普天間基地は何もないところだったの !?
Question 1-2 何もないところに普天間基地が建設され、住民が後から周りに住み始めたの???
現在普天間基地が占めている場所は、沖縄戦で破壊されるまで、8,800人の住民がいる農村部でした。ここには、村役場、小学校、郵便局があり、砂糖キビ絞りの小屋や闘牛場、天然記念物の松並木もあり、当たり前の生活が営まれる場所でした。
この時の写真は、➊ 字宜野湾郷友会編『写真集じのーんどぅーむら』に収められています。また、米軍が1945年沖縄戦前に撮影したこの地域の偵察航空写真が公開されており、それには、畑や家々がはっきり写っています。この一部は、宜野湾市教育委員会編『ぎのわんの地名 内陸部編 付録地図』に収録されています。
また、現在でも普天間基地内には、当時の住民の ➋ 墓地や拝所(祈りをささげる場所)が残されている場所があり、米軍は、沖縄で先祖を祭る日である清明祭や盆には、旧住民の基地内の墓参り等を許可しています。
普天間飛行場は ➌ 沖縄戦で上陸した米軍が「本土爆撃用」にそこにあった住宅、集落、学校、畑などを敷きならして勝手につくった飛行場です。戦火を避けて住民が避難していた(あるいは米軍の捕虜になって収容所にいた)間のことです。 写真は、1945年6月、米軍による普天間基地造成中の写真で沖縄県公文書館が所蔵しています。戦前の普天間主要道路の松並木がはっきりとわかります。住民は戦後、自分の土地に戻れず、普天間基地の周辺に住まざるをえなかったのです。
今も、➍ 3,000人以上の地主に普天間の地料が毎年払われているのが、人が住んでいた何よりも明瞭な証拠です。インターネット上にある、「何も無かった」証拠の航空写真は、飛行場の造成工事中に撮ったものだから「何も無い」のです。
(佐藤・真喜志)
➊ 字宜野湾
➋ 基地内の墓地や拝所
普天間基地内の墓 1年ぶりに墓参り(シーミー:清明祭) - YouTube
(写真)米海兵隊普天間基地のフェンス内に現存する、屋根が亀の甲羅に見える沖縄独特の亀甲墓(かめこうばか)群=宜野湾市
世界一危険と言ったのは元ラムズフェルド米国防長官だ。占領の歴史に目をつぶることは許されない。
在沖米総領事の暴言 「住宅密集は不思議」というが…/普天間基地の墓は語る/住民から土地奪った証拠
2012年9月8日(土)
「普天間基地は世界一危険ではない」「(基地周辺に)どうして住宅が密集しているのか不思議」。アルフレッド・マグルビー在沖縄米総領事の就任会見での発言が沖縄県民の怒りをかっています。・・・
なぜ米軍基地内に墓が―。答えは簡単です。沖縄県と宜野湾市教育委員会が2010年にまとめた「普天間飛行場内遺跡地図」(中間報告)に<
こうあります。
同基地内の地籍の5109筆中、宅地620筆、墓地542筆を確認。「これは2割が戦前、ここで人々が利用していたことになります」(宜野湾市役所文化課)
先祖の墓すら基地のなかに奪われてしまった。
2016年4月18日 05:03
【宜野湾】米軍普天間飛行場内で17日、シーミー(清明祭)が執り行われた。同日までに入域を申し込んだ約490人が次々に訪れ、墓参りした。返還合意から20年たっても飛行場は居座り、ことしも米軍の“許可”による清明祭となった。
天久盛善さん(76)=宜野湾市嘉数=と親戚約20人もこの日、基地内の先祖の墓に集まった。天久さんは「親戚で集まり、先祖に日ごろの報告をするだけなのに許可が必要なのか」と複雑な思いを語った。
幼いころは基地内外を隔てる金網はなく、自由に墓を訪れていた。1960年代に県外に進学して帰ってくると、金網が張り巡らされて許可制になっていた。
しつこく身分を確認されることもある。親戚の一人は墓前まで警備員に見張られた。「米兵は自由に基地内外を行き来しているのに、市民はいけないのか」と眉をひそめた。
➌ 沖縄戦と収容所に隔離されてる中に基地が作られた。
沖縄戦のただなかから基地建設は始まった。前線で戦い、後方では基地建設。1945年6月15日に普天間飛行場の滑走路建築が始まる。ターンナプルですべてを引きつぶして整地にした。
第806工兵航空大隊が、この7500フィート(約2286m)の滑走路建設に着手したのは、1945年6月15日
完璧につぶされたローラーの向こうに普天間の松並木が見える
【原文】 Bulldozer pushing a turnapull to scrape load for another turnapull at Futema airfield.
