メースとは
メースとは、中世の時代、相手の鎧かぶとを打ち砕くのに用いたこん棒であり、また権力の表象としてのこん棒のことであるが、
第二次世界大戦が終わらないうちに次の戦争にむかって突き進むアメリカは、仮想の相手を打ち砕く核の「こん棒」開発に懸命になった。オハイオ州デイトンのライトパターソン空軍基地内にあるアメリカ空軍博物館のメースB、これこそが50年前に実際に沖縄に配備されていたメースBの「現物」である。
【訳】CGM-13Bの運用ユニットへの最初の展開は1961年に始まり、1970年代初頭までヨーロッパと太平洋で運用されました。展示されているメイス「B」は、1971年に配備されていた沖縄から博物館に納入されたものです。
Martin CGM-13B Mace > National Museum of the United States Air Force™ > Display
ちょうど1971年「沖縄返還協定」のあたりで、既にメースはその「時代」を終えていることになる。
4つの「嘉手納サイト」
そのメースBを運営管理していたのは沖縄の米空軍嘉手納基地の第498戦術ミサイル群で、読谷村のボロポイント、恩納村、ホワイトビーチ、金武の4つの「嘉手納サイト」*1 とよばれた地下バンカーで日夜、核を「積んだ」状態で臨戦態勢を維持していた。それぞれ4カ所の「嘉手納サイト」が8基のメースBをおったてていたので、単純計算として合計32基となる。
【訳】嘉手納第1サイト ボロー・ポイント射撃場 読谷
冷戦時代、沖縄は土地を占領されたうえに、なんらの住民の合意もなく、米軍によって勝手にアメリカの核の要塞とされ、1300以上の核兵器が配備されていたが、このメースBという巨大核ミサイルだけで、随時32基もあったというわけだ。そのことを知らずして、沖縄の歴史を語ることはもはやできない話である。
なぜ、沖縄は日本が始めた戦争の末に、核戦争の砦にされなければならないのだろうか。誰か一人でも、核配備に同意しただろうか。これらすべては、沖縄の県民の合意どころか、なんら情報を知らされることもなく行われたことである。
トランプ大統領は、普天間をタダで日本にくれてやるのは損だと、日本に返還のための金銭的な補償 (賠償金) をもとめる算段だった。冗談じゃない。「自由と平等の国」の憲法があるアメリカで、このようにして沖縄は1945年から現在に至るまで尋常ではないほど長期にわたり、非人道的な不利益を受け続けてきた。こちらが米国に補償を求めるべきである。
ということで、今回は、この核ミサイルの管理にあたった極秘の先鋭部隊「第498戦術ミサイル群」をつとめた退役軍人ミサイラーの方々の貴重すぎる証言をもとに、確認できる四枚の「嘉手納サイト」メース基地の写真の場所を特定してみたいと思う。
第1サイト読谷 - 沖縄という核の要塞
読谷、ボーロー飛行場。そこから残波岬まで、ハーキュリーズやらホークミサイルやら、一連の核ミサイルがどっと並び、牙をむいていた。いまの風光明媚な読谷のリゾート地とはまったく違う実態があった。
いまでは想像もつかない核兵器のオンパレード。
県内で一番先に核基地となったのは読谷村のボローポイントでした。1945年(昭和20)4月1日に本島に上陸した米軍は、本土への出撃拠点としてボロー飛行場を建設しました。50年代からはターゲットを共産圏へと変え、ミサイル基地へと機能強化されました。地対空ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」、続いて「メースB」巡航ミサイル基地が建設され、地対空ミサイル「ホーク」と合わせて3種類のミサイルが配備されました。そのうち、メースBミサイルは、広島型原子爆弾の70倍の破壊力を持ち、射程距離は2400キロ、中国、ソ連の一部を射程範囲内に捉え、沖縄の核配備の象徴とされました。メースBミサイルは、バンカーと呼ばれる半地下の発射台から発射するタイプのミサイルで、基地建設には沖縄の作業員たちが従事しました。しかし、作業員たちには、核兵器用の基地であることは伏せられていました。メースBミサイルの基地拠点は、読谷村、恩納村、うるま市、金武町の県内4か所に作られました。
