八重山諸島
川平の特攻艇秘匿壕
特攻艇とは、ベニヤ板のボートに爆弾を積んで特攻するという日本軍の「秘密兵器」とされた。八重山には海軍の特攻艇「震洋」、宮古島には陸軍の「マルレ」が配備された。
石垣島の川平湾に残る「特攻艇秘匿壕」、日本軍の特攻兵器を隠すための壕です。
日本軍は、川平湾の海岸線に壕を掘り、特攻艇の出撃基地にしました。壕の入口は高さ3メートルほど、奥行きは25メートルあまりあり、昭和20年2月に完成しました。配備されたのは海軍の特攻艇「震洋」。ベニヤ板の船体の先に250キ口の爆薬が積みこまれ、兵士1人が乗り込み、体当たりして自爆します。1隻5メートルの船が、ひとつの壕に5、6台隠されたといいます。
海の特攻作戦では、宮古島で陸軍が、石垣島で海軍が、敵を待ち受けることになっていました。このうち川平湾には、50隻の特攻挺が配備されましたが、結局、川平湾から、特攻艇が出撃することはありませんでした。
【場所】
特攻艇秘匿壕がある川平湾は、石垣島の北西部にあります。秘匿壕は、湾の両岸にそれぞれありますが、ビーチから見通すことはできません。また、壕は潮の満ち引きによって、一部が海水に浸かったり、中の石灰岩が剥がれ落ちたりしているため、立ち入るのは危険な場所だということです。見学する前に必ず相談してほしいと石垣市は注意を呼びかけています。
川平湾内の海岸には、海軍第19震洋隊(以下・大河原部隊)が構築した特攻艇の秘匿が川平集落に近い高屋側に5ヶ所、湾を挟んで対岸の仲筋側に3ヶ所の計8ヶ所確認できる。…大河原部隊は1944年10月に長崎県川棚臨時魚雷艇訓練所において186人で編成され、震洋50隻を所有していた。同年11月、石垣島に到着し川平湾に洋艇の格納や陣地を構築。構築作業には朝鮮人が爆破や岩盤を掘り、微用された川平住民や与那国島の人々が土や石を運び出した。戦争中は米英軍の攻撃の目を避けながら震洋艇の突入訓練も行われていたというが、震洋艇の出撃はなかった。
川平の特攻艇秘匿壕建設に伴う住民の強制疎開
八重山にはじめて空襲のあったのは、一九四四年(昭和十九年)の十月十二日であった。それから一か月たって、石垣町字川平は部落ごと宮崎県に疎開するようにとの軍命令が下った。
この時期に宮崎県に疎開は無理として、住民は中止を求め陳情する。
ところが中止の為には川平部落の総移転という但し書きがついていた。十九日には、宮崎旅団長、井上隊長、大州支庁長、翁長町長等が川平に来て海軍部隊立入禁止区域を決定した。早速翌々二十一日から部落民総出動で部落移転作業にとりかかった。十一月末のこととて寒風は吹きすさび雨も降っていた。… 運びだすものは食糧、衣類をはじめ家屋・家財道具一切、家畜に至るすべてである。… こうしてやっとのことで仮小屋を造り、荷物を運び家族も移転をすまし一段落がついた。ところが、明日が期限の終の日(十一月二十九日)というとき、… 突然「移転するに及ばず、もとのところに戻ってよろしい」ということになった。「馬鹿をいえ、部落民を馬鹿にするにも程がある。」そのときの憤りは表現のしようがない。みんな怒った。だが軍命にそむくことはできない。また同じ道を逆に引きかえすのである。
宮良の特攻艇秘匿壕群
宮良集落の西側には、特攻艇の秘匿壕が現在も複数現存している。国道390号線を挟み、北側には第38震洋隊(以下、旅井部隊)が、南側には第23震洋隊(以下、幕田部隊)がそれぞれ構築した秘匿壕が残っている。
旅井部隊が構築した秘匿壕は4ヶ所確認できる。… 旅井理喜男少尉率いる第38震洋隊は1945(昭和20)年1月に長崎県で編成され、当初は小浜島に駐屯していたが、基地の作戦配備上の問題で石垣島宮良に移動し、宮良では先に配備されていた幕田部隊から数百メートル離れたアラガーという場所に兵舎三棟、士官宿舎一棟を構えた。なお、秘匿壕周辺は軍関係者以外の立ち入りは制限されていた。