【和訳】 普天間飛行場で他のターンナプル(整地用重機)のために、ターンナプルを押して地ならしをするブルドーザー
撮影地: 普天間 撮影日: 1945年 6月
沖縄戦のさなかに、米軍の後方では着々と普天間基地建設がすすめられた。それは本土を攻撃するためのものだった。
【原文】 Views of construction work being done on Futema Airfield.
【和訳】 普天間飛行場での建設工事の様子
撮影地: 普天間 撮影日: 1945年 6月
その時住民は収容所に・・・。その収容所での県民の暮らしを写真で記録に残したのも米軍だ。
『沖縄の基地化が明確になるにつれ、民間人は住んでいるところからさらに別のところへ移動させられた。この移動は最初は収容キャンプへ、次は人口密集地域の沖縄本島の3分の2を占める南部から比較的人口のまばらな北部の不毛の山岳地帯国頭方面へという具合に行われた。しかしそのような傾向が明確に現れる以前に、軍の方針がいろいろ変わり、そのたびに住民は収容所に閉じ込められたり、解放されたり、かと思うとまた閉じ込められたりを繰り返さねばならなかった。基地建設計画は拡大されたかと思うと修正されあるいは縮小されたり延期になったり、絶えず再検討を繰り返していた。そして当然のことながら住民もそれの中に翻弄されたのである。』
【原文】 A civilian compound area in southern Okinawa where Marine Corps supplies them with tents and badly needed medical equipment & care.
【和訳】 沖縄本島南部にある民間人収容所。海兵隊はテントを供給し、特に必要とされている医療器具を与え医療措置を施した
撮影地: 撮影日: 1945年 6月
➍ 3,000人以上の地主
地主数、3722人 米軍が払うわけなく、日本が支払う。
➎ 誰が「普天間空き地デマ」を言い出したのか
普天間飛行場の成り立ちと主な事故
度重なる事件事故基地問題と県に業を煮やす米軍は、「米軍基地が沖縄に先にできて、そこに沖縄県民が後からやってきた」という言説を使った。
ある沖縄にいたことのある退役軍人のための英語サイトで、民家に火をつけ家を重機で壊すとき、当時は何も思わなかったが、今時々思い出して、そこに暮らしていた人々のことを思う、と語っていたが、そういう証言を一つ一つ集めなければいけないほど歴史は歪められているのだろうか。破壊と造成、その第一の証人は米軍であり、米軍の退役軍人である。
普天間「空き地」論。
この論がたちの悪い冗談のように「いびつ」であるのは、
米軍が沖縄県民よりも先にこの島に存在していたわけはなく、基地が作られなければ、沖縄県民は土地を失ったりはしなかったということだ。
米軍は、県民のほうが米軍基地に依存して基地の周りに集まったというが。
皆さんがご存じのとおり、米軍が我々から土地を奪い、さらには駐留経費も地代も支払ってなどいない。
すべて我々の税金である。
それだけでもわかるだろう。
どちらが沖縄に依存しているのかということが。
沖縄県民が米軍基地に依存しているのではない。
米軍基地が沖縄に依存している。
普天間空き地論は
それをごまかすための詭弁。
そして作家の百田尚樹氏は、歴史家でもなく、駐留軍である米軍の言い分をエコーしているだけの、とんでもない「愛国」御用作家ということです。