1962年10月28日未明、読谷の核巡航ミサイルメースBに発射命令がくだされた - 県民のあずかり知らぬところで沖縄が世界核戦争の前線に仕立てあげられていたこと、それは決して終わった話のことではない。

55年前の今朝。

 

一夜明けて世界は、

この沖縄の地から核戦争へと突き進んだかもしれない。

 

その出来事を肝に銘じておきたいのだ。

 

冷戦時代、

アメリカ統治下で、読谷村恩納村うるま市金武町の県内4カ所に各巡航ミサイル「メースB」の基地拠点が秘密裏に作られ、各8基が配備、計32の発射台が、ソ連や中国を標的にしていた。

  

そして

1962年10月28日未明、

 

嘉手納のミサイル運用センターから読谷の発射基地に各巡航ミサイルの発射命令が届く。

 

この時、一歩間違えば、沖縄を導火線として世界核戦争が引き起こされていたはずだ。

 

< Review >

沖縄と核・・・。

米軍統治下の沖縄に最大1300発の核ミサイルが配備されていたことを機密資料などを掘りだして検証したNHKのスクープドキュメンタリー「沖縄と核」は、その衝撃で沖縄の地を鳴動させた。

 

ospreyfuanclub.hatenablog.com

 

翁長雄志知事は9月27日の県議会で「大きな衝撃を受けている」と感想を述べ、また沖縄の吉田勝廣政策調整監は、この沖縄と核について13項目を外務省に照会したと語った。 

沖縄県、「核配備」を外務省に照会 報道巡り計14項目 | 沖縄タイムス+プラス

 

 

沖縄はそこに住む我々のまったくあずかり知らぬところで

アジア最大級の1300という核を配備させられ、

核戦争の舞台の最前線へと押しやられていた。

 

小坂善太郎外相はラスク米国務長官に「メースなどを持ち込む際、事前に発表されるため、(沖縄で) 論議が起きている。事前に発表しないことはできないか」と打診。

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なんの真実も伝えられず、

1300という核弾頭のかたわらで

核危機の最前線に人質として命をさしだされていたようなものだ。

 

いまも燻る、核兵器配備疑惑。

「核配備調査を」 全基地撤去求め集会 ミサイル基地跡地も視察

 2017年10月27日 14:16 琉球新報

 【中・北部】市民団体「カデナ・ピースアクション」は27日午前、嘉手納町沖縄市の境にある米軍嘉手納基地の弾薬庫前の県道で、嘉手納基地への核兵器配備の調査や弾薬庫を含む全基地の撤去を求めて集会を開いた。雨が降る中、約160人が集まり「弾薬庫撤去を」「土地を返せ」などと書かれたプラカードを掲げ、抗議の声を上げた。

 

 

あたかも時効かのように

誰も責任をとらぬまま、

アメリカの核の傘を妄信し

政府の詭弁と甘言を疑うことも忘れた国民が

憲法改正、新基地建設、自衛隊配備に

手をあげて流されていることを思えば 

 

そこに生きる人間を無視して核配備し、

それで人権だの民主主義だのとは笑える。

 

米軍基地が沖縄にある限り、

民主主義の衣をかぶった独裁と核戦争のボタンは、

いまも私たちのそばにある。

 

核戦争の深淵のぞく 62年、一触即発の発射態勢 ボタン握った米兵たち

47NEWS

2015年02月28日

 

核ミサイル・メースBをバックにしたジョン・ボードン氏(左上)とビル・ホーン氏のコラージュ

核ミサイル・メースBをバックにしたジョン・ボードン氏(左上)とビル・ホーン氏のコラージュ

 

 「あの時、もう戦争は避けられないと思った。デフコン(防衛準備態勢)が準戦時態勢に引き上げられた際は、顔から血の気が引いた」

 「米国には二度と帰れないと思った。われわれが核ミサイルを放ち、ソ連も発射したら、帰れる場所はなくなるから」

 1962年秋、ソ連が米国を射程に収めた核ミサイルをキューバに搬入、米大統領ジョン・F・ケネディが軍事作戦を検討し、米ソ核交戦の手前まで行ったキューバ危機。極度の緊張が世界を襲う中、キューバから地球の裏側にある沖縄に、核戦争の 深淵 (しんえん) をのぞいた男たちがいた。

