「沖縄という悪夢」ジェイムス・フォアマンのいた1948年 ~ 『The Making of Black Revolutionaries』(1990) から

 

ジェイムス・フォアマン (1928-2005)

アメリカの公民権運動とその後、若い世代を力強くけん引した一人の青年、ジェイムス・フォアマン。彼は、学生非暴力調整委員会(SNCC)やブラックパンサー党、革命的黒人労働者連盟、そしてフリーライド運動、アルバニー運動、バーミンガム運動、セルマとモンゴメリー行進でも重要な役割を果たした。

ジェイムス・フォアマン (左) 。ニューヨーク・タイムズ紙は 彼を「1960年代のほぼすべての主要な公民権運動の戦場に猛烈な革命的ビジョンと見事な組織力を持ち込んだ公民権運動の先駆者」と呼んだ。

Civil Rights Leader James Forman Was A Member Of Phi Beta Sigma Fraternity - Watch The Yard

 

その彼が、若い時代に沖縄にいたことはあまり知られていない。

James Forman, October 4, 1928 – January 10, 2005 - ReligiousLeftLaw.com

 

沖縄戦から2年後の1947年、彼は義父との確執から逃れるため、高校を卒業してすぐに、人種枠 (racial quota) で3年間の空軍の兵役に就いた。まだまだ人種差別は厳しく、軍隊も厳しく人種隔離されていた時代である。

 

1948年、彼は本部半島に米軍が建設した本部飛行場に配属される。そこは1971年に返還されるまで巨大な軍事拠点であり、今も滑走路はそのまま放置、米軍の「使い捨て」のままである。

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米軍「本部飛行場」(Motobu Airstrip) ~ 本部補助飛行場、その後始末は誰が担うのか - Basically Okinawa

 

 

今の「美ら海水族館」の東側に位置する、高台に広がる広大な滑走路は、まさに「岩場の上」 (on the rock) であった。彼の人種隔離部隊での経験と沖縄での経験は、その後の彼の思想と活動に大きな影響を与えていく。

ジェイムス・フォアマンの著作『The Making of Black Revolutionaries』(1990) の "Okinawa - A Bad Dream" の章から幾つかを引用したい。

 

沖縄という悪夢

「占領者」ということ

沖縄に来て、自分も「占領者」になってしまったことに気づき始める。

ザ・ロックとして知られる沖縄、特に第822工兵航空大隊 (822d Engineering Aviation Battalion) の周囲の荒涼とした雰囲気の場所で、私は余暇のほとんどをギャンブルに費やしました。黒人空軍兵のほとんどは、ロックの道路建設基地建設滑走路建設トラック運転手として働いたのです。私は人事部の専門になり、自動車艦隊の本部飛行隊に配属されました。やることはあまりありません。 1日8時間働き、その後は自由時間がありました。私は沖縄の人々を観察することに多くの時間を費やし、自分が占領者になってしまったことに気づき始めました。ここには褐色人種が住んでいて、白人の兵士たちは私を N****1 と呼ぶのと同じように彼らを「グーク」*2と呼びました。私たちが奴隷制時代にそれに甘んじなければならなかったのと同じように、沖縄の人たちがそれに甘んじなければならなかったのは、アメリカ人が銃を持っていたためです。白人は沖縄を占領した。彼らは私たち黒人も占領した。しかし今、私は彼ら白人の側にいた。私も占領者でした。

 

本部半島の「本部飛行場」と第822工兵航空大隊

フォアマンが所属したのは本部半島の第822工兵航空大隊

Two landing strips were built at Motobu Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto; the work was done by men of the 1113th Hdq., Construction Group, the 822nd, 842nd, 183rd & 1897th Engineer Aviation Battalions. Construction was started on 1 July 1945 and on 6 August 1945, the first plane landed. This is an aerial view of one of the stages during the construction.【訳】本部飛行場に作られた2本の着陸用滑走路。建設工事は1945年7月1日に第1113司令部建設群、第822、842、183、1897工兵航空大隊によって始められ、同8月6日には最初の飛行機が着陸した。本部 1946年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

飛行場建設などにあたった工兵航空大隊は、その三分の一が黒人部隊だった。

第二次世界大戦で活動した 157 の EAB (工兵航空大隊) のうち 48部隊は人種隔離された (segregated) 黒人部隊でした。

Origins of Engineer Aviation Battalions > National Museum of the United States Air Force™

これだけ多くの黒人部隊が活躍したにもかかわらず、彼らを記録し称える写真も少なければ、記録も少ない。黒人はいまだ「見えない存在」であった。下は沖縄県公文書館の膨大な米軍記録写真のなかで、黒人兵が被写体となった数少ないの写真のうちの一枚。

米空軍: Cpl. Thomas Greenleaf of Philadelphia, Pennsylvania, shown at the transit, was assigned to the 822nd Engineer Aviation Battalion, 1st Air Division, where he had the oppotunity to put into practice the training he received in engineering school.【訳】 輸送路での第1空軍第822工兵航空大隊所属のグリーンリーフ伍長。そこでは彼が工兵学校で訓練してきたことを実践できる。沖縄 1947年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

