FAC6025 読谷陸軍補助施設 (Yomitan Army Annex)

 

米軍ホークミサイルサイト「読谷陸軍補助施設」

読谷にあったホークミサイルのミサイルサイト

 

1970年の空中写真ではミサイルサイトが黒塗りされている。ナイキ、ホーク、メース、と、読谷はそのものか米軍の核兵器戦略の前哨基地地帯にされていたようだ。

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読谷陸軍補助施設 - Wikipedia

 

長浜地区の「戦後」

終戦から1年ほど経過して、読谷村で最初に居住許可が下りた時には、波平、高志保と並んで長浜も許可地域にあがっていた。しかしその直後、長浜は居住を取り消された。米軍部隊がアスファルト製造のために駐屯し、戦火を免れた家屋もそのために取り壊された。住民収容地区から帰村した長浜の人々は、高志保アカムヤーやそこに近い長浜大石原に規格住宅を作り住んだという。1949年4月同部隊がアスファルト工場を撤去すると、同年11月「長浜居住許可請願書」を提出して帰住を願った。翌年3 月長浜集落へ居住許可が下り、青年会が中心になり茅葺き住居を作って移住が始まった。1951年移動完了祝いが催されている。 1960 年にはホークミサイル基地建設の発表があり、長浜吹出原および武理石原がその予定地にあげられた。同年 3 月 11~ 16日にかけて現地調査や長浜区民集会での説明会があった。ホーク基地はティランチヂを含む吹出原一帯に建設され、その後読谷陸軍補助施設として米軍に提供され、1974年に返還された。

読谷村読谷村の字ガイドマップ」PDF

 

1960年2月、アメリカ軍はこの地域がミサイル基地建設用地としてすぐれているとして、この地域を新たに接収しました。ホーク・ミサイルの沖縄配備計画にもとづき、ホーク・ミサイルの発射台とその関連施設を建設したのです。この基地建設によって高志保と長浜を結ぶ道路の建設を余儀なくされ地域住民は多大な損害をこうむりました。この施設は、1969年ごろから事実上遊休化していて、後に第1特殊部隊の宿舎として使用されていました。

4.読谷村陸軍補助施設

 

遊休化しているのに、なかなか返還に応じようとしない。

 

1974年10月31日 返還

何十年にもわたって軍事占領された土地は、その後も幾つものハードルを乗り越えながら復興に取り組まなければならない。

1974年に読谷陸軍補助施設が返還されましたが、跡地の使用が可能になったのは20年を経てからです。それは地積確定が困難で集団和解にいたるのが遅れたためです。現在では、跡地利用計画を策定し、体系的、計画的な整備を進めています。

4.読谷陸軍補助施設

 

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読谷村読谷村の字ガイドマップ」PDF

 

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