Ichi Banare LORAN Station
イチバナレ (伊計離)・ロラン局
伊計 (いけい) の琉球語の発音は1879年から ( a ) Ichi , ( b ) Ike , ( d ) Ikei と変化した*1。沖縄戦のただなかで伊計島北端にロラン局を設置した米軍は、伊計離ステーションと呼んだ。
1945年 米軍 イチバナレ・ロラン局
調査: 1945年5月3日
建設: 1945年5月15日
開設: 1945年9月1日
閉局: 1964年7月12日*2
伊計島、宮城島の住民はみな6月に平安座民間人収容所に収容された。
平安座島までたどり着いたのは、5月頃でした。その頃、平安座島は、石川と同様に住民の収容所になっていました。おそらく、島には米兵が120~130名はいたと思います。昔の小中学校の敷地には、米軍が駐屯していました。米軍によって、いつの間にか平安座集落は「平安座市」になり、「平安座市長」も任命されました。当時、平安座島には8,000名くらいの人がいたと思います。近隣の宮城島や伊計島の住民も収容されていました。浜比嘉島の島民は、浜比嘉島だけに収容されていました。平安座島の収容所には、当然、対岸の屋慶名の住民もいました。与勝半島一帯から住民が収容されていました。那覇から島に避難していた方々も、大変な思いをしていました。食料もなく、避難民は狭い場所に詰め込まれて生活していました。平安座島は畑も少なく農作物を作る場所もないので、食料には大変困っていました。
当時は、米軍からの配給物資がありました。当時は占領下で、流通するお金はなく、米軍の配給所から配給がありました。配給の時には、家族ごとに名簿が作られました。その名簿によって、配給の数量が決まりました。1人あたりいくらという数量が決まっていました。配給所からは物資として、メリケン粉(小麦粉)やお米、缶詰などが各家庭に配給されました。当時の状況では、土地の生産性はありません。農作物などの作るものがありませんでした。みんな米軍からの配給で生活をしていました。食料は、それだけでは十分ではありませんでした。
当時の忘れてはならない出来事があります。対岸の屋慶名やその周辺一帯には、戦火を免れたきれいな家がありました。昔の家はみんな木造なので、瓦屋根の家を解体し、それを平安座島に建てようと思ったのでしょう。力のある数名で木造の建物を解体して、それを運搬して来ました。当時、米軍が任命した警察官は「アカボウシー(赤帽子)」と呼ばれ、鉄兜の赤帽子をかぶっているのは米軍によって任命された民間の警察官でした。解体してきた家を建てようとした人たちは、その警察官に見つかってしまいました。そして、当時の刑務所は「金網」と呼ばれていましたが、金網で囲われたその場所に留置されてしまいました。
当時は漁業もできませんでした。人々はみんな捕虜になっていましたから、拘束されて自由に活動ができませんでした。戦時中、日本兵には「斬り込み隊」というものがあり、夜間に米軍に対して斬り込み攻撃を行うというようなものでした。捕虜になった住民を自由にさせると「斬り込み隊」になりかねないということで、漁業もできない。農業も自由にできない。そのように自由が奪われていました。ただ幸いなことに、平安座島には日本兵はいませんでした。もし日本兵がいたら、大騒動になっていました。この地域は、米軍が統治するには治めやすい所だったのではないかと思います。対岸の屋慶名から坂道を上って行くと、そこには「チャイナ部隊」がいました。中国の蒋介石の部隊が駐屯していましたが、その理由はわかりません。近くの饒辺辺りには、ナイキミサイル基地がありました。
米国陸軍通信隊: Rep Alfred D. Sieminski, 13th Dist, (Jersey City,N J) bids farewell to members of the Loran Station at Ichi Banare Shima, in the RYCOM. /
【和訳】琉球軍司令部イチバナレシマで、ロランステーションの隊員に別れを告げる第13地区アルフレッド・D・シーミンスキー下院議員(ニュージャージー州ジャージーシティ)。 伊計島 1952年4月24日
Lieutenant Lealie M. Craig of Chicago, Ill., at the Loran Transmitting Station.
クレイグ大尉。ロラン送信局にて。 伊計島 1952年 5月26日
1945年9月1日 - 開設
1945年10月 - 台風で放送停止被害
1950年9月 - 台風 Emma の甚大な被害で放送停止
1964年7月1日 - 慶佐次通信所に移設、12日に閉局。*3
跡地
伊計島ロラン局の南側に小飛行場 (cub airstrip) らしきものも見られる。
ロラン局の跡地は、伊計島温泉 AJリゾートアイランド伊計島となり、南側の小飛行場は伊計島サーキットとなっている。
本部飛行場と石灰岩でがっちり固められた滑走路を農耕地にもどすのは極めて困難である。そのためサーキットとしての開発を進めたと思われる。
その後、サーキットは 2013年に閉鎖され*4、隣接するホテルに吸収された。いまはみんなが楽しめるセグウェイサーキットになっているよう。
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