今回は、沖縄にあった核ミサイル・メース基地4拠点の写真をそろえて公開!
メースとは
メースとは、中世の時代、相手の鎧かぶとを打ち砕くのに用いたこん棒であり、また職権の表象としての装飾のついたこん棒のことであるが、
第二次世界大戦が終わらないうちに次の戦争にむかって突き進むアメリカは、仮想の相手を打ち砕く核のこん棒開発に懸命になった。
それがこれだ。
Martin CGM-13B Mace > National Museum of the United States Air Force™ > Display
オハイオ州デイトンのライトパターソン空軍基地内に展示されている冷戦時代のメースB、これこそが50年前に実際に沖縄に配備されていたメースBの「現物」である。
アメリカ空軍博物館のメースの解説をざっと訳してみよう。
TM-61Aマタドールの代替品であるメイスは、地上の標的を破壊するために設計された戦術的な地表発射ミサイルでした。最初にTM-76、次にMGM-13、最後にCGM-13Bと指定されたメイスは、移動式トレーラーまたは防爆シェルターから発射できました。マタドールのように、ブースターロケットがメイスを発射し、ジェットエンジンがメイスをターゲットに向けて推進しました。
メイスの開発は1954年に始まり、最初のテスト発射は1956年に行われました。メイスの最初のバージョンである「メースA」は、ATRAN(自動地形認識およびナビゲーション)と呼ばれる地形マッチングレーダー誘導システムを採用しました。レーダー走査アンテナからの帰還は、一連の搭載レーダー地形「マップ」と一致していました。案内システムは、地図から外れた場合に飛行経路を修正しました。 1959年の春、米空軍はヨーロッパに「A」バージョンを配備し、1960年代半ばまで使用され続けました。その後、そのサイズと性能特性が有人航空機のものに似ていたため、一部は無人標的機になりました。
「メースB」モデルの開発は1959年に始まりました。ジャムプルーフ慣性誘導システムを備えていることに加えて、CGM-13Bは以前のバージョンの2倍の範囲を持っていました。 CGM-13Bの運用ユニットへの最初の展開は1961年に始まり、1970年代初頭までヨーロッパと太平洋で運用されました。展示されているメイス「B」は、1971年に博物館に納入される以前に、沖縄で配備されていたものです。Martin CGM-13B Mace > National Museum of the United States Air Force™ > Display
そう。アメリカ空軍博物館に展示されている、この核のこん棒、メースB は、まさに1972年「沖縄返還」の直前まで沖縄に配備されていたという 32基のメースB のひとつである。
4つの「嘉手納サイト」とは
そのメースBを運営管理していたのは沖縄の米空軍嘉手納基地の第498戦術ミサイル群で、読谷村のボロポイント、恩納村、ホワイトビーチ、金武の4つの「嘉手納サイト」とよばれた地下バンカーで日夜、核を「積んだ」状態で臨戦態勢を維持していた。
四カ所の拠点が嘉手納に位置していなくても「嘉手納サイト」とよばれるのは、その核ミサイルメースの指揮が嘉手納基地にあるからであり、それぞれ4カ所の「嘉手納サイト」が8基のメースBをおったてていたので、合計32基となる。
wikipedia 沖縄の米軍基地より
冷戦時代、沖縄は土地を占領されたうえに、なんらの住民の合意もなく、米軍によって勝手に核の要塞とされ、1300以上の核兵器が配備されていたというが、このメースBという巨大核ミサイルだけで、随時32基もあったというわけだ。そのことを知らずして、沖縄の歴史を語ることはもはやできない話である。
なぜ、沖縄は日本が始めた戦争の末に、核戦争の砦にされなければならないのだろうか。誰か一人でも、核を配備してくれと同意しただろうか。
これらすべては、沖縄の県民の合意どころか、なんら情報を知らされることもなく行われたことである。
トランプは、普天間をタダで日本にくれてやるのは損だと、日本に返還のための金銭的な補償 (賠償金) をもとめる算段だった。
冗談じゃない。「自由と平等の国」の憲法があるアメリカで、このようにして沖縄は1945年から現在に至るまで尋常ではないほど長期にわたり、非人道的な不利益を受け続けてきた。こちらが米国に補償を求めるべきものである。
ということで、
今回は、この核ミサイルの管理にあたった極秘の先鋭部隊「第498戦術ミサイル群」をつとめた退役軍人の方々の貴重すぎる証言をもとに、確認できる四枚の「嘉手納サイト」メース基地の写真の場所を特定してみたいと思う。
第1嘉手納サイト
読谷、ボーローポイント。第一嘉手納サイトは高志保あたりにあったというから、現在のむらさきむらのあたり。そこから残波岬まで、ハーキュリーズやらホークミサイルやら、一連の核ミサイルがどっと並び、牙をむいていた。いまの平和な読谷のリゾート地とはまったく違う実態があったのだ。(詳しい位置はまた時間のある時に。)
いまは想像もつかないが、緑色のあたり。
復帰前だというのに自衛官がどっと詰めかけ羨望のまなざしで見学する。それを写真に記録する記者。アメリカの核のちからを羨望する日本とその自衛隊が、本気で沖縄の「核抜き」を言っていたわけではないことがよくわかる。実際のところ、日本政府は「沖縄の核ぬき」ではなく、沖縄にある米軍の核に、どこまでも寄り添い「寄生」したかったのではないか。
