崎山小飛行場
米軍は、沖縄戦中に大きな飛行場だけではなく、軽飛行機用の小飛行場 (cub airstrip) を20あまりも建設したという。しかしその多くについては資料もなく、不明のままである。
沖縄の本部 (もとぶ) 半島では、主だった地上戦がなかったにもかかわらず、住民が米軍によって田井等や辺野古・大浦崎の民間人収容所に強制収容された。こうして住民を排除したうえで、本部半島には、今では想像もつかないほど多くの米軍拠点がおかれた。日本軍が本部半島に海軍の拠点を幾つも敷設したように、米軍にとっても、沖縄戦後の日本本土攻撃を念頭にいれたとき、本部半島は米軍にとって戦略的に重要な位置にあったと考えられる。
本部半島にあった飛行場、本部補助飛行場をはじめ、小飛行場は、確認できているだけでも、備瀬、宮里、そして崎山にあったようである。また豊かな自然環境は、激しい白兵戦が展開されている南部から離れ休養するために理想的であった。1945年8月末に作成された以下の米軍資料でも、いくつもの海軍の NOB (navy operation base) とあわせ、陸軍や海軍のリクリエーションエリアが見られる。
返還後も原状回復が困難な状態にある巨大な本部補助飛行場の他に、備瀬のふくぎ並木に並行して作られたビーズリー小飛行場と名護の宮里小飛行場はその場所が確認されているが、もうひとつ、今回は、今帰仁 (なきじん) の崎山にあったという小飛行場を1946年の空中写真から探してみたい。
癒しの休日には最高のロケーションである今の今帰仁が、米軍のテントが立ち並び、スピーカーからにぎやかな音楽がながれるキャンプ地だったとは、なかなか想像がつきにくいのであるが、以下の証言をみてみよう。
今帰仁の崎山にはアメリカさんがいっぱいいたよ。飛行場も造っていた。うちのすぐ隣りにガライダーの小さな飛行場があった。今は土地改良されて畑になっているけど、今でもその土地は「飛行場」と呼んでいるよ。
さて、ここに1946年の本部半島北部を撮影した米軍の空中写真がある。どこに小飛行場があるだろうか。
なるほど、1946年の米軍撮影空中写真には、崎山の東原にカブ飛行場 (小飛行場) の滑走路らしきものがみられる。
典型的な小飛行場らしい滑走路の形にみえるが、解像度が悪いせいか、荒れているようにも見える。結局、日本の敗戦によって本土攻略の必要は無くなり、米軍は本部半島の拠点の多くから手を引くことになる。この空中写真が撮影された1946年4月の時点ではもうすでに小飛行場は使われなくなっていたと思われる。
1945年6月下旬、今帰仁の住民も辺野古の大浦崎収容所に強制収容された。喜屋武岬の南端まで追い詰められ、沖縄守備軍の組織的な戦闘がほとんどなくなったころである。なぜ組織的な戦闘のない本部半島でこの時期に住民の強制収容が行われたのか、その理由は、敗走する日本兵の掃討作戦というよりは、冒頭に書いた通り、本部半島の基地拠点化と考えられる。
大浦崎で崎山区民からも帰らざる人となった方々が数人でた。殆どの人が衣類・食料品が不足していた。要領のよい人達は戦果と言って軍の物資を失敬してきて食糧の足しにしている人もいた。健康な人達は何名が組になって食糧、衣類、日常品を求めて郷里の村まで通った人が多かった。未明に大浦崎を出発して名護山道から伊差川、薬草園、我部祖河から呉我山を経て崎山入りした。呉我山から伊豆味のブリ墓を通って平敷から崎山いりするコースを通った。米兵を避けながらの昼間の半日行程であった。
崎山には大勢の米軍が駐屯していて、とてもにぎやかであった。平敷の駐屯部隊からはいつでもマイクを通して音楽が流れていた。崎山の東原(アガリボロ)に丸目の鉄板を敷き並べた小型飛行機場があり、小型機が何機も駐機していた。当原、伊佐原、ミンタマイには数えられない程のテント兵舎が縦横きちんと並んで立てられ米兵がひしめいていた。
炬港へ通ずる道は米軍の塵捨て場になっていた。その塵捨て場に捨てられた物には未だ一度も使ってない梱包されたままの毛布があり、缶詰類、煙草、キャンデー、セット、いろいろな日用品、スイッチを入れると走り出すトラックまで捨てられていた。その豊富な物の中から必要な物を選り分けて包み、ロープでしっかり結んで天秤棒でかついで、はるばる久志まで運んでいった。
米軍の民間人収容所のなかでも大浦崎・瀬高民間人収容所は食糧事情などがもっとも劣悪だったといわれている。証言のいくつかは、大浦崎の収容所を抜けだし、幾つもの山を越えて、性暴力の危険に直面しながらも、本部半島の名護や今帰仁にある米軍基地にまで食糧の「戦果」をあげにいったことを伝えている。
炬港 (テーミナト) とは、大井川の河口周辺のことで、上の空中写真では、崎山の右側の河口になる。米軍のキャンプ地の廃棄物はその周辺に投げ捨てられていたので、ひとびとはそれを求めて収容所をぬけだし山々を横断していったのであろう。
最初は欲張ってあれもこれもとに持つ荷物の中に入れるのだが、途中で重すぎて着かれてくると山中の日本兵に分けてあげたり処分したりした。親子兄弟で一回郷里へ行って色々な物を運んでくると、しばらくの間は生活が豊かになり潤った。食糧に困ると、また揃って郷里へ物資探しに行くということを何度も繰り返していた。それにつられて婦女子も郷里通いするものが多かったが途中米兵の婦女暴行事件が多発し危険であるから、やめた方がいいという郷里通いの仲間からの中尉 (ママ) があり、そこで引き返して難を逃れた婦女子もいた。
山中では時々4~5名の米兵に婦女暴行をされている現場に出会うこともあったが、相手は自動小銃や拳銃を持っているのでどうすることもできなかった。また数名の黒人兵に暴行されて道端に髪や服を乱し太ももをあらわに出し、それをおおう元気もなく放心したように道端に横たわっている痛々しい姿もあった。
6月25日に強制収容されてから四ヶ月余の月日が流れ、11月2日帰郷許可がおり、収容生活から解放され懐かし郷里に帰った喜びは大きかった。
崎山の家屋はほとんど焼かれ、田畑は荒らされ、肥沃だった耕地はコーラルで敷き固められ、そうでない所も重機やトラックでおし固められていてすぐには使えない状態でした。
他の飛行場についてもいえることだが、米軍は珊瑚・石灰を切り出し、それを巨大なローラーで舗装する。そしてそのままにして (原状回復することなく) 撤退する。帰村を許され、里に帰っても、ひとびとは苦労し土を作ってきた耕地をもとにもどすために、何年も難渋することになった。
ちなみに、辺野古の大浦崎収容所をぬけ、幾つもの山を越えて本部半島に食糧をとりにいく話は多いが、上の証言での経路をグーグルでざっとたどってみた。
未明に大浦崎を出発して名護山道から伊差川、薬草園、我部祖河から呉我山を経て崎山入りした。呉我山から伊豆味のブリ墓を通って平敷から崎山いりするコースを通った。米兵を避けながらの昼間の半日行程であった。
単純計算でも、片道、ざっとこうなるわけで、米兵に見つからないように「米兵を避けながら」「山々を超えて」というのが、文字通り、幾つもの山越えであり、ほんとうに大変だったという事がよくわかる。そこまで民間人収容所の現状は厳しかったのだ。
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