#7 池武当小飛行場

第7小飛行場 - 池武当小飛行場

米軍は、沖縄戦中に大きな飛行場だけではなく、軽飛行機用の小飛行場 (cub airstrip) を20あまりも建設したという。しかしその多くについては資料もなく、不明のままである。

小飛行場についてのメモ - Basically Okinawa

 

今回は詳細がまだ明らかになっていない多くの小飛行場のなかでも、米軍の「第七小飛行場」(#7 Cub Airstrip) として番号が特定されている池武当小飛行場について扱う。

池武当 (いけんとう) とは、現在の沖縄市松本。

 

なぜ番号が特定できるのか

米陸軍が1945年8月末日に作成した軍の資料に CUB FIELD NO. 7 と記されている。

 

  • 108.    KADENA AIRFIELD (嘉手納飛行場)
  • 117.    CUB FIELD NO. 7 ⇦ 第七小飛行場
  • 118.    PUBLIC REL. OFF & RADIO TELETYPE STATION (広報部と無線通信局)
  • 87.    AWASE AIRFIELD (泡瀬飛行場)

 

地形的にも、現在の池武当交差点の面影がある、ような。

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米空軍: Aerial view of Cub Field Number 7 taken at 1000 feet. Okinawa, Ryukyu Retto.

高度1000フィートから眺めた第7補助飛行場。沖縄。1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

池武当小飛行場のおよその位置

 

1947年の空中写真。ある歴史サイトに最初の頃の嘉手納飛行場は小規模だったと池武当小飛行場の空中写真をあげているものがあったが、まったくの別物である。大きさを比較してみると、嘉手納飛行場の巨大さがよくわかる。

 

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池武当小飛行場の機能

小飛行場 (cub airstrip) は軽飛行機用の滑走路であり、第七小飛行場・池武当小飛行場の写真は他の小飛行場より比較的多く残されている。

それは、1945年6月12日の米空軍発行 TIF Brief の記事に、池武当小飛行場の建設と軽飛行機の到着が報告されていることにあるだろう。

 

米空軍 TIF Brief  1945年6月12日号の表紙は伊江島の中隊事務室の写真。米軍は4月21日伊江島を制圧・確保している。

 

Brief の記事は、ハワイの陸軍基地ショーフィールド・バラックスから*1木箱で連絡観測機 スティンソンL-5センティネル が池武当小飛行場に届けられ、現場で組み立てられ、20時間以内に飛びはじめる様子を特集し紹介している。木箱に収まる小型飛行機に注目。

 

Seeing eyes of the artillery on Okinawa are these L-5 observation planes. The little planes were shipped to Oki by boat, then uncrated and assembled on the spot. Less than 20 hours after the first crate was landed, Tenth Army troops saw the first of the L-5's buzzing overhead. Pictures on this page show the process of assembly from the arrival of the crated plane to the first takeoff on a spotting mission. Air-minded soldiers with an eye to postwar travel plans crowd around the cub fields to ask questions and watch the enlisted men pilots put the grasshopper planes through their paces. No pilot on Okinawa has yet matched the stunt of the cub pilot in Italy who lured a Messerschmitt into a narrow valley, dodged out of the way, and watched the German crash into a cliff. He was officially credited with a kill.

沖縄の砲兵の監視の目は、これらのL-5 観測機です。小さな飛行機は船でオキ (沖縄) に運ばれ、その場で木箱から出されて組み立てられました。最初の木箱が着陸してから 20 時間も経たないうちに、第10軍の部隊は L-5 の頭上でブンブンという音の最初のものを目にしました。このページの写真は、箱詰めされた飛行機の到着から偵察任務の最初の離陸までの組み立てプロセスを示しています。戦後の旅行計画をもくろんでいる飛行機好きな機敏な兵士たちが小飛行場の周辺に群がり、質問をしたり、軍パイロットがバッタ飛行機 (grasshopper planes) を自分のペースで動かしたりするのを見ています。沖縄のパイロットは、イタリアで(ドイツ軍の) メッサーシュミットを狭い谷に誘い込み、まんまと回避し、ドイツ人が崖に衝突させた軽飛行機パイロットのスタントにみあう経験はまだありません。その飛行士はその功績が認められました。

