1942年11月24日、門司港に到着した地獄船「シンガポール丸」についての証言

 

日本のメディアが戦争という歴史に向き合うとき、常に 国内の証言ばかりで構成した戦争についての記事や番組を作りがちである。しかしそれでは本当の「日本の戦争」を知ったことにはならない。

 

その当時、日本の「国内」は広範囲に拡大されていたのであるから、日本には植民地や戦場での証言をしっかり検証する責任がある。また「敵」と呼ばれた「国外」の証言も同じように並列してみていく必要性がある。

 

内側の証言ばかりで構成すれば、「歴史」は簡単に一面的な語りとなり、あたかも日本が戦争の被害者であるかのようにミスリードされてしまう。日本がなぜこうした戦争に行きついたのか、という反芻なくして、平和教育で「平和な時代に生まれてよかった」という感想を量産することに全く意味はない

 

たとえば捕虜問題だ。戦犯裁判の「不当さ」ばかりをあげつらうのでは、問題となっている日本の戦争犯罪に目がいかなくなる*1。「和解」を語る人々の「美談」ばかりに注目すれば、怒りや疑問を抑圧し*2、戦争の真実が排除されてしまう。

 

まず、しっかりと記録を見ていくこと、できるだけ多様な証言者から証言を得ることが、日本のメディアに求められる。

 

民族/国家*3 の哲学を正しく理解したいと思うなら、その民族/国家が戦争でどのような行動を取るのかを研究すべきである。民族/国家の心理を理解したいと思えば、その民族/国家の戦争の記憶を研究すべきである。

《マーク・パリロ「アメリカ軍捕虜と残留日本兵-太平洋戦争の「記憶」形成の視点から-」(2007) pdf

 

シンガポール丸」の記録はどこに?

川崎重工シンガポール丸」の記録はどこに

連合軍の捕虜をのせ、夥しい犠牲者をだした日本軍の捕虜輸送船、地獄船「シンガポール丸」について、海外では犠牲者の名簿も存在し、多くの証言や、横浜戦犯裁判での記録も残されている一方で、日本国内では戦後から現在に至るまで、関連記事をほとんど見つけることができないシンガポール丸の記録はどこに消えたのだろうか。それほど日本の歴史に関して関心は薄いのだろうか。シンガポール丸は通称で、正式な日本名 (昭南丸?) での記録があるのだろうか。

 

捕虜を乗せ沈没し、多くの犠牲を出した船舶のリストは POW 研究所から見ることができる。沈没船だけで一万人以上の捕虜が亡くなっている。

彼らは乗船前にすでに現地の過酷な労働で疲弊していたが、“Hellship(地獄船)” と呼ばれた劣悪なコンディションの船旅で病人が続出した上、彼らにとっては味方の攻撃によって命を落とすことになったのである。日本の俘虜情報局編『俘虜取扱の記録』によると、捕虜輸送中に沈没した船は計24隻で、乗船捕虜18,182人のうち10,834人が死亡している。中には乗船捕虜全員が海没した船もあった。救助されて生き延びた人々も、港や収容所に着いてまもなく息絶えてしまったケースが多かった。

POW研究会 POW Research Network Japan | 研究報告 | 捕虜輸送中に沈没した船

 

しかし、「シンガポール丸」はこのリストにはない。この運輸船は撃墜されたのではないにもかかわらず、運搬中だけでも夥しい犠牲者をだし、まさに地獄船であった。以下は、どれも海外の「シンガポール丸」についての記録の一部である。

シンガポール丸の画像はいまのところ見つけることができていない。

姉妹第1大福丸・戦前

【訳】川崎重工系で、連合軍捕虜を輸送したことが知られているのは、ブラジル丸、セレブ丸、イングランド丸、フランス丸、豊福丸、長門丸、パシフィック丸、シンガポール、テムズ丸、東福丸、宇部丸、ウォッシング丸である。

IJA Daifuku Maru No. 1 Class Transport

【訳】1942年11月25日: 門司に到着。捕虜たちが耐えざるを得なかった劣悪な環境の結果、63人の捕虜が航海中に死亡。320人の捕虜が船上に残され、その多くが赤痢やその他の病気で死亡した。門司で下船したのはわずか677人の捕虜であった。[2] シンガポール(昭南)丸の乗組員が赤痢に罹患し、その後3週間以内に少なくとも120人が捕虜収容所で死亡した。

