米軍「本部飛行場」- その負担は誰が担うのか

 

米軍「本部飛行場」

概容

本部飛行場は沖縄戦のさなかの7月に日本本土進攻を目的としてアメリカ陸軍工兵隊とアメリカ海軍工兵隊シービーによって建設された。土地は強制接収され、当初、本部の住民は、もっとも運営状態の酷かった民間人収容所のひとつ、辺野古の大浦崎収容所に送られた。約2キロの滑走路1本を備え、主に第5空軍隷下の飛行隊が1945年10月に本州に移動するまで使用した。その後は、弾薬集積場、また後年には海兵隊のヘリコプターや戦車等の演習地として利用されたが、復帰前1971年に「返還」された。

  • 場所: 本部町(字豊原、字山川、字北里、字新里、字具志堅、字謝花、字浦崎)
  • 面積: 253.9ha
  • 施設: 滑走路(1,500 m×50m)、誘導路、駐機場

 

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内閣府 沖縄総合事務局 跡地利用対策課 の kmz データより制作。

 

本部飛行場は、美ら海水族館がある本部半島にあった米軍基地。上本部飛行場、桃原飛行場ともよばれた。また、本部飛行場の北側の備瀬にはフクギ並木に隣接して本部補助飛行場 ビースリー小飛行場(Cub Airstrip on Beasley Field)があった。また名護にも小飛行場、採掘所や軍港などが建設され、全体として本部半島は日本出撃基地として軍事拠点化されていた。

 

1945年7月1日 本部飛行場 - 建設開始

1945年6月27日 - 住民の強制移送

6月下旬、米軍は本部半島を基地化していくため、主に本部町今帰仁村伊江村の住民を、今の辺野古・大浦湾に設置した大浦崎収容所に移送し収容した。住民の移送は6月27日頃から開始された。

天然の良港、大浦湾に面した丘陵の谷間は、全くの不毛地帯今帰仁、本部、伊江島などの住民4万人は、牛島中将が自決した6月末、この谷間に収容され、同年11月までの4ヶ月間、栄養失調とマラリアで1日4~5人の死者を出すこともあった。(1945)

収容所生活/旧久志村大浦崎の収容所 : 那覇市歴史博物館

沖縄の基地化と収容所 - 大浦崎収容所

米軍は本部半島からの移送を比較的多く記録写真に残している。開始時点では時折笑顔も見られた米軍の記録写真であるが、住民の表情は収容所に到着する時点では固く暗い表象となっている。

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As the natives of Heshiki can take only as much as they can carry to their new home, they do a careful job of packing in the courtyard of their old home.

新しい家へは持てるだけの荷物しか運べないので、慎重に荷物をまとめる平敷の人々(1945年6月27日撮影)

(投稿者註: 原文の「new home (和訳: 新しい家) 」は、米軍が設けた民間人捕虜収容所を指す。実際に到着した土地は荒れ果てた平原で、テントもない状態であった。)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍が記す「新しい家」とは、島を横断し、日陰もテントもない収容地だった。

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At their new home after the long dusty trip clear across the island. Relatives waiting for them at unloading grounds show them where their area is.
島の端から端までの長い旅を終え、新しい家に着く。道案内をするため(トラック)乗降所で待っている親戚に会う。(1945年 6月28日)

※ 家は住民が自力で建てることになっているテントのことであると思われる。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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家族が多いほどテントも大きくなる。自宅として選んだ場所に大きな「病院用」テントを運ぶ大家族のメンバー6人が見える(1945年6月28日撮影)

The bigger the family the bigger the tent here are six of one large family carrying a big ”Hospital” tent up to the spot they chose for a home.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

床も敷物もなく、草むらの上に自らテントを張り座り込む人々。

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各種の食糧と水を確保しテントを建て終えると、女性らは食事をし、子供たちの世話をする(1945年6月28日撮影)

After all members have collected different kinds of food and water and the tent has been raised, the women eat and nurse their children.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

