軍用接収地 宜野湾伊佐浜 「金は一年土地は万年」の幟
❶ 沖縄の基地問題の根源は、軍事占領地域において人々の所有権を保障した ❷ ハーグ陸戦条約の違反にあります。米軍は、沖縄戦の最中、住民を強制収容している間に、地主の同意もなく土地を取り上げて基地建設を開始し、戦後もそのまま占領し続けました。これは国際法が違法としている重大な人権侵害です。
日本の講和条約発効後は、米軍は借地料の支払いを開始します。しかし、借地料の支払いが、地主の意思を完全に無視し、所有権を侵害したという事実を正当化することはできません。さらにその後、❸ 米軍は伊江島や伊佐浜において住民に土地の権利はないとして、新たな土地の強制接収を開始しました。
また、➍ 辺野古の基地については、米軍支配のもとに、軍を投入した強制接収か、形としては契約による提供かの二者択一を脅しのもとに、選択させられたものです。米軍による土地の接収以外の選択肢がない条件のもとに半ば強制的に基地を受け入れざるを得なかったということであり、強制もない状況で住民の自由な意思のもとに誘致したものではないのです。これも住民の土地の権利に対する侵害であり、その後、たとえ米軍が土地代を支払っていたことや、基地の門前町として利益があったことでは、土地の権利の侵害に基づく辺野古基地の建設を正当化できるものでありません。(『辺野古誌』631頁〜634頁)
人権侵害は、その代わりに経済的利益を与えることや、重要な軍事目的があるからという理由によって、許されるものでありません。
❶ 軍事占領
1945年から1972年まで、沖縄は「米軍による軍事占領」下にあった。
1972年の日本返還までの沖縄は米国に統治されていたのか、占領されていたのか。研究者の間でも論争が続く問いに山口県立大の吉本秀子准教授は「軍事占領だった」と結論付ける。米公文書館で米国防総省などの資料を読み込んだ成果はこの春、「米国の沖縄占領と情報政策」(春風社)として出版された。その目には、戦後70年を経ても現実を直視しない日本の姿が映っている。
45年8月15日の敗戦から72年まで米国は沖縄を施政権下に置いた。連合国のうちオーストラリアやニュージーランドなどから、長引く駐留に批判が起こった。「外交を担当する米国務省には批判はまずいという認識があった」と吉本准教授は言う。
だが、沖縄への対応を担い続けたのは国務省ではなく、軍だった。50年には「軍司令官が経済政策の全責任を負う」とする戦時指令が更新され、最終責任者を国防長官とするUSCAR(米民政府)が設置された。
その後の陸軍参謀文書にその体制を変更する指令が出された形跡はなかった。土地収用も統合参謀本部の指令で行われた。
基地だけでなく経済的な施策もすべて、責任を負っていたのは軍だった。のちに軍司令官は「高等弁務官」という文官を思わせる名称に変更されたが、軍人であることに変わりはなかった。
米国は沖縄への対応について一貫して「統治」と表現してきたが、実態は「軍事占領」だったということが米軍の文書からも裏付けられたと吉本准教授は考える。
USCAR: 琉球列島米国民政府(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)
《AIによるカラー処理》新琉球行政政府ビルの写真を見る(左から)民政官ルイス大佐、工兵隊レイン大佐、工事の発注を受けた国場組社長国場幸太郎氏、USCAR公益事業局長ウェステンバーガー氏。新庁舎は那覇市に建てられる。
撮影地: 那覇 (1951年 6月30日)
❷ 軍事占領の継続はハーグ陸戦条約違反
ハーグ陸戦条約(1899年)
第42条:一地方が事実上敵軍の権力内に帰したときは占領されたものとする。占領はその権力を樹立し、かつこれを行使できる地域をもって限度とする。
第46条:家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産ならびに宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない。私有財産は没収できない。
第47条:略奪はこれを厳禁とする。