幕田部隊が構築した秘匿壕は、現在の「赤馬の碑」が建てられている直下に残っている。石灰岩を掘り込んだ2ヶ所の口からほぼ一直線状に進み奥で連結する「V」字状になっている。これら特攻艇の桟橋の基礎部分が宮良川河口に現在も残っている。…
小浜島アールムテイの秘匿壕
沖縄県八重山郡竹富町小浜、星野リゾートのゴルフ場がある東表御嶽(竜宮神社) の海岸周辺。御嶽の木まで朝鮮人軍夫に伐採させた。
小浜島の東部に位置するアールムティと呼ばれる海岸には、戦時中、第26震洋隊が構築した特攻艇秘匿壕が現存している。… 壕の総延長は約130mの距離を測り、奥行4m~5mの小部屋を3ヶ所有する。…
小浜島には1945年1月31日、第38震洋隊(旅井部隊)が駐屯したが、基地の作戦配備上の問題で1ヶ月後、石垣島の宮良に移動したため、後任部隊として第26震洋隊(以下、引野部隊)が小浜島に駐屯することになった。引野部隊は当該地域であるアールムティの海岸に特攻艇の秘匿を構築した。構築作業には朝鮮人軍夫をはじめ、地元住民も徴用された。内は坑水で補強するために松木が利用された。当時、島内は松林が繁茂していたが、壕や兵舎を構築するためにほとんど伐採されてしまったという。戦後になって内部の坑木は全て小浜住民が解体したとのことである。
沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅵ八重山諸島編 pp. 80-81.
昭和十九年から昭和二十年にかけては小浜島にも軍隊が配属されてきました。
旅井部隊といっていました。後では引野部隊になったのですが、そこの隊長は終戦になるかならないうちに逃亡しました。その部隊の陣地構築をしに朝鮮人が五〇名ぐらい小浜にきていました。彼らの仕事は、部隊の兵舎造りや特攻艇 (ベニヤ板で軽くつくられ、百キロの爆雷をつみ、自動車用のエンジンで時速三〇一四〇ノットの高速力で敵艦船に体あたりするようにつくられた小船) の秘匿ほりなどでした。彼らは、ダイナマイトを使い、ツルハシ、鍬をふらされ、土砂をモッコでかつぎだすなど一日中働かされていました。東表 (アールムテイ) お獄の下の壕、アカッチャ端の壕などは朝鮮人を使ってつくらしたものです。それから西田原の海岸線、そこはウンダル木(トカナチ)がおい茂っているのでそこに水路をつくり、特攻艇をかくす所としてつくってありました。資材はほとんど現地供出でした。
きれいにおいっていた大獄の松林、ユタニの松など、それに宮良松千代さんの「やらぶ」、大久家の東表のやらぶ林などみな切り倒されました。各家の福木もたおされ、東表の、兵舎などにつかわれました。あの松はほんとにきれいな素ばらしい枝ぶりでしたが、政府はこれに対していままで何の補償もしてないようです。
れからお獄の木は朝鮮人に切りたおさせました。島の人々はお獄の木をきると神のがあるというので、神行事以外はお獄にも入らないという状態ですが、軍は朝鮮人をお嶽にいれ、木を切りたおさせたのです。ぱちがあたって死んでもよいと考えていたのだろうか。危険でいやなものはみな朝鮮人にさせたようです。ほんとうにかわいそうでした。また、ナクレー(地名)とニシンダに慰安所がありました。それは上官がとまるところとしてつくったようです。各家庭から「畳二枚だせ」と軍命がだされ、学校の床板もはぎとっていって慰安所を完成したようです。軍隊はちゃんとした兵舎があったのですが、朝鮮人は民家を借りて生活していました。長田、名若、場慶名、野底、慶田城、宇保氏宅などでした。
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