1945年7月1日 - 本部飛行場の建設

1945年7月1日: 日本本土進攻の偵察機用飛行場として建設が始められ、同8月6日には最初の飛行機が着陸した。2本の滑走路を持つ飛行場とされた。

 

Two landing strips were built at Motobu Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto; the work was done by men of the 1113th Hdq., Construction Group, the 822nd, 842nd, 183rd & 1897th Engineer Aviation Battalions. Construction was started on 1 July 1945 and on 6 August 1945, the first plane landed. This is an aerial view of one of the stages during the construction.
本部飛行場に作られた2本の着陸用滑走路。建設工事は1945年7月1日に第1113司令部建設群、第822、842、183、1897工兵航空大隊によって始められ、同8月6日には最初の飛行機が着陸した。撮影地 本部 1946年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

下の写真は飛行場の名称が記されていないが、上のデータと一致するため、本部飛行場と考えられる。日本本土への爆撃を想定し、爆撃機用の滑走路2本が建設された。そのため石灰岩の舗装は分厚いものとなる。

米国空軍: This strip was a heavy bomb strip and aircraft of the 5th Air Force operated from here. Two strips were planned, 300 feet × 600 feet being 15 feet apart, and constructed by 1113 Headquarters Construction Group 822nd, 842nd, and 183rd and 1897th EABS. The Strips were started July 1st and the first plane to use this strip landed August 6th. Construction of this strip move rapidly due to the great abundance of coral on location. Strips face northeast by southwest.
 第5空軍所属重爆撃機の滑走路。15フィート間隔で300×600フィートの滑走路が2本、1113司令部第822、842、183、建設群及び第1897工兵航空大隊によって建設された。7月1日に利用(建設※)開始、第1機目の着陸が8月6日であった。工事は大量の石灰岩のおかげで迅速に進められた。滑走路は北東南西方向。沖縄。撮影日 1945年7月31日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米国空軍: 91st Photo Reconnaissance Wing Headquarters area located near the Motobu Strip. The wing arrived in early July and was set up immediately. In upper left, can be seen the Service Command; lower center, wing Headquarters; upper right, Photo Tech. Squadron
本部滑走路近くの第91上空写真偵察航空団司令部。航空団は7月上旬に入ってきた。写真左上は空軍司令部、中下は航空団司令部、右上は写真中隊。沖縄本島本部 1945年7月31日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

大型戦闘機P-38ライトニング離発着を可能にさせる滑走路は分厚い石灰岩で舗装された。

米国空軍: Lockheed P-38 “Lightnings“ of the 8th Photo Reconnaissance Squadron on Motobu Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto. This is the first Air Corps unit to use this newly constructed strip in the 5th Air Force area, and is the oldest outfit overseas that operated from Australia through all campaigns to Okinawa.
本部飛行場に停留する第8上空写真偵察中隊ロッキードP-38ライトニング。第5空軍地区に新しく建設された飛行場を使うのはこの空軍編隊が初めてで、オーストラリアから沖縄まですべての軍事行動を行ってきた最も古い一団でもある。1946年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

米軍「本部飛行場」- その負担は誰が担うのか

1947年: 周辺地域を接収し拡張整備を行い、幅50m、長さ1,500mの滑走路、誘導路などを建設。

1969年6月30日: 一部返還 (216,642坪 滑走路周縁部)
1971年6月30日: 全面返還 (551,569坪 滑走路) 返還

 

今も昔も、米軍の「返還」とは、原状回復なしの使い捨て「返還」である。大型戦闘機用に10cm以上も分厚く敷き詰められた石灰岩は、返還されても大がかりな予算なくしては原状回復は極めて難しい。

 

この状態で「返還」されて6年後。

 

