名護「田井等収容所」と「川上カンパン」

 

名護市広報「市民のひろば 」 no. 585 (2020年) から抜粋。

名護市広報「市民のひろば 」 no. 585 (2020年) pdf

 

山を下り、田井等収容地区へ

米軍は、沖縄本島石川以北に 13カ所の収容地を設け、中南部で捕らえた避難民を収容した。 名護市内では羽地村田井等、久志村瀬嵩、大浦崎が主な収容地区 となり、中でも県内最大規模で あった田井等収容地区は中南部からの避難民も数多く収容され、最大8万8千人余り (1) までふ くれあがった(表)。

 

 

6月中旬になると、米軍の投降勧告に従い、山を下りる地域住民が現れはじめた。しかし、早くに山を下り投降した者は「非国民だ」「スパイだ」などと非難 された。「私たち家族が山から 下りたのは45年の7月でした。「私と母や姉、妹は新島俊夫先生 の家に住まわせてもらいまし たが、山で捕虜になった父は川上のカンパン=労働者収容所 (Compound)に収容されていました」。

 

 

当時羽地国民学校2年生 だった島袋徳次郎さんは回想する。

 

山から下りた住民は、ノミやシラミを駆除するため、DDT(有機塩素系の殺虫剤・農薬)を頭からかけられた。人事監督署で家族構成などを聴取され、働ける男は逃げられないよう金網を囲ったカンパンへ入れられた。集落の家にはすでに中南部からの避難民が住み着いていたため、多くの地域住民は自分の家へ帰ることはかなわなかった。働ける男を除く女や子ども、老人は米軍から支給されたテントや残っている家に何家族もすし詰めになって暮らした。女は、米軍の軍服の洗濯や裁縫などの仕事を与えられ、子どもは水くみや薪集め、また米軍が道ばたに捨てるたばこの吸い殻を集め食料と交換したりした。

 

 

カンパンの男たち

カンパンには米軍の見張りがいる監視塔があり、脱走する者を容赦なく射殺した。遺体は見せしめかのように何日も道に放置された。カンパンに収容された男は、米軍の軍作業などに駆り出された。「軍作業には、毎朝作業員を要求するトラックがやってきて「何名必要だ」というのす。そして並んだ順にGMC(米軍のトラック)に乗せて連れていくんです。(中略) 作業の主なものは、例えば道路工事の際に機械でできないところをやるとか、また部隊の周辺の掃除などでした。(語りつぐ戦争市民の戦時・戦後体験記録第1集』より抜粋)」とあるとおり、今帰仁村など収容地区の外での軍作業をした者もいれば、収容地区内の米軍施設などで炊事などを行っていた者もいた。

 

島袋さんは、「同じく新島先生の家に住んでいた女性2人が力ンパンの事務職をしていたので、彼女たちに連れられて父が収容されているカンパンへ面会に行きました。父は炊事班だったから、面会に行くたびにおにぎりやアイスクリームの粉とかたくさんもらいました。おいしかった。半年くらいの間に何回も面会に行きましたね。周りの人にも分けてあげたよ。あれがあの戦争の中でいちばん幸せな時だった」と振り返る。


島袋さんの父親が収容されていたカンパンには、米軍から日本兵の疑いをかけられた男がいた。「米軍は、日本兵の疑いがある人には絶対にたばこを吸わせることはなかったんです。だから父はセロハンでたばこを包んでおにぎりの中に入れて、その人に差し入れしてたの。当時は“ヌチグスイ”って言ったらたばこのことでね。私が25歳くらいの時に“あなたのお父さんに助けられた"ってお礼を言ってくれました」。

 

住民の命を奪ったもの

収容地区では、毎日何人も死者が出たとの証言がある。山での米軍の砲撃を生き延び、収容地区で生活するようになった住人の命を奪ったもの、それはマラリアと栄養失調だった。実際に、北部の戦争では銃弾や砲撃に倒れる者よりも、マラリアなどで命を落とす者が多かったと言われており、仲尾さんと島袋さんも、父をマラリアで亡くしている。「マラリアにかかったらカンパンを出される。体温計でも計りきれないような高熱が出て、大人の男が2人がかりで押さえても跳ね返されるくらいがたがた震えている。父はそのまま回復することなく死んだ。それがいちばんつらい思い出です」。島袋さんは声を絞り出すように話し、仲尾さんは「父は16歳で出征した兄が帰る2カ月前に死にました。兄の名前を呼んで待ちかんてぃーしてたのにね。間に合わなかった」と、肩を落とす。

 

また、東江さんは弟を栄養失調で亡くした。「うちは両親がうまく食べ物を蓄えてたから、食べものに困ることは無かったんだけど、弟は3歳か4歳だったから、衰弱して死んだ。医者じゃないから分からないけど、山での生活で衰弱して、あんまり食べ物を食べられなくなったんだろう。栄養失調だと思う。あのころはそこらじゅうで葬式していたよ」。