Singapore Maru - Japanese Army Auxiliary Transports

 

門司港に到着した677人以外に、症状が重く下船できないまま取り残された捕虜が300名近くおり、5日後に善通寺捕虜収容所の軍医らが派遣されている。その報告書は下に記す。

 

それとは別に、日本にある資料として現在見出すことができるのは、POW研究会の福岡第4分所(門司)の死亡者リストに、死因が「シンガポール丸」として記載ある死者が33名、死亡日は11月31日から翌年の2月頃まで見られる *4。船内に残された捕虜のなかで回復せずその後も多くの捕虜が亡くなったことがわかる。

 

1947年9月20日の横浜軍事法廷判決

1947年9月20日、横浜軍事法廷でのシンガポール丸の判決記録。以下の証言で見ていくように、シンガポール丸の捕虜の扱いは極めて非人道的であったにもかかわらず、こうした地獄船の場合、刑は3年から半年の懲役という穏便な判決になっており、必ずしも戦犯裁判が行き過ぎた判決というにはあたらない。

【訳】1942年10月25日から1942年11月24日までの間、シンガポールから門司に向かう航海中のS.S.シンガポール丸に乗船し、シンガポール丸の船長として被告人の船長ニシミヨシナリ少尉、被告人の指揮官オガサワラ・マコト少佐、捕虜管理官マルヤマ・ナオスケ2等海尉、捕虜警備官のウチダ・ヨイチ軍曹らは、戦争国際法に違反して、イギリス軍兵士の捕虜の虐待に共同で関与し、その結果、60人が死亡し、他の多くの人が肉体的苦痛を負った。

罪状認否 無罪を主張

判決 有罪

刑 1947年9月20日

  • 第一被告人 3年の懲役
  • 第二被告人 2年の懲役
  • 第三被告人 2年の懲役
  • 第四被告人 6か月の懲役

Case of Singapore Maru - MILITARY COURT FOR THE TRIAL OF WAR CRIMINALS - 歴史の記録

 

しかし、これだけの死者数、そして戦犯裁判にまでなった「シンガポール丸」について、日本語の情報は今もほとんど見出すことができない。なぜなのか。

 

沖縄を捨て石として「本土決戦」がなかった「日本の戦争」、それを本土だけの戦禍だけふりかえるなら、当然こうなる。日本の戦争は、本土で戦闘していたのではないからだ。

 

海の戦場で何があったのか、まずは、具体的に証言などから知ることが大切である。

 

以下のエリック・ケネス・スコットによる地獄船「シンガポール丸」の裁判での宣誓証言を簡単翻訳でご紹介します。正確な証言は以下の pdf よりご確認ください。

イングランドはオックスフォードの歴史ある美しい町並みで有名なファリンドンの戦没者に関する記録から Farington WW2 memorials > LUCKETT, REGINALD WALTER FRANK pdf

 

航海日誌

1942年10月30日、シンガポールを出航

日誌から

日本軍は1942年2月28日/3月1日の夜にジャワ島に上陸し、第49大隊を制圧した。降伏後、生存者49名全員が処刑された。第95大隊は3月8日頃、バンドンで日本軍戦車に制圧された。生き残った兵士たちは、10月22日にジャワ島から吉田丸に乗せられ、10月25日にシンガポール到着し、10月29日にシンガポール丸に乗船し、翌日出航し、11月24日に日本の門司に到着し、11月26日に下船しました。

Singapore Maru: "In Memory of Gunner REGINALD WALTER FRANK LUCKETT" from Faringdon - 歴史の記録

 

エリック・ケネス・スコットによる宣誓証言

地獄船からの報告

以下は、「シンガポール丸」の横浜裁判に使われた証言の一つと考えられる。

エリック・ケネス・スコットによる宣誓証言

1942年10月21日から11月26日までのS.S.「吉田丸」およびS.S.「シンガポール丸」の乗船における捕虜の虐待に関する問題。

 

