1945年 - ボーロー飛行場
1945年4月1日に読谷に上陸した米軍は、その日のうちに日本軍の2つの飛行場を接収、読谷飛行場と嘉手納飛行場の修理・拡張を始める。また北側に新設のボーロー飛行場の建設を始める。渡具知海岸一帯が物資集積場となる。
左: 1945年1月に米軍が撮影した日本軍の沖縄北飛行場と、沖縄中飛行場。
右: 米軍上陸から8ヵ月後の空中写真。嘉手納飛行場、読谷飛行場、そしてボーロー飛行場が完成している。
B-29 (スーパーフォートレス) の滑走路を建設するため、集落を焼き払った。
読谷飛行場やボーロー飛行場建設に携わった海軍第87建設大隊のメモリアルブックより
マラリア対策だといって "abondoned villages" (放棄された村々) を焼き払うが、実際には住民は米軍基地建設のために強制的に収容所に収容されていた。
読谷飛行場やボーロー飛行場建設に携わった海軍第87建設大隊のメモリアルブックより
Camp Bolo
読谷飛行場やボーロー飛行場建設に携わった海軍第87建設大隊のメモリアルブックより
残波岬の岬までぎっしりと米軍基地となった。
読谷飛行場やボーロー飛行場建設に携わった海軍第87建設大隊のメモリアルブックより
ボーロー飛行場一帯のミサイルサイト
沖縄戦後、ボーロー飛行場自体は飛行場として遊休化するが、兵站、通信施設、ミサイルサイトが次々と建設される。ありとあらゆる軍事施設が建設された。
3種類のミサイルが配備された読谷村のボロー飛行場一帯 1947年1月29日米軍撮影の空中写真に作図 [0000206585] FBIS(Foreign Broadcast Intelligence Service:海外放送情報局)は現在の瀬名波通信施設跡地
嘉手納第一サイト (メースB)
核を搭載した巨大ミサイル・メースBの「嘉手納第一サイト」は読谷の高志保にあった。
米軍の巨大核ミサイル「メースB」はどのように沖縄に配備されていたのか ~ 日本政府が沖縄に依存するその理由 ~ - Okinawa Basically Basic Base Story
1957年6月 ナイキ基地(Aサイト、Bサイト)、メースB基地を建設。
読谷村のメース基地は返還前に解体されている。
ナイキ第一サイト
ナイキ・ハーキュリーズ施設。
ナイキ基地サイト A
ナイキ基地サイト B
残波岬のミサイルサイトはナイキやホークなどのミサイル訓練に使用された。
沖縄での数週間の ASP の間、ボロポイントにある私たちの拠点は大変な騒ぎであった。前に述べたように、沖縄島の8つの砲台がそれぞれ私たちのミサイルサイトに来て施設を使用するからである。… 私たちのミサイルサイトは 3つの地下倉庫で構成されており、訪問者に影響を受けることはなかった。2台の発射装置は、ASPの目的でボロポイントの急な崖 (残波岬) の端のすぐ近くに設置されており、記憶が正しければ、そこは私たちのサイトから0.5マイルから1マイルの距離にあったと思います。
Russ Fey Discusses 'LIVE FIRING OF THE NIKE'Russ Fey Discusses 'LIVE FIRING OF THE NIKE'
FBIS
1949年 「海外放送情報サービス沖縄ステーション」を設置。
1972年 ボーロー・ポイント射撃場
「ボロー・ポイント射撃場」、「嘉手納第一サイト」、「ボロー・ポイント陸軍補助施設」及び「読谷第一陸軍補助施設」が統合され、「ボロー・ポイント射撃場」として日本が米軍に提供開始
1977年 瀬名波通信施設
1977年10月6日、「ボロー・ポイント射撃場」 から「瀬名波通信施設」 に名称変更。
2002年3月1日: 日米合同委員会において、マイクロ・ウェーブ塔部分(約0.1ヘクタール)を除く土地の返還に合意。
いま、ここだけが残っている。
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