 沖縄に配備された核巡航ミサイル・メースBの「ボタン」を握った米軍兵だ。このほど複数の退役兵が、一触即発の発射態勢に置かれていた「沖縄の核」について証言した。2回にわたり彼らの肉声を紹介し、偶発的核使用のリスクを考える。

 

        2013年5月に報道関係者に公開された、沖縄県金武町にある核ミサイル・メースB発射基地の施設跡

2013年5月に報道関係者に公開された、沖縄県金武町にある核ミサイル・メースB発射基地の施設跡

▽標的は中ソ

 「沖縄に到着した時、ミサイル発射基地はまだ建設中で、大きな穴にコンクリートが流し込まれていた。地元作業員と一緒に土木作業を行った」

 テネシー州クックビルに住むビル・ホーン(71)は米空軍第873戦術ミサイル中隊の一員として61年9月、嘉手納基地(沖縄県嘉手納町など)に着任。その後、読谷村にメースBの発射基地が完成すると、嘉手納からバスで読谷に通った。

 「最初のミサイルが運び込まれたのは62年1月1日。約1週間で核弾頭付きの計8基を搬入し、(発射)待機状態にした」。ホーンの同僚の元ミサイル技師、ジョン・ボードン(73)=ペンシルベニア州ブレイクスリー在住=はこう証言した。

 読谷村に加え、恩納村、現在のうるま市金武町の県内計4カ所に基地が造られ、各8基のメースBが配備。計32の発射台東シナ海の向こうの中国とソ連をにらんだ。

 ボードンらの任務は、24時間体制でメースBを命令があれば即刻発射できる状態にしておくことだった。普段は、ミサイルの動力をいったん落とし、弾頭や先端部分の覆い、操縦システムなどを点検した後、再び発射可能にする「リサイクル」と呼ばれる作業を行う。

 発射台の温度が40度近くになることもあり、作業は1~1・5時間。8時間シフトの残りは、発射管制室の脇にある控室でカードゲームに興じながら、いつ来るかもしれない発射命令に備えた。

 メースB発射基地の心臓部である発射管制室は地下約20メートルに建造。敵の核攻撃にも耐えられるよう設計された。

 

▽暗転

 嘉手納と読谷をバスで往復し、リサイクルとカードゲームを繰り返す単調な毎日。そんな日常が62年秋、暗転する。

 「諸君、キューバでゆゆしき事態が進行中だ」。62年10月5日、ボードンはシフト前の定例ブリーフィングで上官から、キューバで中距離ミサイル基地建設の動きが進んでいると伝えられた。

 ボードンは当時の日記を基に沖縄での体験を未出版の回想録に詳述しており、一部を引用しながら証言を続けた。

 「このブリーフィング後、事態はより深刻化した。『これまで訓練してきたことをいよいよ実践しなくてはならないのか』と思うようになり、キューバと人類の運命を深く案じた」

 

▽時計の針

 

 ボードンによると、メースBの担当官は62年9月の時点で「シートに覆われた細長い形状の貨物を積んだ船がソ連方面から航行中」との情報を耳にしていた。だがこの段階では、積み荷をミサイルと分析していた米中央情報局(CIA)も、多数の貨物船がどこへ向かうのか分からなかった。

 その後9月下旬から10月にかけ、その航跡が徐々に明らかになる。ホーンは「米軍潜水艦がキューバに向かう船舶を追跡していた」と語った。

 核のボタンを預かる沖縄の米兵が早くからキューバ情勢を注視する中、最高司令官のケネディが「ミサイル基地建設」の最初の極秘情報に接したのは10月16日。以降、大統領は関係閣僚と側近だけを集めた最高幹部会を連日開き、空爆海上封鎖の選択肢を検討した。

 そして、ミサイル貨物船の航行を阻止する海上封鎖と臨検を決めた大統領は10月22日、国民向けテレビ演説で、ソ連によるキューバへのミサイル搬入を初めて公表した。

 これと同時に米軍は、計5段階のデフコンを一つ引き上げ「3」に。米ソ開戦を意味するデフコン「1」へと「核時計の針」(ホーン)が一つ進んだ。

▽アジア最大の「弾薬庫」 メースB、沖縄の核を象徴

 1972年の沖縄の本土復帰まで、米施政権下の沖縄には最大時で約1300発の核兵器が配備されていた。その数は韓国や台湾に搬入された米軍核戦力を大きく上回り、沖縄はまさにアジア・太平洋地域における「最大の核弾薬庫」だった。

