波平補助施設は読谷村都屋・波平地区に所在した。
1945年4月1日、沖縄戦で米軍は読谷村の北飛行場と嘉手納の中飛行場の占領を第一に目指し上陸したため、読谷村の渡具知海岸一帯が上陸地となった。米軍はその日のうちに日本軍のこれらの飛行場を接収。その後、「読谷補助飛行場」と「嘉手納飛行場」を、さらに読谷村北西部には「ボーロー飛行場」を建設し、読谷村95%の土地が米軍基地として囲い込まれた。住民は沖縄島の各所の民間人収容所に強制収容された。終戦から1年半を経て限定的に波平と高志保の一部に帰村が許された。
1946年8月、波平出身の当時の村長、知花英康が約600人の「建設隊」とともに入村し、名称を読谷山村から読谷村に改称、その年の12月に波平地区に戦後最初の「読谷村役場」開設した。こうして波平は帰村と戦後復興の中心となった。しかし、その波平地区も西側を楚辺通信所や読谷補助飛行場、南側には陸軍補助施設に囲まれた狭い地所に限られていた。
1945年4月: 沖縄戦で占領、米軍の物資集積所や車輌整備場として使用開始。
時期不明: 高射砲部隊が設置され、砲台や兵舎等が建設された。
1972年5月15日: 沖縄返還協定で「波平陸軍補助施設」と改称1974年1月、第15回安保協議委員会において返還が検討される施設として合意され、9ヵ月後の10月31日に全返還が行われた。
1974年10月31日: 全返還
返還跡地には「県立都屋の里」、「県立読谷救護園」、「村立診療所」、「村立農村婦人の家」、「村立生き活き健康センター」等が整備されている。1972年時点で、読谷村の村土約73%が米軍基地に占有されており、また無医村であったため、住民は嘉手納町や沖縄市の病院へ通院することを余儀なくされていた。そのため、跡地に診療所を計画。1978年5月には診療が開始され、隣接する「県立よみたん救護園」「県立都屋の里」と共に、読谷村の重要な医療と福祉の発展を支えている。
沖縄戦とその後、つまりミサイルサイトになる以前、ここにも人種隔離部隊として主にアフリカ系アメリカ人から構成される部隊が駐留していた。
現在でこそ国防長官や統合参謀本部議長をアフリカ系アメリカ人が務めるようになっているが、かつては厳しい人種隔離政策と差別は軍隊のなかにも歴然とあり、そのために暴動をはじめとした様々な抵抗が生じた*1に収容されていた日本兵捕虜は、その事実に衝撃を受け、白人将校に、自分達はどちらのトイレを使えばいいのか白人の将校に尋ねた。その白人の将校はしばらく考えた後、「白人用」のトイレを指したという、その時の複雑な感情を記録している*2。それほど黒人差別は厳しかったのである。
人種隔離部隊 (segregated unit) としての黒人部隊は兵站業務や、メスホール (食堂)、ランドリー (洗濯) などの業務に充填され、収容所先から軍作業に送りこまれる住民と接触する機会も多かった。
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