A F F I D A V I T

私、エリック・ケネス・スコット、62 Columba Road、Blackhall、Edinburghに本籍地、元中佐(R.E.M.E.) 彼の英国軍の個人番号93327で、宣誓を行い、次のように神に誓い証言します。

 

1. 1942年10月19日、バタビアのタンジョン・プリオクの10/15パンジャブ軍曹、イギリス軍上級将校のC.M.レーン大佐は、日本のタンジョン・プリオク・ポウ・キャンプ司令官から、10月21日に目的地不明に向けて出発するために1000名(将校90名、O.R.約910名)を選抜するよう指示された。

 

2. 収容所ではマラリア赤痢、ベリベリ、デング熱、栄養不良等が蔓延しており、大多数は渡航に適した状態にないことを直ちに日本当局に表明した。選抜された人々の中で最悪の病気の症例は、上級英国医療将校の中佐によって検査され、、そして後の段階でバタビアの日本人医療将校によって確認された。可能な限り他の捕虜との交代が行われたが、それでも、徴兵が10月21日に集まったとき、多くの担架ケースがあり、人員の約10-20%がドックへの行進中に倒れた。

 

3. タンジョンプリオクドックでは、部隊は、航空団司令官フロウ指揮下の300人のRAFと、サンダースR.A.中佐の指揮下にある500人のRAF要員から選抜された。この合計1800人の捕虜は、10月21日16:00に築30年の5,000トンの「吉田丸」に乗船し、4つのハッチに詰め込まれた。航空団司令官フロウと中佐サンダースの隊員は前方ハッチの下に収容され、約70人の日本人隊員が自分たちはよい場所をとり、1000人のタンジョンプリオク隊は横になることが出来ないほど船尾に密集し、ハッチのすぐ下にいた者たちは防水シートが付いておらず、航海中に雨が降るたびに肌までびしょ濡れになっていた。前方に16か所、後方に8か所、前方に2つの小さな水タンク、後方に2か所のデッキトイレがありました。

築三十年の「吉田丸」とは、1919年竣工の貨物船「第一吉田丸」のことか。同汽船は同1944年4月26日に撃墜され沈没、戦死者2,586名をだしている。

戦没した船と海員の資料館

4. 船は翌朝出航し、航海中、毎日3食の米と魚のスープが提供されました。このような状況下では、病気がすぐに増加し、上甲板の雨漏りする防水シートの下に救急病院が設立されました。毛布は提供されず、いかなる種類の医療品も提供されませんでした。

 

5.「吉田丸」は10月25日13:00にシンガポールに到着し、翌朝、日本の警備員の監督の下、ドック側のホースダウンのために全人員が上陸するよう命じられました。その後、すべての職員は道端まで行進させられ、そこでズボンを下ろすことを余儀なくされ、公衆の面前で各人の肛門にガラスの棒が挿入されました。その後、全てが「吉田丸」に戻されました *5

 

6. 10月28日、航空団司令官フロウは、サンダース中佐の500人の部隊に合流するために、彼の部下のうち200人を徴兵し、別の船に転属するように指示された。その後、タンジョンプリオクキャンプの重病者のうち14人がシンガポール病院に移送されました。

 

7. 10月29日04:00に、残りの1086人が下船し、シラミ駆除剤をかけられた。その日の間にさらに19人が病気になり、陸上病院に送られ、チャンギP.O.W.キャンプから14人の交代要員が受け入れられ、合計1081人となった。

 

8. 1081人は、1904年に建造された5,200トンのSS船シンガポール丸」に乗船し、10月29日19:00に乗船し、このとき96名の士官は、規律の維持のために船尾の船倉に隔離された。一般的な配置は「吉田丸」と同様でした。前方には捕虜のスペースを奪うかたちで日本軍の部隊が占め、前方には16の甲板トイレ(8つは捕虜用)、4つの小さな水タンク(2つは捕虜用)がありました。後部には8つのデッキトイレ、2つの水タンク、ギャレーがありました。ご飯と魚のスープを毎日3食、お湯は1日3〜4回提供しました。2隻の小さな救命ボート、4隻のいかだがあり、捕虜用の救命ベルトはありませんでした。

 

