牧港補給地区も、もともとは日本軍が飛行場を作り、それを米軍が接収して飛行場にした。米国民政府の中心が置かれたが、沖縄返還協定で牧港補給地区として米軍に「提供」された。
かつて飛行場であったというのは、牧港補給地区の現在の形を見ても容易に想像できるであろう。
米軍基地 牧港補給地区 の歴史
1944年、日本陸軍「南飛行場」の建設
1944年(昭和19年)4月 - 日本陸軍沖縄南飛行場 (仲西飛行場または城間飛行場とも) として着工。9月30日に完成、1830mの滑走路を持つ小型特攻隊用の飛行場として建設されるが実際には使用されず。
1945年、米軍「牧港飛行場」
そして米軍が牧港一帯を確保するのが5月3日。
1945年(昭和20年)4月28日 - 米軍が陸軍沖縄南飛行場を接収し飛行場に、戦後、物資集積所として再建される。
1948年(昭和23年) 2,650,000㎡を接収。天願から米陸軍第二兵站補給団が移駐。
米軍 牧港補給地区
1972年(昭和47年) 沖縄の本土復帰(沖縄返還)の際に、最高統治機関として同地域に設置されていた米国民政府が廃止され、牧港補給地区となった。
1974年(昭和49年)6月、第7心理作戦部隊解散。9月30日第15回安保協了承の土地約18,000㎡(北側部分2カ所)を返還。
1978年(昭和53年)米陸軍から米海兵隊に移管され、キャンプ・フォスターから第三海兵隊役務支援本部などが移駐した。
牧港飛行場から牧港補給地区へ
1972 - 米軍 牧港補給地区 (キャンプ・キンザー)
牧港補給地区、あるいはキャンプ・キンザーとも呼ばれます。
これがあの牧港「牧港補給地区」になりました。牧港飛行場の滑走路跡にはずらりと巨大倉庫が立ち並び、北側には日本の思いやり*1の結晶である牧港キャッスル13棟が立ち並びます。しかし中はガラガラという話 (基地外に住む米兵が多く、住居者がまばら) という話も聞く。
2013 - 牧港補給地区のコンソリデーション計画
また、2013年に安倍首相は「嘉手納以南の基地返還計画」計画を発表*2。日本国内では、この日米合意は沖縄の米軍基地の「返還」「縮小」計画として大々的に報道されるが、それは日本国内だけの通称で、実際には「沖縄における在日米軍施設・区域に関する統合計画」Consolidation Plan for Facilities and Areas in Okinawa*3 であり、"consolidation" は、日本政府とメディアが語る「返還」や「縮小」の意味ではなく、「統合・強化」の意味である。安倍政権の「嘉手納以南の基地返還計画」計画は、沖縄の米軍基地の consolidation 「統合強化」であり、そしてまたそこに、米軍基地の自衛隊の共同使用を盛り込んでおり、日本語圏と英語圏で言葉を使い分けながら、沖縄の米軍基地を沖縄県内で日本の税金で移転させ、統合強化する内容である。
特に「本土」のジャーナリストのみなさんには、日本軍の基地から、沖縄戦へ、そして沖縄戦から現在の沖縄の米軍と自衛隊の基地へと地続きでメビウスの輪のようにつながるリンケージを、年表、視覚資料や地図をしっかりと利用して、学生でも簡単に理解できるような明白さで伝えてほしい。そういう努力を日本のメディアは放棄していないだろうか。
沖縄戦は、沖縄の戦争ではなく、日本がやった戦争であり、沖縄の基地問題は、日本の側の問題なのだということを、多くの人は理解していないのである。
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