 沖縄に持ち込まれた核の中でも、県内四つの発射基地に配備されていた核巡航ミサイル・メースBは「沖縄の核」を象徴する存在だった。射程は2千キロ超で、中国と極東ソ連を核攻撃の標的下に収めた。

 日本の外交文書によると、日本政府は被爆国の反核世論を意識して、メースBの沖縄搬入に神経をとがらせた。61年11月、小坂善太郎外相はラスク米国務長官に「メースなどを持ち込む際、事前に発表されるため、論議が起きている。事前に発表しないことはできないか」と打診している。

 今回証言した元米兵によると、メースB発射基地は3シフト交代の24時間体制。各基地に計8基が配備され、7人編成のチーム二つが各4基を管理運用していた。

 メースBの撤去が正式に決まったのは、「72年の核抜き返還」で日米が合意した69年の首脳会談。佐藤栄作首相とニクソン大統領は撤去方針発表で核抜き返還の意義を強調する一方、将来の沖縄への核再持ち込みを認める密約を新たに結んだ。

キューバ危機

 キューバ危機 ソ連は1962年、米国が打倒を目指すキューバカストロ政権を支援しようと、中距離核ミサイルを搬入。10月16日に報告を受けたケネディ大統領は22日に実態を公表、ミサイル基地撤去を求めキューバ海上封鎖した。米国はキューバからのミサイル攻撃への報復も宣言、核戦争の緊張が高まった。秘密交渉を経て米国はキューバ不可侵と、 トルコからの 対ソ攻撃用のミサイル撤去を約束。ソ連は28日に基地撤去を通告し13日間の危機は去った。

共同通信編集委員 太田昌克、敬称略)=2015年02月28日

 

【核70年の黙示録】(3)「沖縄とキューバ危機(下)」

 

脳裏よぎった文明の破滅 誤った発射命令、現場混乱 「核戦争防いだのは運」

47NEWS

 

「大統領の演説中はまるで教会のような静けさだった。テレビの前には200人ほどの人だかりができ、演説後は誰も口を利かなくなった。皆ぼうぜんとし、ショックを受けていた」

 1962年10月23日朝、沖縄の米軍嘉手納基地。第873戦術ミサイル中隊の技師ジョン・ボードン(73)=ペンシルベニア州ブレイクスリー在住=が見詰めるブラウン管には、険しい表情をした米大統領ジョン・F・ケネディの姿があった。

 ケネディは日付がまだ22日のホワイトハウスから米国民にこう訴えた。「『とらわれの島』で攻撃用ミサイル基地建設の事実が判明した。目的は西半球を核攻撃する能力構築以外にあり得ない」

 ケネディソ連キューバに核搭載用の中距離ミサイルを配備したと糾弾し、演説を続けた。「一体どれだけのコストと死傷者が出るのか、予測もできない。犠牲と自制の歳月が待ち構えている。しかし最大の危険は何も行動しないことだ」

 

        沖縄・読谷村にあったメースBの発射基地概要図。当時の日本政府関係者が記録し、その後所蔵していた(共同)

 ▽両親に疎開促す

 キューバへの空爆を検討していたケネディは演説で、国民に有事への覚悟と忍耐を求めた。ボードンはじめ、沖縄で核巡航ミサイル・メースBの運用を担当する米兵の脳裏には、米ソ核戦争のシナリオがよぎった。


 「とても不安になった。(出身州の米東部)ニュージャージーにいる家族や友人が心配で…」。それまで淡々と証言していたボードンが突如、言葉を詰まらせ、目にうっすら涙を浮かべた。

 大統領演説の前からキューバ情勢をめぐる機密情報に接していたボードンは両親に国際電話をかけ、自宅から南部のノースカロライナ州疎開するよう促した。だが機密漏えいは法に触れるため、ニューヨークがソ連の核攻撃対象であり、核交戦になれば実家も被害に遭うことは、肉親にさえ伝えられなかった。

 

 ▽戦争の一歩手前

 ボードン同様、沖縄・読谷村のメースB発射基地に 技師として勤務した ビル・ホーン(71)=テネシー州クックビル在住=も大統領演説を聞き「もう二度と家には帰れないと思った。平和は終わり戦争が起きると皆考えていた。文明が完全なる破滅に最も近づいた瞬間だった」。

