トラブル続きだった長崎の原爆投下
実はあまり語られていないが、広島に原爆リトルボーイを投下したエノラ・ゲイの任務に比べ、長崎に原爆ファットマンを投下したボックスカーは、とんでもないトラブル続きで、その積み重なるトラブルはほとんど信じられないほどで、ボックスカーの指揮をとったスウィーニーは軍法会議にかけられてもおかしくなかったといわれている。
ではなぜトラブル続きだったのか、なぜそうなったのか。
まず、悪天候と台風の影響を恐れるのであれば、あるいは給油ラインの故障に対処するのであれば、普通は投下の日程を引き延ばす。これが常識であるが、スウィーニーに下された指令は、前倒しの出撃だった。
8月11日の予定が、8月9日に繰り上げられたのだ。
なぜか。
それは8月8日のソ連による日本への宣戦布告ぬきには考えられないだろう。これが一日でも予定を前倒ししたい、本当の理由ではなかったか。
また詳しくまとめてみたいと思うが、
以下はシアトル・タイムスの記事を要約する。
シアトル・タイムス「長崎への原爆投下がどのように展開したか」
2017年8月3日午前6時に初公開
B-29ボックスカーの乗組員は当初、日本最大の軍需工場の一つがある小倉を攻撃しようとした。しかし、雲と漂う煙で視界が遮られた。
乗組員は南西に飛行し、予備目標である長崎に向かった。雲に小さな隙間ができたので、爆撃手は爆弾を投下した。爆弾は浦上渓谷の上空で爆発した。この地域には、工場のほか、学校、病院、大聖堂もあった。
9月、連合国軍の最初の記者ジョージ・ウェラー George Weller が軍の規制を逃れて長崎に到着した。ウェラーは、目に見える傷のない人々が爆弾に関連した奇妙な病気で死にかけていると報告した。これは致死的な放射線に関する初期の報告だった。しかし、シカゴ・デイリー・ニュースに書いたウェラーの記事は検閲され、2005年まで公表されなかった。
死傷者および負傷者の推定値は大きく異なります。
チェックすべき本:
- 原爆を製造する秘密の取り組みとその後について:原子遺産財団のシンシア・ケリー編著『
マンハッタン計画:開発者、目撃者、歴史家の言葉で見る原爆の誕生』 。- 戦争の終結と日本への地上侵攻の計画に関する 2 つのまったく異なる視点: DM ジャングレコ著『
地獄の代償: ダウンフォール作戦と日本侵攻 1945-1947』長谷川剛著
『敵との競争: スターリン、トルーマン、そして日本の降伏』- 長崎の現場で:
長崎 被爆者の声(長崎原爆証言協会編)
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