第53条: 一地方を占領した軍は、国の所有に属する現金、基金及び有価証券、貯蔵兵器、輸送材料、在庫品及び糧秣その他すべて作戦行動に役立つ国有動産のほかは、これを押収することができない。海上法によって支配される場合を除き、陸上、海上及び空中において報道の伝送または人もしくは物の輸送の用途に提供される一切の機関、貯蔵兵器、その他各種の軍需品は、私人に属するものといえどもこれを押収することができる。但し平和克復後にこれを還付し、かつこの賠償を決定しなければならないものとする。
❷ 米軍は戦後も伊江島や伊佐浜で強制接収
銃剣とブルトーザー
サンフランシスコ講和条約発効後、米国民政府は布令91号によって「契約権」を公布し、賃貸借契約による土地の継続使用を確保しようとしました。しかし、賃貸借期間が20年と長く、一坪の年間賃料は2セント程度とただ同然であったため、契約による土地取得を断念しました。
米国民政府は、1953年に布令109号によって「土地収用令」を公布し、真和志村(現那覇市)銘刈・具志、宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜、伊江村真謝など、各地で強制的な土地接収を開始しました。
武器を持たず必死に反対を訴える住民に対し、米軍兵士は銃剣で武装し、ブルドーザーを使って家屋を押しつぶし、耕作地を敷きならしていったのです。
伊江島の土地強制接収
米軍に収容された2100名の島民は、他の島に移された後も、本島の今帰仁、本部、石川等を転々とした。そして2年後ようやく島に帰ってきた時には、島の63%が米軍の軍用地となっていた。島民はそれを見て呆然となった。米軍にとってもこの島は、有益な軍用地に他ならなかったのである。・・・
更に米軍は、伊江島での軍用地拡大を目指した。本格化したのは1953年である。家を焼き払い、ブルドーザーで整地し抵抗するものは投獄するという「強制土地接収」が開始された。「銃剣とブルドーザー」と、呼ばれるものである。
1954年6月、初めての立ち退き命令が4戸にだされ、米軍が軍用地を接収しようとしていることが明らかになった。合計152戸の農民が琉球政府・立法院にも陳情を繰り返し訴えた。
1955年3月11日から米軍は300人の武装兵を上陸させ、民家13軒の強制立ち退きを実行した。家に火を放ちブルドーザーで引きならし、それを制止しようとした老人に暴行を加えて拘束した。「この島はアメリカ軍が血を流して、日本軍よりぶんどった島である。君達はイエスでもノーでも立ち退かなければならない。君達には何の権利もない」と米側は言い放った。伊江島米軍基地と沖縄のガンジー阿波根昌鴻の非暴力闘争 - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」
宜野湾・伊佐浜の土地強制接収
1954(昭和29)年12月、米軍は宜野湾村伊佐浜の住民へ立ち退きを勧告、55年3月に再度通告したが区民、支援者は座り込みで反対した。米軍は武力による強制接収の挙に出たため、多くの逮捕者や負傷者が出た。
《AIによるカラー処理》軍用接収地 宜野湾伊佐浜 「金は一年土地は万年」の幟
撮影日: 1955年 7月
中学1年生だった55年、米軍は銃剣とブルドーザーで美しい田畑が広がっていた土地を奪い、現在のキャンプ瑞慶覧を造成した。琉球政府の勧めで、住民はブラジル移住を決意した。
➌ 辺野古 (キャンプシュワブ) の脅迫的「合意」
➍ 軍事占領を終えたはずの今も横暴な基地運営
米軍に権利主張するどころか金を渡し続けるばかりの日本。
米軍は、沖縄で長期にわたる軍事占領をおこなった。
軍は戦争後も銃剣とブルトーザーで土地を強制接収し、基地を拡大していった。
こうした国際法違反に対して、米軍はどう強制接収した土地を「還付」し、かつその「賠償」をどのようにおこなったというのか。
米軍に対して無条件で土地の返還を求め、補償を求めるべきはこちら側だ。
なぜ日本の国民のほうが米軍を「思いやり」しないといけないのか。
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