FAC6022 嘉手納弾薬庫地区
総面積約27.2㎢。
沖縄県読谷村、沖縄市、嘉手納町、恩納村、うるま市にまたがる。
1972年「沖縄返還協定」で嘉手納弾薬庫としてまとめられた米軍基地
FAC6022 | 嘉手納弾薬庫地区 | 嘉手納弾薬庫 |
比謝川サイト | ||
波平弾薬庫 | ||
読谷合同廃弾処理場 | ||
陸軍混成サーヴィス群弾薬庫 | ||
知花弾薬庫 | ||
嘉手納ヴォルタック施設 | ||
嘉手納タカン施設 | ||
東恩納弾薬庫 |
沖縄県「米軍基地環境カルテ・嘉手納弾薬庫」
覆土式、野積式、上屋式の各種の弾薬庫。
嘉手納弾薬庫地区は、嘉手納飛行場に隣接する広大な森林地帯に位置し、施設内には森林地帯の中に覆土式、上屋式、野積式など多数の弾薬庫や弾薬補修工場、検査室、弾薬処理場、管理事務所等があるほか、ゴルフ場や県道 26 号線の南東部分には住宅地区が所在している。この施設は、空軍及び海兵隊が共同で管理しているが、主要部隊は第 18 航空団第 18 整備群の第 18 弾薬中隊で、沖縄に駐留する米軍のみならず、太平洋地域の部隊が使用する弾薬類の貯蔵、整備を行っている。また、平成 18 年末に、米軍のペトリオット・ミサイルが配備されて運用を開始しているほか、シルバー・フラッグ・サイトと呼ばれる訓練施設でエクスプローセブ・シミュレーター(模擬爆発装置)と水蒸気を使用した基地修復訓練が実施されている。同施設内には、保安林、倉敷ダムなど県の財産が存在しており、それらの土地も米側に提供されている。
沖縄県「沖縄の米軍基地」(平成 30 年 12 月)
多くの集落が米軍に占有され嘉手納弾薬庫内に飲み込まれた。
例えば、沖縄戦当時、牧原地区には長く米海軍シービー (建設大隊) が駐屯し米軍基地の建設に携わった。牧原地区は最終的に嘉手納弾薬庫として接収され、南側が一部 1991年に返還されたのみとなっている。
戦前の牧原集落。
住民は排除され、建設大隊のキャンプ地となった牧原 (Makibaru)。
嘉手納弾薬庫と沖縄核密約
これが核の密約。
われわれが共同声明で述べたとおりで、米国政府の意図は、実際に沖縄の施政権が日本に返還されるときまでに、沖縄からすべての核兵器を撤去することである。そして、それ以降は、共同声明で述べたとおり、日米安全保障条約と関連する諸取決めが沖縄に適用される。しかしながら、日本を含む極東諸国の防衛のため米国が負っている国際的義務を効果的に遂行するために、米国政府は、極めて重大な緊急事態が生じた際、日本政府との事前協議(A)を経て、核兵器の沖縄への再持ち込みと、沖縄を通過させる権利を必要とするであろう。米国政府は、その場合に好意的な回答を期待する (B)。米国政府は、沖縄に現存する核兵器貯蔵地である、嘉手納、那覇、辺野古、並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、極めて重大な緊急事態が生じた時には活用できるよう求める。 日本国総理大臣 日本国政府は、大統領が述べた前記の極めて重大な緊急事態の際の米国政府の諸要件を理解して、かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの要件を満たすであろう。
リチャード・ニクソン米国大統領、1969年11月21日発表のニクソン米合衆国大統領と佐藤日本国総理大臣との間の共同声明についての合意議事録
「返還太り」のゴルフ場
米軍は、純粋な軍用施設だけではなく、さらに遊興施設も必要とした。米軍公刊史をみてみよう。
このようにして、1946年に作られた泡瀬ゴルフ場は、1954年、さらに土地を強制接収し拡張された。