9. 「シンガポール丸」は10月30日10:00に日本に向けて出航し、11月2日までに病気が増加し、船尾ハッチカバーに病院を設立することが必要になった。必要な宿泊施設は、1ポンドのマグ硫酸塩といくつかのアスピリンキニーネの錠剤と同様に、しぶしぶ与えられました。「病院」が設立されるやいなや、2人の男性が亡くなった。

 

10. 11月3日、「シンガポール丸」はキャップ・サン・ジャック沖に向かい、そこで私は上級士官として、日本の司令官である森山中尉に対して、船内の状況について可能な限り強く訴え、すべての病人を直ちにサイゴンに移送し、このような耐え難い状況下でのP.O.W.のさらなる輸送を防ぐためにバタビアに無線報告を送るよう要求した。同日午後、船内状況を改善するための措置は取られず、出航した。

 

11. 病気は今やすさまじい速度で増加しており、天候は後部ハッチの下の宿泊施設から兵士を一掃し、病人を空いたスペースに移さなければならないほど悪化していました。マット、マットレス、毛布などのアメニティは一切提供されず、病人はむき出しの鋼鉄の甲板に横たわっていました。困難を伴いながら、病院のトイレとして使用するためにいくつかの木製のバケツが固定されました。トイレットペーパーとして少量の新聞用紙が提供されましたが、すぐに使い果たされ、1日1回手を洗うのに十分な水しかなかったため、個人の衛生状態は不可能であり、その結果、病気が急速に広がりました。

 

12. 11月13日に「シンガポール丸」が台湾のタコウに到着するまで、死者は続き、8人の遺体が火葬のために上陸に送られましたが、港湾当局はそれらを埋葬することを拒否しました。(捕虜側から) 100人の重病者のリストがまとめられ、直ちに陸上病院への移送が提出されましたが、上陸が許されたのは21人だけでした。

 

13. タコウでは、さらに400人の日本軍兵士のスペースを都合することになっており、あらゆる抗議にもかかわらず、すべての船倉の上甲板は撤去され、1000人の私兵が船倉の底と船倉の下のスペースの砂バラストの上に詰め込まれた。「病院」も船尾船倉の底に移されました。すべての日本軍兵士には、寝るための清潔なマットが提供されました。捕虜は鋼鉄デッキか砂のバラストの上で寝たのです。

 

14. 15日、「シンガポール丸」はタコウを出港し、同日、澎湖諸島沖に停泊し、18日まで同地に留まった。さらに7人が同じ夜に海に埋葬されました。その後、日本当局から、同乗のイギリス空軍の医師リデル博士に200錠のビスマスが支給されました。

 

15. 北に進むと、天候は悪化し、寒さは増し、大多数は熱帯の衣服のみを所有し、毛布がない人々にとって非常に耐えがたかった。荒波で損傷した甲板の便所はひどく漏れ、感染した排泄物を甲板に噴霧し、甲板の下には、これ以上病気に対処できなくなった病院が各船倉に設立されました。トイレのバケツは船倉に設置されていましたが、この頃には使用できず、ゴミ箱や横たわっている場所で排泄されるほど弱くなっているものもありました。

 

16. 11月24日に門司沖に停泊するまでに、約700人が何らかの病気にかかっていました。11月25日、船は横付けされ、日本軍の部隊は下船しました。これにより、売店は警備されず、同夜にイギリス軍の人員に襲撃されました。翌日、盗難が発覚したため、日本の憲兵隊による調査が開始されましたが、緊急に下船する必要があったため、これらの手続きは予想よりも短くなったように思われました。乗船していたイギリス軍の上級士官として、私は責任を問われ、発砲すると脅され、何人かの士官は、下船を担当していた福岡出身の英語を話す日本人将校から「野蛮な獣」と呼ばれました。衛生班が乗船し、すべての便所を密閉し、各POWの肛門にガラス棒を挿入した(赤痢の検査だと言われた)が、病院の病人のうち30人が門司で治療のために上陸した後、船に残された280人の重病人に対して何もせず、残りの677人のうごける捕虜は炭鉱へオープンバージで移送するため、各グループに分かれて下船した。

 