上原康助議員: しかも、いま海洋博やら何やかんやでどんちゃん騒ぎしているのですが、それは、その海洋博の中心のところにあるんだ。… いわゆる旧上本部飛行場というのは、その面積が約72万坪で、そのうち17万坪は、昭和44年6月30日で返還をされて、残りの55万坪は、昭和46年6月30日付で返還されているんですね。だから、復帰前の返還には間違いない。しかし、現在に至るまで、アメリカも復元補償はしない政府も復帰前のことだからということで、もうなしのつぶて。46年の6月30日付で返還されて、その後、地籍の調査も全然されていない。区画の整理もできない。地料も入らない。予算委員会で山中大臣は、そういうところについては、復帰後の返還については、地籍の確定ができるまでは、賃貸料に相応する額は払うということを、この前、私への答弁に明言なさった。こういう問題が取り残されているんですよ。このことは一体だれの責任なのか。… この処理は一体だれがやるのかということは、明確にしておいていただきたいと思うのです。その間の損失補償は一体どうするのか。周辺整備もいいのだが、むしろ、こういった復帰処理として残された問題をやるのが、もっと県民のためになりますよ。それを実際望んでいるのです。その復元補償の早期解決というのは、一体どうなるのか。しかも、靖国ではないんですが、この返還された施設の中には、墓が二百五十墓もある。関係者は三百世帯もいる。遺骨も収集できない、ギンネムはえて雑草地になっているから。これは一体、アメリカの責任なのか、政府が責任を持ってやるのか、こんなことぐらいは、はっきりしてもらわないといかないと思うのです。

第72回国会 衆議院 内閣委員会 第30号 昭和49年5月16日

 

1980年 - 海自アズオック基地建設計画

米軍が強制接収した土地をそのまま自衛隊基地にしようとするもくろみが進む。

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上本部(本部、上本部補助、桃原)飛行場跡地: 空港探索:SSブログ

 

再びの軍事拠点化に住民は根強い反対運動で抵抗する。

  • 1978年: 沖縄開発庁 (当時) が境界不明地域として調査を開始。
  • 1980年2月11日: 地籍が確定。
  • 1988年: 防衛庁(当時) が海上自衛隊 P3C 哨戒機用基地(アズオック ASWOC 対潜水艦戦作戦センター用送信所)の建設計画を発表。建設用地の取得(買受・賃貸)を開始したが、地元住民の反対が起こる。
  • 1993年: ASWOC用送信所建設反対町民運動総決起大会が開催される。
  • 2008年7月: P3C哨戒機用基地(ASWOC用送信所)建設計画の中止が発表される。

 

2009年 - 地元への土地返還

米軍は基地を作るが、後片付けすることもなく、そのままポイ捨てだ。そこに自衛隊が新基地を作ろうとする。住民は何年もかけて見張り小屋を作り、ついに返還させた。

 

  • 2009年3月: ASWOC用送信所建設用地の民有地の賃貸契約が期限切れとなり地主に返還される。
  • 2011年4月25日: ASWOC用送信所建設用地として買収された国有地(防衛省行政財産)が用途廃止され、普通財産として沖縄総合事務局(財務部)へ引継ぎされる。
  • 2013年2月1日: 残りの国有地を7480万円で本部町が買い取る。
  • 2014年、沖縄ハム総合食品が農業生産法人「もとぶウェルネスフーズ」を立ち上げ、農産加工場を建設する構想。
  • 現在、飛行場跡地は農地や太陽光発電施設、民家、本部町立上本部小学校がある。舗装した滑走路の原状復帰には数億円かかるとみられるため、現在も滑走路の一部が残っている。

 

日本政府は、「沖縄返還」という施政権移行に乗じて、多くの米軍基地をそのまま自衛隊基地に移管させ、それを「返還」とよんだ。そんなものは「返還」ではなく「移管」である。

 

米軍は、土地をこのようにして「返還」する。

日米地位協定では米軍は荒れた滑走路をそのまま引き渡す。そのため滑走路の舗装は今も復興や自然すら拒絶したまま残る。

 

日米地位協定 第四条
1 合衆国は、この協定の終了の際又はその前に日本国に施設及び区域を返還するに当たつて、当該施設及び区域をそれらが合衆国軍隊に提供された時の状態に回復し、又はその回復の代りに日本国に補償する義務を負わない

 

日本が米軍に与える「特権」は、つねに沖縄に押しつけられる。

 

今の「本部飛行場」

 

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