【和訳】米軍の多くは、土地問題にかかわるこうした感受性の欠如を実証した。最も明白な例の1つは、陸軍の泡瀬メドウズカントリークラブのゴルフコースを拡張するためにコザ市近くの土地を接収する案を含む土地取得マスタープランだった。こうして貴重な耕作地は18ホールのコースに充てられた。島には幾つかの米軍遊興施設が明らかに必要であるという事実にもかかわらず、多くの土地所有者は、明らかに優先順位の見当違いであるこの接収に苦い思いをした。彼らの苦情はアメリカ人を驚かた。というのも彼らは同じ土地を耕すよりも、ゴルフ場で働くことで、今までにないほど多くのお金を稼ぐことができるだろう、と考えていたからである。再び、短絡的な経済視点が優先された。どうやら、沖縄人の元所有者が独立した農民として沖縄社会での地位を維持することのほうがもっと幸せに暮らせるのかもしれないという可能性を考えた人はほとんどいなかったようだ。その代わりに、沖縄人の家族が彼らの土地に恒久的に駐屯しにやってくる外国人のためのキャディーやバーテンダーとして、より多くのお金を稼ぐことに満足するだろうという想定だった。数エーカーの土地を取得するという一見単純な過程で、米軍は誇り高い地元土地所有者を召使いの地位に引き下ろしたのである。
Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. Center of Military History United States Army, Washington, D.C., 1988, p. 177.
しかし、その場所はどう考えても沖縄市とその周辺の経済構造を分断する位置にあり、強く返還が求められた。
1996年、日米合同委員会は、このキャンプ瑞慶覧 (キャンプ・フォスター) 内にあった泡瀬ゴルフ場を「返還」する「条件」として、日本政府は、嘉手納弾薬庫地区内に土地を追加提供 (約2,600 ㎡) し、「新ゴルフ場」を建設、米軍に提供することを決定した。
Before / After
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沖縄防衛局 広報「はいさい」平成22年2月1日 第125号
「太陽」ゴルフコースと呼ばれる泡瀬メドウズに代わる新しい海兵隊ゴルフコースは、泡瀬より75%大きいグリーンを含むいくつかの改良と革新を特徴としています。パー5から始まるフロントナインとバックナインの両方、241ヤードのゴルフ練習場、ゴルフラーニングセンター、2階建てのクラブハウス。… 新しいコースは、ほぼすべての面でAwase Meadowsよりも光年先を行く予定ですが、コースの使命は、最も愛されている顧客である米国を守る軍人と女性にサービスを提供することです。「海兵隊はこのコースを自分たちのものと呼ぶことを誇りに思います」とアーランドは言います。
基地の「返還」ばかりが強調し報道されるが、トリッキーな「条件」、新しい土地の「提供」や日本が税金で維持建設していることを日本のメディアはもっとわかりやすく伝えてほしい。
新ゴルフ場、工事担当者のコメント
移設先のゴルフ場は、米国の基準にも配慮したコースを造る必要があり、工事現場においては、米側担当者との間で何度も綿密な調整を行い、工事を進めて来ました。 そのような中、最も苦労したのが芝の育成や管理です。 ゴルフ場に適した、きめの細かい芝を育成するため、散水や肥料を散布する回数に気を配ったり、 芝に発生する病害菌・病害虫に対して敏速な対応が求められるなど、大変貴重な経験を得ることとな りました。(建設担当者)
Before / After
返還地 泡瀬ゴルフ場 キャンプ瑞慶覧 5,765ヤード 110エーカー 2010年に返還 代替施設 太陽ゴルフ場 嘉手納弾薬庫地区 6,800ヤード 247エーカー 2009年に提供
米軍のゴルフ場はすごい、という前に、そこが、もともとどんな土地で、誰が資金を出し、誰が建設したのか、最低限のことは知っておきたい。
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