17. 3人のオランダ人医師と6人の医療隊員の治療の元、船上に残された280人の運命について、私は正確な情報を与えることはできませんが、大多数が数日以内に亡くなったと信じる理由があります。これに関するさらなる情報は、当時門司病院に搬送されたR.A.F.のリデル博士から入手できるはずです。

 

18. 氷点下の気温の中、熱帯の装備を身にまとい、数時間にわたって食料なしでドックに立った後677人の自力で動くことのできる捕虜は、最終的に170人の1つのグループと169人の3つのグループに分けられた。私は170人のグループを担当し、宇部市福岡第7キャンプに向かいましたが、そこでさらに17人が航海の影響で亡くなりました。全員が数週間にわたって壊血病に苦しんでいました。

 

19. まとめ

677人 - 門司港で下船
63人 - 海で亡くなる。
1人 - 自殺。
21人 - 台湾の病院に搬送。
30人 - 門司の病院に搬送。
289 人- 病気がひどくて「シンガポール丸」から下船できなかった。

計 1081名 (うちオランダ人医師3名、M.O.6名)


20. 1946年1月19日、ウェストミンスター市のスプリングガーデン6番地で、エリック・ケネス・スコットが宣誓した。

 

救急医療関係者の証言

冬の門司港についてから

11月24日に門司港に到着してから5日後の29日、連合軍捕虜の軍医らが善通寺捕虜収容所から派遣され、門司港で下船できなかった重病者289名の捕虜の治療にあたった。以下はその軍医の証言。

1942年11月29日、8人の医官、1人の歯科将校、約30人の医官からなる医療班が善通寺を出発し、列車で門司に向かいました。この部隊は、U.S.N.のW.ラインベリー大尉(MC)の指揮下にあった。

 

3人の医療将校を除いて、すべての人員はU.S.N.のものでした - キャプテンJ.F.アケロイド、A.A.F.、キャプテンV.ブリストウ、A.I.。F.、および軍医中尉S.E.L Stening、R.A.N.R
門司に到着したこの大きなパーティーは3つに分かれていました。キャプテン・ラインベリーのリーダーシップの下での最初のパーティー。2番目はT.モー少佐(MC)、USNの下で、3番目はJ.F.アケロイド大尉の下で。

 

私は、モー中佐、私、そしてJ.E.エプリー中尉(M.C.)、U.S.N.、医師、そして薬剤師長の仲間であるI.フロンティス、G.J.ショー、PhM1c、A.P.ロウ、PhM1c、J.ヤングPhMlc、B.W.ベリー、PhM3c、J.J.ラカス、PhM3c、A.R. ウィルキンソン、PhM3c、W.W.ダンラップからなるモー中佐の部隊の一員でした。 HA1cです。

 

3つのパーティーは異なる方向に送られました。モー少佐の一行は、「シンガポール丸」の名を冠した船のドックサイドに進み、黄色い旗を掲げていた船のドックサイドには、粗末な棺桶が積み上げられ、その横には、やつれた、病気で、悲しみに暮れた男たちの小さなグループが並んでいた。

 

まだ船に残っている男たちを小さなフェリーに移し、それから彼らを病院に運び、必要なものはすべて揃っていると伝えられました。私たちは、その後、これらの男たちの世話をし、健康を取り戻さなければなりませんでした。私たちは非常にガタガタの梯子を登り、船の前方の船倉に降りると、そこで私たちの憤慨した目に、言葉では言い表せないほど恐ろしい光景に驚かされました。船は貨物船で、ジャワ島とシンガポールから日本に1000人のPOWを輸送するために雇われていました。彼らは1ヶ月以上もの間、シンガポールから船倉に押し込められ、荒天と猛暑を乗り越え、日本の厳しい寒さの中をやってきた。多くの人がひどい船酔いをし、全員がひどく栄養不足に陥っていました。


食料は実に限られており、衛生設備もひどく不十分だった。ジャワの病院から回復期の赤痢患者の一部が、完全なドラフトを作成するために土壇場で送られ、これらの患者の一部はシンガポールの改造に含まれていました。