TIF Brief  1945年6月12日号

 

最初に届けられた観測機 L-5 は、池武当小飛行場がまだ建設中のさなか、飛びたつ様子を写真にとらえている。

 

TAKE OFF from the pine-bordered runway. Construction machinery still works on th airstrip a the first obervation planes take to the air.

松の木がまわりに生えている滑走路から飛び立つ。建設機械がまだ滑走路を建設中のさなか、最初の観測機が飛びたちます。

TIF Brief  1945年6月12日号

 

池武当小飛行場の司令塔

雑誌に掲載されている写真を含む、いくつもの第七小飛行場の写真が沖縄公文書館に所蔵されている。この取材時に撮影されたものと思われる。写真右下の森にある立派な亀甲墓と、その上に建てられた司令塔に注目。

 

米空軍: An L-5 aircraft of the 163d Liaison Sq. is shown taking off from Cub Strip No. 7, Okinawa. The strip is complete with a Control Tower built on a hill over an Okinawa burial tomb.

第7小飛行場から離陸する第163連絡中隊L-5。滑走路は亀甲墓上方の丘に建てられた司令塔を完備している。撮影地: 沖縄撮影日: 1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

池武当小飛行場があったと予測される東側に、いまもちょうど小高い丘がある。セメント工場があり、森がかなり削られている感があるが、その丘の左側であれば、ちょうど滑走路と並行する位置にある。この立派な亀甲墓はいまでもあるだろうか。

 

 

亀甲墓の前で整備を行う。

 

米国空軍: Mechanics put landing gear on a Vultee L-5 of the 163rd Liaison Squadron, attached to the 10th Army. The plane has just been uncrated at Cub Field No.7 on Okinawa, Ryukyu Retto, after shipment from Hawaii.
第10陸軍第163連絡中隊のヴァルティL-5に着陸装置を取り付ける整備士。この飛行機はハワイから届き、たった今第7補助飛行場で枠箱から出されたところである。沖縄。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

また、現在のちゅうざん病院の南側の森あたりには、第七小飛行場が所属する第10陸軍第163連絡中隊の避難壕と写真部隊テントがあったようだ。上記の1945年機密地図には広報部と無線通信局 (番号118-PUBLIC REL. OFF & RADIO TELETYPE STATION) と記載されている場所に相当する

 

米国空軍: Quarter-shelters (left) and the photo tent of the 163rd Liaison Squadron are hidden among the trees at the South end of Cub Field No. 7 on Okinawa, Ryukyu Retto.
第7補助飛行場の南のへりにある森に隠れた避難壕(左)と第163連絡中隊の写真部隊テント。沖縄。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

この周辺には民家が壊滅的な被害を受けず、米軍はこのような美しく居心地の良い民家を兵舎、または民間人収容所などに利用した。しかし中南部基地を拡大する米軍はやがて収容した住民を転々と移送し、北部の収容所に集約するようになる。

 

L-5 連絡機の部隊は、彼らの小さな軽飛行機を箱出しし、組み立て、整備し、乗りまわすのに忙しくないときには、彼らの事務室や本部をこぎれいにしている。

TIF Brief, 1945年6月19日号

 

ということで、

第七小飛行場は、池武当小飛行場。

建設されたのは、1945年5月末から6月前半にかけて、という事が推定できる。

 

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*1:ヴァルティL-5: 写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館 7補助飛行場で組み立てられたヴァルティL-5に燃料補給する整備員。この飛行機はハワイのショフィールド兵営で沖縄のこの基地に送るために分解されわく箱に詰められていた。