「米兵にパトロールカーを呼ばれたこともあった。ヘイヘイヘイ! 出て行けってね」「(米軍住宅)のちり箱を開けて捨てられた食パンを持って帰って食べたよ」。米兵が移り住んだことで事件も頻発した。米兵が地元の女性を暴行する事件も発生した。「基地があるとそういう事件がある。これは必ず起きる」

 

「自分の土地が生きている」

 

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商業施設が建ち並ぶ那覇市新都心地区=2014年7月

 

やがて基地には高いフェンスができ、学校は基地外の安謝に移転した。屋冨祖さん一家の土地は完全に基地の中に入り、立ち入ることができなくなった。基地内で働くために南部から移り住む人も増えた。

 

74年、日米合意によって米軍牧港住宅地区の返還が決まった。しかし返還は細切れで、全面返還の87年まで13年、その後も実際のまちづくりが進められるまで約10年かかった。屋冨祖さんの土地は天久地域の地主と共に市などに売り、現在は商業施設が建っている。屋冨祖さんは「うれしかった。自分の土地が生きている」と笑顔を見せる。

 

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2006年、屋冨祖さんらは聞き取りを元に、戦前の天久の大型模型を作成した。瓦屋根やバナナの木、豚小屋まで緻密に再現した。のどかな農村は、戦地となり、基地となり、今は県内有数の商業地域に変貌を遂げた。権力に翻弄された歴史。「世の中の流れに従っただけ。その時期に生まれたら仕方ない。昔の人は言ってるよ。『ゆーはゆー(世は世に)に従えって』」。屋冨祖さんはいとおしそうに模型を見つめ“戦前の天久村”に思いをはせた。

(田吹遥子)

 

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