これらの回復期の人々は、船上で赤痢の大発生を引き起こした原因となったと思われます。最初の症例はシンガポールから数日後に現れ、その数は徐々に増加し、航海の終わりには、影響を受けなかった人は非常に少なくなりました。流行に加えて、過密な不衛生な環境と非常に低い食事が原因で、船が日本に到着する前に90人以上の死者が出ました。

赤十字の小箱と言われる救恤品は捕虜には何も支給されず、日本兵がそれを食べ、そして食べれないものは捨てていたという証言。

船はヨーロッパ型の食品の在庫を運んでいたことに注意する必要があります。これは赤十字の食品であった可能性があります。この食料はシンガポールで積み込まれ、捕虜のためのものでしたが、彼らはほとんど何も支給されず、文盲の日本兵が次々と缶を甲板に持ってきて、缶を開けて中身を確認し、おそらくそれを味わい、それが彼の好みに合わなかったので、しばしばすべてを投げすてるのを見て苦痛を感じました。

東南アジアから冬服なし、多くは半ズボンで冬の門司港に到着し、5日間も放置されていた。

モー少佐の部隊が到着するまでに、すべての健康な捕虜と患者の大多数は船を離れるか、船から連れ出されました。残り(私たちの責任)は、船内の非常に病んだ男たちで、波止場で悲しげな忍耐強い目で私たちを見ていました。これらの男性は誰も冬服を持っておらず、多くは長ズボンを持っていませんでした。

 

私たちの一行は、重いオーバーコートを脱ぎ捨て、患者の上にかぶせました。そして、ドックで見つけた男たちを、私たちの渡し舟となるはずの小さなジャンク船に導いた後、私たちは再び船に乗り込みました。


もう一度前方の船倉に降りると、ゴミ、排泄物、食べ物、衣類、備品の不潔な臭いの塊を見つめ、その中にはまだ生きているかもしれないし、生きていないかもしれない死体があちこちに見えた。私たちはすぐに、その前方の船倉の捕虜の体をふみつけてしまいました。約4人が死亡し、2人がほぼ死亡していることがわかりました。残りの患者は、中等度の重症から絶望的なケースまで、さまざまな病気の段階にありました。そこには、病気に苦しんでおらず、ただ完全な疲労に苦しんでいる一人の男性がいました。この男は、一人でその船倉にいる病人の世話をし、食事を与え、慰め、看護したが、それは彼がこれ以上何もできなくなるまで続いた。彼は男性が死ぬのを見て、再び健康に近い状態にするために何人かを看護しました。

 

この男、砲手 C.W.ピーコック、R.A.は、3日間休むことなく、甲板とがらくたに支えられなければならない状態だったが、患者はなんとかより分けられ、運ばれ、死にかけた人々は死にかけの、すべての遺体は棺桶にきちんと並べられていた。甲板の下には、死者と瀕死の人物の身元確認に取り組んでいた日本人の女医がいて、患者を甲板まで3階分上り、そこからジャンク船まで運ぶのを手伝ってくれたクーリーもいました。がらくたの中で、男たちは全員ハッチとその周りに置かれ、厳しい寒さにさらされました。しかし、これを避ける方法はありませんでした。

 

最後の患者を運び、クーリーたちに不潔な船倉を取るに任せた後、ジャンクは捨てられた。ジャンク船は係留ワイヤーを汚し、1時間近く停泊した後、海を渡って下関の方角に向かい、使われなくなった検疫所に向かった。そのジャンク船の中には、ジャワ島とシンガポールから来た約56人の男たちがいた。検疫所で積み替え、受け入れ準備が整ったメインルームに運びました。床にはマット(タタミ)が敷き詰められ、周りには5枚の毛布が間隔をあけて積み上げられていました。

 

他の2つのグループは、数日前にソイメを降ろした同じ船の患者に対して同じ種類の作業を行いました。ラインベリー大尉の一行は、この目的のために一区画が確保されていた小倉陸軍病院に行った。

 

アデロイド大尉の一行は、誰もいないY.M.C.に向かった。門司の建物で、彼を待っていた約300人の患者と合流した。

 

この2つの部隊は、善通寺に戻るまでの全期間をこれらの同じステーションで過ごし、一方、モー少佐の部隊は後日長崎に進み、そこで2つのキャンプで程度の低い緊急事態の患者を治療しました。

Surg Lt. S.E.L. Stening Surg Lieut Samuel Lees Stenning RANVR Navy Dept Melbourne Original File Copy J-10 17 Sep 45.

