奥間小飛行場

奥間小飛行場

米軍「奥間レストセンター」は国頭村奥間にある米軍保養施設 (基地)。そこに現在は使われていない小飛行場がある。

 

沖縄県における駐留軍用地の現状

 

米軍奥間レストセンターの入り口から内側に向けて岬を横切る滑走路が見られるが、現在は構造物などが置かれていて使用されている形跡はない。

 

 

 

今回の在沖米軍小飛行場探求シリーズでは、この奥間小飛行場がいつ建設されたのかをみてみたい。

 

丘陵多く切り立つ海岸の多い北部では、農耕地に適した平野が少ない。地質的に稲作の水田となればなおさら限定される。しかしながら、戦前から「沖縄三大美田」といえば、北谷町の「北谷ターブックヮ」、名護市の「羽地ターブックヮ」、そして国頭村の「奥間ターブックヮ (田圃)」、といわれるほどであった。奥間の水田の豊かさはそれほど有名であり、戦争中に疎開をする際にも、食べ物がたくさんあるだろうということで奥間に疎開したいと望むものも多かったという*1

 

1944年米軍が沖縄侵攻に先駆けて撮影した空中写真は、その奥間の豊かな水田「奥間ターブックヮを撮影している。

 

赤丸岬に広がっているのは甘藷などの畑のようで、北側の桃原や右側に広がっている面が水田のようにみえる。

 

その後、何が起こっていったのか。

 

1947年 米軍「奥間レストセンター」のための接収

1945年9月7日 沖縄での降伏調印式で正式に沖縄戦終結する

1947年8月1日 軍の保養施設として土地が接収され「奥間レスト・センター」の建設が始まる。

奥間ビーチの建設は、それを紹介する米空軍の広報と星条旗新聞が、町長をはじめとした村民が諸手を挙げて喜び受け入れた*2、等の米軍美談として語っているが、実際には、沖縄戦とその後の収容所生活で餓死者を多く出した北部で、また多くの土地を米軍基地として奪われたことが事実化するこの時期、数少ない農耕地を接収されることは深刻な死活問題であった。国頭村長と大宜味村長を筆頭に、1266名が陳情書を出している。

 

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1951年 VOA「奥間送信所」のための土地接収 

朝鮮戦争NHK

1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると、GHQは占領下の東京にある日本放送協会 (NHK) の放送施設を使って朝鮮半島向けの朝鮮語の放送を開始した。6月28日にはNHK第二放送で「マッカーサー司令部の声」(後の VUNC「国連軍総司令部放送」*3) また、7月1日から NHK第一放送で、国務省管轄の VOA 中継が始まった。

 

1952年、GHQの日本占領の終結

1950年代、多くの米軍基地が日本本土から米軍占領下の沖縄に移された。この時期、沖縄に押しつけられた基地の一つに、米国務省管轄のVOAも含まれており、➀ 送信局は奥間に、➁ 受信局は万座毛に、そして ➂ 職員住宅と業務施設は嘉手納基地に隣接した北谷村浜川に作られた。

1952 年に GHQ による日本占領が終結したことで、これらのラジオ放送電波は、電波法上、日本本土から発射することが困難となった。そのため放送施設は、米国統治下の沖縄へと移転された。その一つに1953年7月に建設されたVOA沖縄局があった。VOA 沖縄局は、共産圏を取り巻くようにVOA中継所を建設し、全世界でVOA の聴取を可能にする「リング計画」の一翼を担っていた。

小林聡明「 冷戦期アジアの「電波戦争」研究序説 : 朝鮮戦争休戦後のVUNC(国連軍総司令部放送)に注目して」(2010-03-25 ) 

 

1953年7月 VOAがやってきた

1953年9月1日、「奥間ターブックヮ」に建設されたVOA送信所が放送を開始する*4。出力1000kwの中波を放つ6つの巨大鉄塔は、奥間の里に様々な怪奇現象をもたらした。

 

 

『守礼の光』1963年2月号

 

南側にある施設部分の内側はまるで別世界だ。

安全のため、送信機がオンになっている間は、誰もアンテナに近づくことができませんでした。

機材室

これは主にオーディオのコントロールとルーティングで、実際の送信機のモニタリングは温室の外にあるコンソールから行われました。

The VOA on Okinawa

 