1973年、米軍占領下の空中写真では黒塗りされていた個所が見れるようになる。
- ボーロー飛行場は、現在、残波岬までつながるまっすぐな道路に。
- メースは、ニライビーチと現在のアリビラホテルの駐車場から東側にある。
- ホークサイトは、ローソン読谷長浜店から奥に入った住宅街。
- ナイキサイトは、カナグスク跡の西側の住宅街に
復帰前だというのに自衛官がどっと詰めかけ羨望のまなざしで見学する。それを写真に記録する記者。日本政府が、本気で沖縄の「核抜き」を語っていたわけではないことがよくわかる。実際のところ、日本政府は「沖縄の核ぬき」ではなく、沖縄にある米軍の核の傘におさまり、どこまでも寄り添い「依存」したかったのではないか。そのため沖縄返還の核の密約があり、また、なぜ日本政府が核兵器禁止条約にまったく関心がないどころか、オブザーバー参加も拒絶するのかというその情けない理由でもある。
第2サイトうるま市 - 核施設建設と日本のゼネコン
メースの第二サイトは勝連半島のホワイト・ビーチにあった。メースは開発と同時にいち早く沖縄に配備される。その建設を担ったのは、戦後、沖縄の米軍基地建設を請け負うことで潤う本土のゼネコン建築業界である。表向きは非核三原則と言いながら、日本のゼネコンは米軍の核施設建設まで請け負っていた。下は米軍の機密資料が示す、メース核ミサイルサイト建設の写真。
建設: 沖縄米陸軍工兵地区。工兵隊
施工者:株式会社松村組 ENG-425
プロジェクト完了率: 2.9%
写真の説明: サービストンネルと階段。ショウワ掘削路盤コンクリート用トンネルと階段
場所: サイト 2、ホワイト ビーチ
日付: 60 年 12 月 22 日History of the 313 Air Division (1960) the Matador-Mace Guided Missile Program, pdf
松村組、清水組、大林組。米軍の工事を請け負い、もうかっていたのは本土業者ばかりだった。
沖縄の米軍基地建設で儲かる日本のゼネコン ~ 「米基地工事に本土企業 圧倒的資金で次々受注」(沖縄タイムス) - Basically Okinawa
勝連半島ホワイト・ビーチ地区。六十年代初頭に完成。
写真上部のコの字になっている特徴的な ホワイト・ビーチ地区の防波堤⇩部分に注目してほしい。
メースB基地「第2嘉手納サイト」 (221,000 ㎡) はちょうど防波堤の上の石油タンクの北側に位置していたと思われるが、1976年12月31日に返還され跡形もなくなっている。
ここで留意したいのは、「沖縄返還協定」では、四か所のメース基地は返還の方向に向かうものの、沖縄に多く建設されたナイキやホークのミサイル基地関連の施設の多くは、「返還」というなのもとで自衛隊に移管される。ナイキは航空自衛隊に、ホークは陸上自衛隊に移管され、数年の移管期間に米軍ミサイラーから訓練を受けているという点である。本来は米軍の核兵器ミサイルサイトであり、またその目的に転用できる沖縄のミサイル基地は、こうして「核抜き」などといいながら、日本が自国のものとして取り込んだ。
うるま市のホワイト・ビーチの米海軍・陸軍の施設は、この若干の土地の「返還」という名の米軍基地の自衛隊基地への移管によって、自衛隊の海自・陸自と隣接する。このように「沖縄返還」時の時点で、すでに日米軍の一体化の基盤 (マトリックス) が形成されている。1972年の沖縄の「返還」とは、このように、綿密に巧妙に狡猾に、日米軍事同盟のためにプランニングされたものである。
第3サイト金武町 - メース基地はなぜ「返還」されたのか
金武のキンバル訓練場のメース基地。向こう側は金武湾。
このメースの家の解体現場は、近年私たちが目撃したものである。解体するのではなく、保存し、沖縄の核の冷戦歴史資料館にでもすべきであったと個人的には思う。