 

到着先の捕虜収容所で

こうして日本への移送中に犠牲となる捕虜もいれば、到着した先の日本軍の各地の捕虜収容所内でも多くの捕虜が犠牲となっている。

Recovery and Rescue -- Fukuoka Division Camps, Page 2

 

折尾分所 捕虜収容所だけでも、終戦時の被収容者1062人(蘭764、米138、英117、豪41、他2)、収容中の死者74人。このうちオーストラリア兵1人は逃亡を計り銃殺された。

Recovery and Rescue -- Fukuoka Division Camps, Page 2

 

9月15日、陸軍救出チームを受け入れ喜ぶ折尾の捕虜収容の捕虜たち。まだまだ捕虜の救出には時間がかかった。

Recovery and Rescue -- Fukuoka Division Camps, Page 2

 

からみあった歴史をたどるように見ていくことの大切さ

刑務所よりひどいといわれている日本の入管では、壁の中に閉じ込めた「外国人」の虐待死が数々問題となっているにもかかわらず、その状況は今も改善されないままである。なぜ壁の中の虐待死は繰り返されるのか。

14:30過ぎ、看護師と職員が入室。マッサージを受けるウィシュマさんが「あー」と苦しがる、「痛いっていうのが分かっていいよ」と看護師が明るく答える。うめくウィシュマさんの横で看護師と職員が「(外部病院の医師が)かっこいい」「(別の医師は)ピチピチのギャル系」と談笑する。ウィシュマさんが痛みに声を上げると、看護師と職員どちらかから、なぜか笑い声があがる

うめくウィシュマさんの前で談笑――監視カメラには何が映っていたのか | Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)

 

ナショナリズムとデモクラシーは外見的に似ており、時として見分けがつかないが、自国民の人権だけを主張し、重要とみなすのはナショナリズムであり、人権・民主主義とは異なる。

 

戦後79年間、日本は何と向き合い、何を学んできたのか、日本の民主主義は成熟しているのか、それともベニア板のナショナリズムのままであるのか、

 

戦争を地元だけで取材し、「本土」の戦争被害だけ振り返るなら、日本人は戦争の犠牲者のようにみえるだけだ。だが、そんな理屈は通用するわけもない。

 

網の目のようにからみあった戦争の歴史を、その網の目をたどるようにして見つめ、そこから広く歴史を知り、学ぶことが大切である。

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 

 

*1:日本では、「満島捕虜収容所」などで捕虜にゴボウを食べさせただけで「二人が死刑、三人が終身刑、二人が十後年以上の有期刑の判決」などゴボウで死刑いう俗説がいまだに拡散されているが、その出典は不明である。実際のところ、満島捕虜収容所の捕虜は平岡発電所の建設工事に従事させられ、ハーグ陸戦協定どころか、終戦時、収容人員308人(英国人215名、米国人93名)に対し、59人の死者という極めて異常な事態に対し、細かな項目において聞き取り調査がなされた。記録されている尋常ではない満島捕虜収容所の死者数と、あきらかにされた所内の恐るべき状況を語ることなく、ゴボウを食わせたことで刑を受けたという俗説ばかりが、今もまことしやかに語られるというのは、今なお自国戦争犯罪に向きあうことを避け続ける日本の悪しき認知バイアスである。

*2:ニール・M・リード「長崎の英国人捕虜」from BBC - Basically Okinawa

*3:Mark Parillo 氏の講演では "nation" という言葉を使っていると思われるが、ネーションとは、「民族」という意味と同時に、「国」「国家」という意味でもある。

*4:福岡第4分所(門司)では終戦時収容人員305人(英107,米102,蘭91,他5)に対し収容中の死者191人。他に輸送船での死者93人が記載されていると思われる。See. POW研究会 POW Research Network Japan | 研究報告 | 死亡捕虜リスト | 収容所別

*5:赤痢は経口経由で感染するが、一体こうした「検査」は何のために行われたのだろうか。衛生上適切なものなのだろうか。