FAC6037 嘉手納飛行場 (Kadena Airfield)

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嘉手納飛行場 とは

米空軍の嘉手納飛行場、極東最大級の米空軍飛行場といわれるが、その暴力的騒音、無責任な公害、住民がさらされる危険性においても最大級である。

1945年 - 戦時占領からずっと現在まで。

 

1944 - 日本陸軍「中飛行場」

1944年4月、日本陸軍は北飛行場 (読谷飛行場) の補助として北谷村、屋良、嘉手納、東、野里、野国、国直の約47,3170m2の広大な土地を緊急に強制接収し、5月から昼夜兼行で中飛行場の突貫工事を進めた。
1944年9月、中飛行場として一応の完成を見る。

1944年10月10日、十・十空襲で破壊される。

 

 

1945 - 米軍「嘉手納飛行場

1945年4月1日: 米軍の上陸・占領後、随時整備拡張が行われ、同年6月には全長2,250mの滑走路が完成。キャンプ・サンソネ、陸軍住宅地域も同時に設置される。

 

 

1945年 - 米軍 「嘉手納飛行場

1945年4月1日、米海兵隊の無血上陸で午前中に占領され、その日のうちに修復され米軍の臨時飛行場として使用可能な状態となる。随時整備拡張が行われ、同年6月には全長2,250mの滑走路が完成、嘉手納飛行場として使用開始。同年にキャンプ・サンソネ、陸軍住宅地域が設置される。
1967年5月、4,000m級の滑走路2本が完成。
1972年5月15日、沖縄返還協定でキャンプ・サンソネ、陸軍住宅地域と共に統合され、日本政府より正式に米軍に提供される。

 

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戦争で占領して、そのまま占領し続けるのは国際法的に許されるのだろうか。

 

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基地多すぎでまともな都市機能が寸断される。

 

1947年の「沖縄返還協定」で嘉手納飛行場は「キャンプ・サンソネ」「陸軍住宅地区」を統合し、日本政府から米軍に提供される。

 

施設番号 沖縄返還協定での名称 旧名称
FAC6022 嘉手納弾薬庫
FAC6037 嘉手納飛行場 嘉手納飛行場
キャンプ・サンソネ
陸軍住宅地区
FAC6038 嘉手納住宅地区 返還

 

汚染

日米地位協定の闇の中で生きることを強いられている。

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嘉手納基地周辺のPFAS汚染 日米の協議内容は不開示 – QAB NEWS Headline

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 嘉手納基地由来の有害物質の実態がジョン・ミッチェルさんの情報公開で明らかになりました。沖縄県の調査で、嘉手納基地周りの水源で有機フッ素化合物のPFOS,PFOAが汚染されていることがわかっていましたが、米軍の実施した基地内調査のデータがでました。数字は驚くべきもの。 

Masami mel Kawamura, The Informed-Public Project on Twitter:

 

騒音

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特権を問う:限度超える米軍基地騒音 日常脅かされる住民 いつまで耐えろというのか | 毎日新聞

 

核兵器

嘉手納基地を管理・運営していた米空軍第313航空師団 (現在の第18航空団) の年次報告記録によると、核兵器の組み立てと搬出入を専門とする第12航空貯蔵中隊と、核兵器・弾薬を管理する第7戦術貯蔵中隊の両中隊が嘉手納基地に配備され、核爆弾の実弾を使った搬出入訓練は1957年の前半だけでも少なくとも約150回も行われていたことが明らかになっている。

 

1957年3月には、嘉手納基地を核戦争の出撃拠点と想定した大規模演習「ホワイトホース」を実施している。広島に投下された原爆の100倍以上の破壊力を持つという水素水爆 Mark 15 や爆撃機搭載用 Mark 6 など複数種類の核爆弾が用いられている。訓練では搬出の迅速さがもとめられ、59回の Mark 15 搭載に平均1時間14分、84回の MK-6 搭載に平均1時間5分、といった訓練の「成果」も記録されている。

 

また1962年、最初の核弾頭(マーク28)を搭載した巡航ミサイル「メースB」の配備が始まる。嘉手納基地を拠点とする第5空軍第498戦術ミサイル群 (498th Tactical Missile Group) の管理下で、以下の四カ所での配備が行われた。1959年の時点では、米空軍はMGM-1マタドールの配備場所としてブラディ空軍基地 (福岡第一飛行場) と芦屋空軍基地が想定されていたが、核兵器配備への反対を考慮し、沖縄に配備することになった。当時のミサイルサイト決定について、1960年の米空軍第313航空師団の記録には「ここ (沖縄) では、住民は核兵器の導入に日本人と同じように激しく反対するかもしれないが、島々は米国の完全な支配下にあり、彼らはそれについて何もできない」と記されている。

嘉手納飛行場 - Wikipedia

 

冷戦時代のメースミサイルのサイロに関しては、撤去に膨大な予算がかかるため、すべて日本に「返還」している。返還後の撤去と原状回復費用は日本が税金で賄うことになっている。

メース基地 備考
1 嘉手納第1サイト ボーロー・ポイント 読谷村 返還済
2 嘉手納第2サイト ホワイト・ビーチ うるま市 返還済
3 嘉手納第3サイト ギンバル訓練場 金武町 返還済
4 嘉手納第4サイト 恩納サイト 恩納村 返還済

 

1945年 - 戦時占領からずっと現在まで・・・

 

嘉手納基地のトラブルだけでも

AからZまで膨大な百科事典ができるだろう。

 

事故

 

 

核兵器

最初の核兵器が嘉手納基地に搬入される。

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そして

 

これはあなたの友達ですか、それとも77年前と同じ占領でしょうか。

 

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