カタツムリのように要塞化した家 (バンカー) をもつメースは、沖縄の地上がたとえ核攻撃で焼け滅んでも、中のミサイラーだけは生き残れるような強靭な核シェルターを擁していた。しかし、今や、稼働型ナイキ・ハーキュリーズなどと異なり、時代の変化から取り残された「冷戦時代の長物」でしかない。
だから、過去の遺物は日本に「返還」し、後片付け (解体) は全部日本にやらせる。それが日米地位協定だ。メース撤去だけでかかる費用は、総額約1億5千万円 *2。ギンバル訓練場全体では、土壌調査も含むクリーンアップに2億4113万円以上が費やされた。 これらは、すべて、日本の国民が税金で負担した。
さらに留意すべきは、米軍が「条件付き返還」というとき、それは返還ではなく交換という意味である。ごみを捨てて新品をもらう、という仕組みだ。恐るべき厚顔の米軍は、キンバル訓練場の「返還」に条件をつけ、新たなヘリコプター着陸帯を金武ブルー・ビーチ訓練場に建設させ、消火訓練施設及び泥土除去施設をキャンプ・ハンセンに新築させ移設させた。核ミサイルサイトのゴミを日本にポイ捨てし、新たな施設を日本にプレゼントさせるとは、なんという甘やかしであろうか。覚えておかなければならない。「返還」に条件を付ければ、それは新品と「交換」なのだということを。
第4サイト恩納村 - 唯一現存するメース基地跡の今
第四のメース基地、恩納サイトは山の中腹にあった。
Okinawa's first nuclear missile men break silence | The Japan Times
そしてこれが現在、唯一保存されているメースB基地。1977年、宗教団体創価学会が跡地を購入した。池田大作は、その著「人間革命」で核なき沖縄を切に願い、このメース基地を平和のいしずえとするため、跡地を購入し、平和のための展示場とした。
しかし、いまの創価学会と公明党はどうだろうか。今でも、その平和の希求が生きているならば、そもそも基地推進派や核の傘派の自民党議員と一緒に選挙活動をしているはずがない。自民党と一緒になって基地建設推進派の県知事候補や市長候補を応援し、基地反対派の政治家に対する散々の誤情報スピーチやビラをまき散らしたりなどするはずもない。もし、基地推進派がメース施設を展示するとなれば、それは平和展示ではなく、米軍基地にあるような軍事博物館の展示と化し、メース基地展示の意味は、まったく180度変わってくるからである。
沖縄の「返還」とは何だったのか
以上、米軍の巨大核ミサイル「メースb」がどのように沖縄に配備されていたのか、そして「核抜き」「沖縄返還」という詭弁で、いかに巧妙に狡猾に日米軍事同盟の強化が練られたものであるのか、その一端をメース基地からみてきた。
また4か所の巨大メース基地が現在ほとんど返還されているのも、冷戦時代の核の遺物となった巨大な施設の解体と汚染物質除去をすべて日本に負担させ、新たに代替施設の建設を日本に要求するいつもの米軍の手法だった。
もう一度繰り返すが。このような沖縄の「返還」は、「返還」といえるだろうか。米軍基地が「返還」されて、自衛隊の基地になったのなら、それは返還とはいわない。移管である。
1971年、まだ沖縄の施政権が移行されてもいない時期から、閣僚の中からも「沖繩を甘やかすな」といった基地押しつけの本土の醜いエゴがでてくる。
しかし、歴史から戦争を学ばず、言葉でごまかし、沖縄に甘え、負担を背負わせ、米軍のいいなりであるのは、日本の方であることを忘れてはいけない。
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https://archive.is/97vP https://archive.is/tljhY https://archive.is/i6WQp
*1:四カ所の拠点が嘉手納に位置していなくても「嘉手納サイト」とよばれるのは、その核ミサイルメースの指揮が嘉手納基地にあるから。