1945年 - 屋嘉捕虜収容所
この海岸は1945年、沖縄戦における捕虜収容所の本部となった。屋嘉の集落をブルドーザーで敷きならして、広大な収容所を設営した。完成したのは7月中旬。
6月中旬に屋嘉収容所に到着した捕虜の証言
行き着いた所は屋嘉の部落で収容所は設営中で、海岸沿いが半分有刺鉄線で囲われて、山沿いの方は美しい福木の並木や囲いもあり、家も点在していたが、全部ブルドーザーで敷きならし障害物のない砂原にしてしまった。
移動した日はテント張りもせず砂の上に寝た。ふと目を覚すと丘のあった方向に月が出ていて丘が無くなっていた。夜が明けてから確めて見ると、やはり丘がけずり取られ道が開けられていた。ブルドーザーの威力を今更ながら見せ付けられた。
山田有昻「屋嘉収容所」~ 那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記・戦後編』(1981) - Battle of Okinawa
小さな少年兵 (鉄血勤皇隊や通信隊の学徒兵) らしき姿も多く見られる。また兵士に分配されている箱状のものは、レーションとよばれる戦闘糧食。日本兵捕虜、石川 (屋嘉収容所) 1945年6月26日撮影 (沖縄公文書館所蔵)
屋嘉レストセンター
屋嘉捕虜収容所は中南部の巨大な軍事基地から距離があるため、捕虜を港湾作業など兵站や基地建設に使役する方針にシフトし、また捕虜の復員も開始されたため、他の7カ所の捕虜収容所より最も早く閉鎖された。
その後、米軍の保養施設「屋嘉レストセンター」となる*1。
上の屋嘉捕虜収容所のショットと比較してみると、同じ場所からの撮影のような気がする。
軍施設・軍用機/Aerial View of Yaka Beach reveals beautiful resort(屋嘉ビーチの遠景) : 那覇市歴史博物館
1972年5月15日時点での状態
- 場所: 金武村字屋嘉
- 面積: 約93,100㎡
1979年8月31日に閉鎖される。
Yaka Beach EM Rest Center, 1954 米国陸軍通信隊 沖縄関係 Entrance to the Yaka Beach Rest Center. 屋嘉ビーチの保養施設入口 撮影地: 金武町屋嘉 撮影日: 1954年 沖縄県公文書館
1979年8月31日に全部返還。
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*1:金武村屋嘉に、本島で最大の日本軍捕虜収容所があり、捕虜の帰還が完了した後、跡地に米軍一般兵士用のレクリエーションセンターが建設され屋嘉ビーチと呼ばれるようになった。 米軍施設/米軍一般兵士用レクリエーションセンター(屋我レストセンター)/屋嘉ビーチ入口 : 那覇市歴史博物館