 そして大統領演説から間もない10月24日、事態は緊迫の度合いを一気に増す。核戦争時の司令塔となる戦略空軍が 「デフコン(防衛準備態勢)」を3から準戦時の2 に引き上げたのだ 。

 「デフコン2は非常に憂慮すべき事態だ。なぜならデフコン1は全面戦争を意味するから。2は戦争の一歩手前だ」
 沖縄・恩納村のメースB発射基地に配属されていた ラリー・へーブマン(73)=ネバダスパークス在住=はこう回想し、「核ミサイルがすべて発射されれば、地球には物も人もほぼ何も残らない。今でもぞっとする」と言葉を継いだ。
 デフコン2の発令により、米軍の核部隊は15分で戦闘可能となった。

 

 ▽現存する脅威

 悪いことが続いた。10月27日、キューバ上空を飛行中の米U2偵察機が撃墜、緊張状態は頂点に達した。そして直後に、読谷村のメースB発射基地で異変が起きる。

 ボードンの証言と未出版の回想録によると、28日未明、発射基地地下にある発射管制室の無線が鳴った。「オー・マイ・ゴッド…」。同僚が叫ぶと、室内は騒然となる。

 嘉手納のミサイル運用センターから発射命令が届いたのだ。技師、副官、発射指揮官の順で3段階にわたり、送られてきた暗号が各自にあらかじめ与えられていた暗号と合うかどうか照合した結果、すべてが一致した。

 「しかし、標的情報を読み上げたら(自分が担当する計4基の)ミサイルのうち1基だけがソ連向け。残り3基は別の国を狙えとあった。なぜ関係ない国を巻き込むのか。何かおかしいということになり、発射指揮官が『命令の真偽を見極めよう』と言い出した

 ボードンはこう語り、理由は分からないが、発射命令が間違って伝達されていたと明言した。沖縄にある他の三つの発射基地にも誤った命令が同時に出されていた。

 ボードンは「別の国」を明らかにしないが、約2200キロ超の射程から、中国とみられる。

 当時の国防長官ロバート・マクナマラは生前こんな言葉を残している。

 「核戦争を防いだのは運だった。ケネディと(ソ連最高指導者の)フルシチョフ、(キューバ指導者の)カストロは理性的だった。そんな理性的な人々が自分たちの社会を完全破壊する寸前にいた。脅威は今も存在する」

 

 ▽ 現代に重大な教訓 サイバー、偶発使用の脅威 

 1962年のキューバ危機時に沖縄の核ミサイルが発射寸前の状態にあった事実は、約1万6千発の核兵器が現存する今日にも重大な教訓を突きつけている。それは偶発的核使用の恐れがゼロではないという現実だ。核保有国の核兵器統制システムがサイバーテロの標的となるリスクもある。

 

 危機当時、沖縄のメースB発射基地に配属されていたラリー・ヘーブマンはこう語る。「ミサイル発射のために沖縄にいた。撃てと命じられていたら、そうしていただろう」。命令に背くと軍法会議にかけられ、厳罰に処せられる下士官兵には他に選択肢がない。

 

 別の証言者ビル・ホーンは「(核兵器の管理システム自体に)大きな誤りがある。気の狂った発射指揮官がいて『戦争を始めよう』といい出したら(偶発的核戦争が)起こり得る」と言明。ジョン・ボードンも発射担当者が「ならず者化」する危険性に警鐘を鳴らす。

 

 テロリストがチェック体制をくぐり抜け入隊し、核兵器運用に携わる仕事に就かないとの保証はない。

 「核のボタン」を握る政治指導者と連絡が取れなくなる有事に備え、軍部に核使用の限定的な裁量が今なお認められている可能性がある。米国のみならずロシアや英国、パキスタンなどにも通底する問題だ。(敬称略)

 ◎デフコン

 デフコン 米軍の各部隊が取る防衛準備態勢で、最高度の1から5までの5段階。1は敵の侵略や攻撃準備を受け、戦争突入へ向けた極度に高い準備態勢で、核兵器での反撃も想定している。2は準戦時態勢を意味し、1962年10月のキューバ危機時に戦略空軍(現在の戦略軍)がこの態勢を取った。これまで1に引き上げられたことは一度もない。

共同通信編集委員 太田昌克、敬称略)=2015年03月28日