それが本稿のテーマであり、また、なぜ日本政府が二日前に発行した核兵器禁止条約にまったく興味がないどころか、敵意すら抱いているらしい、その理由である。
第2嘉手納サイト
勝連半島ホワイト・ビーチ地区。六十年代初頭に撮影されたもの。
AI でカラー化するとわかりやすいかもしれないが、コの字になっている特徴的なホワイト・ビーチ地区の防波堤⇩部分に注目してほしい。
上下が逆になってしまうが、現在の勝連半島ホワイト・ビーチ地区と重ねるとぴったりくる。写真下のコの字型の防波堤が特徴的なホワイト・ビーチ地区。
メースB基地「第2嘉手納サイト」 (221,000 ㎡) はちょうど防波堤の上の石油タンクの北側に位置していたと思われるが、1976年12月31日に返還され跡形もなくなっている。
しかし、ここで留意したいのは、米軍占領下に米軍が管理していたナイキ・ハーキュリーズなどのミサイル基地が関連した施設の多くは、1972年の「沖縄返還」にともない、自衛隊の「高射教育訓練場」 として移管されているという点である。これは非常に興味深い事象であり、核抜き、などという言葉とは裏腹に、日本政府は米軍が沖縄に設営したミサイル拠点を、いわば、自国のものとして積極的に取り込んだといえる。(これは次回具体的にナイキの検証で見ていく。)
ホワイト・ビーチ地区の場合をみてみよう。上の写真で、二つある桟橋の、桟橋の長い方は米海軍管轄、また桟橋の短い方は米陸軍の管轄であるが、
沖縄返還と同時に、長い海軍桟橋の北側の海軍施設が「返還」され、海上自衛隊基地になる。またその翌年は、短い陸軍桟橋の西側の西原第2陸軍補助施設が「返還」され、陸上自衛隊の勝連高射教育訓練場となる。
ホワイト・ビーチの米海軍・陸軍の施設は、この若干の土地の「返還」によって、「くしくも」自衛隊の海自・陸自と隣接する。このように「沖縄返還」時の時点で、すでに日米軍の一体化と連動の基盤 (マトリックス) が形成されている。
このようなものを「返還」といえるだろうか。米軍基地が「返還」されて、自衛隊の基地になったのなら、それは返還とはいわない。移管である。
1972年の沖縄の「返還」とは、このように、綿密に巧妙に狡猾に、日米軍事同盟のためにプランニングされたものである。
第3嘉手納サイト
金武村のキンバル訓練場
向こう側にみえるのは金武湾であろう。AI で加工してみる。
このメースの家の解体現場は、近年私たちが目撃したものである。
現役で需要ある稼働型ナイキ・ハーキュリーズなどとは異なり、カタツムリのように固定化した家 (バンカー) をもつメースは、時代の変化から取り残された「冷戦時代の長物」でしかない。だから、さっさと日本に「返還」し、後片付けは全部日本にやらせる。このギンバルメースの家の解体だけで、どれだけの日本の税金が費やされただろうか。
メース撤去に総額約1億5千万円[1]。ギンバル訓練場全体では、返還された土地の土壌調査やクリーンアップ費用に241,132,500円が費やされた[2]。
これ、すべて本来は米軍が支払うべき仕事である。
第4嘉手納サイト
第四のメース基地、恩納サイトは山の中腹にあった。
Okinawa's first nuclear missile men break silence | The Japan Times
そしてこれが現在、唯一保存されているメースB基地、あの沖縄池田平和祈念館だ。
池田大作は、その著「人間革命」で核なき沖縄を切に願い、このメース基地を平和のいしずえとするため、跡地を購入、そのままの形状をできるだけ保存して、一般公開している。
今でも、その「核抜き」の平和の希求があるなら、そもそも基地推進で核積極容認の自民党と一緒に選挙活動をしているはずがない。
自民党と一緒になって鬼の形相で基地推進派の沖縄県知事候補や名護市長候補を応援し、散々のデマをまき散らしたりなそ、するはずもないだろう。
なぜならば、創価学会と公明党が、沖縄の基地推進派に転向すれば、このメース基地の所有の意味は、まったく180度変わってくるからである。
創価学会は、ほんとうに平和を願ってメース基地を所有しているのか、それとも、アメリカの基地内によくありがちな資産、軍事博物館として、このメース基地を所有しているのか。
そのどっちなんだ !
ということだ。
沖縄の「返還」とは何だったのか
以上、米軍の巨大核ミサイル「メースb」がどのように沖縄に配備されていたのか、そして「核抜き」「沖縄返還」という詭弁で、いかに巧妙に狡猾に日米軍事同盟の強化が練られたものであるのか、その一端をメース基地からみてきた。
もう一度繰り返すが。
このような沖縄の「返還」は、はたして「返還」といえるだろうか。米軍基地が「返還」されて、自衛隊の基地になったのなら、それは返還とはいわない。移管である。
沖縄に主権がないまま、今では、米軍も自衛隊の基地もダブルで押しつけられている。
沖縄は、今もこのように日本の反民主主義的な国家主義的エゴイズムにいいように利用され、踏み台にされているだけなのだ。
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