FAC6027 読谷補助飛行場 (Yomitan Auxiliary Airfield)

 

読谷補助飛行場

1943年 日本陸軍「北飛行場」建設開始

中央の北飛行場は昭和18年夏に計画され、旧9173部隊の指揮下で総面積73万坪、2,100m滑走路をもつ東洋一の飛行場とし県下各地から動員された徴用労務者等によって1年6か月余にわたって工事が進められた。

《「平和の炎Vol.10」読谷村 (1998) 》

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1945年 - 米軍「ヨンタン飛行場」 

1945年3月30日、日本陸軍第32軍は沖縄北・中両飛行場の破壊を命じた。

1945年4月1日、米軍は上陸すると、その日のうちに読谷飛行場の復旧工事を始め、2か月半で完成させた。

米軍は上陸後早々に本土攻撃の飛行基地建設に着手、北飛行場跡に沖縄で最初の中距離爆撃機用飛行場(2,000m)が1945年6月17日に完成した。その後、残波岬南の長距離用(2,550m)のボーローポイント飛行場も完成した。

《「平和の炎Vol.10」読谷村 (1998) 》

 

2006年 全返還

1960年に補助飛行場で始まったパラシュート降下訓練は、1965年6月自宅の庭先で小学校5年生の少女が、パラシュートで落下してきたトレーラーに押しつぶされる死亡事故を起こし、1999年日米合同委員会の移転合意まで続いた。

読谷村読谷村の字ガイドマップ・座喜味」PDF

 


 

SACO で読谷補助飛行場の「返還」が以下のように条件付けられる。

( 1 ) パラシュート降下訓練が伊江島補助飛行場に移転され、また、( 2 ) 楚辺通信所が移設された後に、平成12年度末までを目途に、読谷補助飛行場(約191ヘクタール)を返還する。

 

読谷飛行場は、昭和18年の接収から、60年余の時を経た平成18年に全面返還され、土地所有権が地元に戻ってきた。現在は、読谷補助飛行場跡地利用実施計画に基づき、跡地利用事業が進められている。

読谷飛行場返還の碑:1 - 読谷村