 

証言によると、収容地区内にある孤児院には、戦争孤児が毎日のように山から運ばれてきた。「山から運び込まれてくる小さ子どもたちは、裸にされていましたが、どの子も栄養失調でした。縁側に寝かされても翌朝までに半数は死んでいましたが、「シニイジ」と言いますが、子どもたちは汚物にまみれており、朝鮮の女の人たち*1 が段ボールに入れて埋葬していました (『田井等誌』より抜粋) 」とあるように、山で避難している時に両親を亡くし、孤児となった幼い子どもたちが、自力で食料を確保することが困難であることは想像に難くない。マラリアで命を落とした者や、栄養失調で亡くなった幼い子どもの遺体は、大きな穴にまとめて埋葬された。その場所は、今では農地になっている。米軍は、死者の記録は付けていないため、収容地区内で亡くなった人数は不明のままだ。

 

 

収容地区での食料
収容地区に収容された住民は、米軍からカロリー計算された食料を配給された。主な配給品は米や小麦粉、缶詰、砂糖やチーズだったが、空腹を満たすにはほど遠かった。9月に入ると悪天候や輸送する船の不足から、米軍は必要な食料を配給することができなくなっていた。軍作業に出た者は米などの特別配給(特配)が支給されたり、米軍施設の炊事場で作業していた人は、豚肉や牛肉などの米軍の余り物を持ち帰り家族に与えることができた例もあったが、多くの住民は収容地区に移ってからも食料には困窮していたため、米軍の駐屯地に捨てられた食料を拾ったり、倉庫から缶詰などを盗み「戦果」を得て空腹を凌ぐ者もいた。特配も戦果もない住民は、今帰仁や本部まで芋を取りに行き、自力で食料を調達しなければならなかった。しかし、収容地区から出ることは禁止されていたため、MP(軍警察)に捕まったり、「せっかく手に入れた芋を没収という名目でCP(米軍によって任命された民間警察)によって奪われることもあった」と東江さんが証言するとおり、自力で調達することすらままならないこともあった。


収容地区内の孤児院での食料事情もひどく、「孤児院での生活はヒドイものでした。小学生の僕らは山でチイパッパー(ツワブキ)を取ってまかないのおばさんに炊いてもらう。(中略) 後で知ったことですが、食料を運ぶ大人たちは孤児院の分を横流ししていたという(『田井等誌』から抜粋)」と、耳を疑うような証言もある。山での避難中も、食料を盗んだ盗まれたとの証言もあり、戦時中がどれだけ異常な事態にあったかがうかがえる。


田井等収容地区の終わり
1945年の4月時点では、田井等収容地区にはおよそ200人の難民などが収容されていたが、前述のとおり8月までの4カ月で8万人以上(1)増加した。米軍は住民を長期にわた収容するため、裁判所や病院、警察署、孤児院などを設置した。4月中にメイヤー(村長)として池宮城永錫を任命し、その他助役、班長を立て区画ごとの自治組織を作らせた。さらに米軍は9月には県内の各収容地区で市議会議員選挙、市長選挙を続けて行わせ、田井等収容地区では選挙による初の市長として、平良辰雄氏が当選し、当時の親川公民館を田井等市役所とした。しかしその翌月の10月には田井等市民に対し元の居住区へ戻るよう帰還命令が出され、収容されていた住民はぽつりぽつりと故郷への帰路についた。

 

11月にはほとんど地域の住民のみが残り、市長を務めた平良氏も1月には伊豆味へ帰っている。12月に羽地村制が復活し、8カ月に及ぶ田井等収容地区は終わった。

 

おわりに

基地問題、宮森小学校への米軍機墜落、保育園への部品落下・・・米軍による事故は絶えない。戦争は家族をも分断してしまう。戦争は絶対にしてはいけない。私にも孫がいる。子どもが安全に暮らせる日が続いてほしい」。島袋徳次郎さんは、遠くを見つめ話す。74年前に亡くした父親を思い出していたのだろうか。


野岳を望むのどかな田園、静かな集落、美しい羽地内海。15年前のこの場所で、人々がどう生き、どう死んでいったのか。戦争とは何か、なぜ戦争をしてはいけないのか。平和について改めて考える機会にしてほしい。

 

(1)資料によって数値は大きく異なる。8万8千人という数値は Resettlement: Northern Area Statistics「沖縄戦後初期占領資料」(P16 表)によるもの。6万4千余りとする資料も
ある。

参考資料
名護市史本編・3名護・やんばるの沖縄戦
語り継ぐ戦争市民の戦時・戦後体験記録
田井等誌
取材協力
島袋徳次郎氏、東江常雄氏、
仲尾善二氏
川満彰氏(名護市教育委員会)

 

米国海兵隊: Two homeless waifs taira.

2人の宿無し子。田井等にて  1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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*1:朝鮮から連れてこられ慰安婦にさせられた女性たち。