ギンバル訓練場には嘉手納第3サイト、つまりメースBの基地「嘉手納サイト」のひとつだった。
コマンド・コントロールが嘉手納基地のなかにあるので、嘉手納サイトと呼ばれるが、「沖縄が焦土と化しても敵の追加攻撃を封じるのに十分な反撃能力を維持できるよう、米軍が核ミサイルを分散配置」*1した一つの例である。
wikipedia 沖縄の米軍基地より
第3嘉手納サイト
金武村のキンバル訓練場
解体されないままのメース基地。
国土地理院 空中写真サービス COK771-C37-18 撮影年月日 1977/12/07
解体が始まる。
公開された「メースB」の発射施設は、アメリカ軍が1957年に建設したもので8基の発射台がありました。ギンバル訓練場は2011年7月に返還されましたが、発射施設の一部である地下室などはそのまま残っていたため、現在、沖縄防衛局が1億5000万円かけて原状回復の作業を行っています。
「メースB」は復帰前中国への核抑止力として建設されたもので、県内には金武町をはじめ読谷村、勝連町、恩納村の4カ所に設置されていました。
カタツムリのように固定化した家 (バンカー) をもつメースは、時代の変化から取り残された「冷戦時代の遺物」そのものだった。すさまじいコンクリートの構造物は、解体だけでも膨大な費用がかかる。だから原状回復の費用は日本に任せ、沖縄に「返還」する。四カ所のメース基地 (嘉手納サイト) はこのような理由で返還されている。
メース撤去に総額約1億5千万円[1]。ギンバル訓練場全体では、返還された土地の土壌調査やクリーンアップ費用に241,132,500円が費やされた[2]。
【金武】2011年に返還された金武町のギンバル訓練場跡地で、核弾頭を搭載できる中距離弾道ミサイル「メースB」基地跡地の撤去工事が進んでいる。米国統治下の沖縄では冷戦の影響で大量の核兵器が配備され、住民は核と隣り合わせの生活を強いられていた。
メースBもその一つ。搬入をめぐり、1961年に外相が政府への批判をかわすため「ひっそりとやってくれ」などと事後発表を米側に求めた記録が残る。日米史研究家の新原昭治氏は「対米追従で沖縄をどうにでもしてくれという政府の姿勢は今も変わらない。その問題を象徴する基地がなくなっても、歴史を語り継ぐことが重要だ」と指摘する。
60年代の米軍ギンバル訓練場内ではミサイル基地だけはフェンスに囲まれ、24時間の監視が行われる厳戒態勢の中、訓練が行われていた。
ミサイルを載せた大型トラックが基地に着くと分厚い鉄扉がゆっくり倒れて開き、米兵らが慎重にミサイルをレールに乗せて格納庫に収めた。格納庫から弾頭付近をのぞかせたミサイルがエンジン調整とともに排気音を響かせると、格納庫後方から地上に伸びた排気口から煙が吹き上がる。射程2400キロ、1・1メガトン以上という広島原爆の70倍以上の核爆発力を有するメースBミサイルの基地は、いつでも発射できる態勢を維持していた。
同基地に近い中川区に住む浦崎直秀さん(59)は少年の頃、訓練を見たが怖いとは思わなかった。しかし、約37年前、ミサイルが撤去された後に基地に入り、格納庫の鉄扉の撤去作業に関わった際、恐ろしさを感じた。間近で見る基地の壁や鉄扉は核の威力を示すかのように厚さが1メートル以上もあった。作業時、留め具を外した鉄扉が前方に倒れた衝撃と風圧で正面に止めていたクレーン車の窓が割れる事故も起きた。「核を扱う基地はこんなにも頑丈なのか」。地下室には複数の大型エンジンが置かれ、隣には部屋、さらに奥にはエレベーターなどもあり、不気味な暗がりの中「生活の近くに核があったと思い知らされた」。
そのような光景は、1961~62年にメースBが配備された、金武町を含む、読谷村瀬名波、うるま市勝連、恩納村谷茶の基地周辺でも同じだった。63年に読谷のミサイル基地を訪れた新原氏は畑や集落の近さに驚いた。
新原氏は「かつての被爆国が国民からの核の抗議を避け、基地建設を優先する政府要人の心情は想像を超える」と話す。「沖縄への大量の核兵器配備問題の典型的事例がメースBだ。米国統治下の沖縄をどうにでもしていいと切り捨てる、ばかにしたやり取りだった」と語った。(嘉陽拓也)
ギンバル訓練場の跡地開発
メースの構造物を一部でもそのまま残して、展示にしてもよかったのではないかと思う。
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