米軍はターチームイの北側の森をブルトザーで剥ぎ取り、田んぼの中の鉄塔をつなぐ道路をメチャクチャ建設しました。電波は中国大陸に向き、周りの鏡地、桃原、兼久では空中から電気を取っていて、また、スイカ畑のカラスよけのテンテンバークー(空き缶)が歌を歌いだし、スイカドロボウが腰を抜かしたなど、信じられないことが次々に起こり、沖縄の放送は夜になると聞えませんでした。しかし、北京放送だけはよく聞こえ、国際情勢が豊かになります。高校に入ってNHKの受験講座、キューバ危機の始まった日、鉄塔の電線がうなり声をあげていました。北京放送は空中から電気が取れ、テレビが爆発するほどの電波をくぐって、私を国際的人間にしていきます。森は永遠に消え村に伝わる巨人物語を語る人もいなくなって、森一つが日本航空のホテルに残っています。
奥間ビーチだけのころは、米軍はチンノーガミの崖下の湧水から水をとっていて、この水は冷たくウケーメーミジ(おかゆ水)と呼ばれ、野良仕事には昔から欠かせないカー(湧川)でもありました。
VOAができると米軍も増え、機械の冷却水のために ➀ 比地川の潮目の堰に取水場を建設堰の上に新たな堰を増築しました。それまでは、アユ、ミチユー、ボラ、ウナギのシラスなどが溯上、タナガーの稚魚が潮止めの堰に群れ登っていましたが堰を超えることが出来なく、遊泳禁止になり、ガードマンが巡回するようになった。
 奥間川と比地川は大雨や台風になると土手を越え、冠水、土手の決壊が頻繁に起こるようになり、米軍の建設した道路がダムの役割を果たし奥間平野は広大な湖になり、稲穂は幾日も水没するようになった。また、米軍は ➁ 奥間ビーチに飛行場(滑走路)を建設し防風林や護岸も破壊したために台風で洪水のごとく潮が流れ込み、桃原から鏡地にいたる田園は不毛地になり、草刈り照雄の草刈場へと姿を変えるのでした。

宝の海 星空に蛍が舞う川(11)

 

比地取水場

ここにあるように VOA奥間送信所ができると、水も足りなくなり、米軍は重力式コンクリート堰を建設し川をせき止めた。それにより河川表流水を貯めてポンプで取水する。その取水場も建設した。現在は沖縄県企業局と米軍の両方が取水している。VOA奥間送信所は1978年に返還されるが、この比地取水場は紆余曲折ありながらも米軍基地の若干の飛び地として残っている。

 

奥間ビーチの滑走路

これが「奥間小飛行場」であるが、レストセンターの建設時に作られたものか、VOA 局に伴い建設されたものか、空港写真の時系列では確認できなかった。

 

1978年 VOA奥間送信所の返還

1952年に「日本」から締め出されたVOAは、沖縄の米軍基地にカモフラージュされて存在した。このVOAの存在は1972年の沖縄返還に際して、かなり深刻な政治問題となり、その移転に関して沖縄返還密約として巨額の日本の金が動くことになる。

VOA 沖縄局は北米大陸朝鮮半島間の番組伝送を支援する、単なるラジオ中継局ではなかった。それは、米国が遂行する「電波戦争」に深く関与する、きわめて軍事的・政治的な性格を持つ存在であった。VOA 沖縄局が、沖縄返還に際して日米間における重大な懸案事項になったのも当然のことであった。
小林聡明「 冷戦期アジアの「電波戦争」研究序説 : 朝鮮戦争休戦後のVUNC(国連軍総司令部放送)に注目して」(2010-03-25 ) 

 

こうして、VOAは沖縄から撤退する。VOAの施設部分は日本航空JALが主体となって引継ぎ、民間の「オクマ・プライベートビーチ&リゾート」となっている。

みなさまに愛されて45周年・おかえりオクマ プライベートビーチ & リゾート

 

しかし、「オクマ・プライベートビーチ&リゾート」の裏には、いまだフェンスで囲まれた一角がある。VOA奥間送信所施設の一部が、奥間レストセンターに追加される形で米軍基地として残っている。

 

というわけで、

VOA奥間通信所は返還されたが、比地取水ポンプ場の一部が比地川沿いに、また奥間リゾートの南側にVOA施設の一部が米軍基地として残っている。

 

奥間小飛行場については、VOA建設以前に作られたのか、VOAにともなって作られたのか、いまいち確証が持てなかった。

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*1:国頭疎開 読谷村史

*2:米空軍「奥間レストセンター」 (英語版)

*3:VUNC (Voice of United Nations Command): 米軍主体の心理戦戦略であるのに国連軍総司令部放送という名前を語るには問題があり、NHK から沖縄の米軍基地 (平良川通信所) に移転された後、返還前の1971年6月30日に廃局した。

*4:『守礼の光』1963年2月号14頁