レイシズムとセクシズム

白人/黒人/日本人/沖縄人 と 男性/女性、人種差別は性差別化され (sexualized racism) 、性差別は人種差別となって表れ (racialized sexism) 、沖縄人女性は重層化していく人種差別と性差別の底辺に落としこまれた。*3

最も悲しかったことは、同胞の黒人たちも沖縄人を「グーク」と呼ぶ人もいたということです。彼らはまた自らもアメリカ白人がやっていた優越した態度をとるようになり、自分たちが沖縄人よりも優れていると考えていました。彼らは、また、白人がやっていたことを沖縄の女性に対しても行っていたのです。それほど多くではありませんが、私の目を開かせるには十分でした。それまで、私は女性を「抑圧された集団」としては見ていませんでした。私が知っていた女の子たちは学生でした。私たちは知的な議論をしましたが、それらは十分に「平等」であるように見えました。

沖縄は私の考えを変えました

 

占領下の沖縄に奴隷制を見る

アメリカの奴隷制の歴史は性暴力の歴史であったが、フォアマンは占領下の沖縄にその奴隷制の再現を見る。

兄弟たちは夜になると基地に戻ってきて、地元の売春婦との性体験をほくそ笑んだり、沖縄の女性たちを人間ではなく物であるかのように話した。ある夜、私の兵舎にいる数人の男たちが出かけて、近くの村から年配の女性を連れ帰った。彼らは次々と順番を変えて彼女を引っ張り、寝台から寝台へと彼女を引き渡していった。私は彼らを見て、自分の国の黒人女性が白人の奴隷所有者によって強姦され、私たちの人種全体が力ずくで捕らえられていった歴史を思いおこし、息ができないほどでした。そして私は同胞の兄弟たちを止めることができませんでした。彼らのしたことは占領者のやったことでした。しかし、それでも私は寝台から寝台へと引き回される彼女の声を聞きながら、息が詰まり、こう思ったのてす。兄弟たち、どうしてそんなことができるのか。長い間搾取され、打ちのめされてきたあなたたち。沖縄島中で白人兵士が行っていたように、どうやって女性の頭に銃を突き付けてレイプすることができるのか?白人兵士たちがここで何をしていたかを聞いて、どうして奴隷制や男たちが私たちの女性に対してやってきたことを考えずにいられるのか?私たちは黒人ではないのか?どうして白人のやり方をまねることができるのか?どうやって昼間は褐色の男性を殺し、夜は褐色の女性をレイプしに行くことができるんだ?そして、私たちの本当の敵を殺す勇気もなく、女性を女性として愛する勇気もなく、どうして?どうしてそんなことができるのか?

 

軍における人種隔離制度の撤廃

1948年7月大統領令9981

1948年7月ハリー・S・トルーマン大統領は大統領令9981を発令し、米軍内の「人種、肌の色、宗教または国籍に基づく」差別、つまり軍内の人種隔離政策の廃止を命じた。これは1954年のブラウン対トピーカ教育委員会裁判でアメリカが初めて公立学校での人種隔離政策を廃止したのに先駆けたもの、つまり教育より先に軍内で先に差別制度の撤廃が行われた。それは朝鮮戦争を戦う米軍の現代化・効率化を図る狙いもあった *4 

Harry Truman's Executive Order 9981 in 1948

 

このようにしてフォアマンは最初の「白人部隊のなかの黒人」になるよう命じられる。

「フォーマン、君は全員が白人の部隊の第625航空機警戒中隊 ( 625th Aircraft and Warning Company) に配属されるよう選ばれたよ。君は人事課の専門だから、彼らが君を必要としているんだ。君はその部隊の初めての黒人になるよ」、と第822技術航空大隊の軍曹。 「しかし、軍曹、それは私でなければいけませんか? 私はあのクラッカー (白人) どもと一緒のところなんて行きたくないのです。軍曹、わかっていただけますか、私たちはここでいい感じでやっているのです。私たちはフットボールチームを優勝させつつあります。優勝するんです私たちは」。

 

「おい、命令は命令だよ。君が去るのは見たくない。勝てるとは分かっているが、命令は命令だ。」

 

1940年代、まだ大勢の黒人がリンチ (私的死刑) という形で殺害され、見せしめに木に吊るされるような事件が多発している時代だった。あえてその写真はここに示さないが *5、伝説的ジャズ歌手ビリー・ホリデーの1939年の曲『奇妙な果実』とは、もちろん多発するリンチングに対する抗議の歌 (プロテストソング) だった。

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「ほら、軍曹、あの貧乏白人どもが何か悪いたくらみをすることはわかってるんだ。もし彼らが何かしようとするなら、俺はすぐにここに戻ってくるよ、そしてみんな俺を命令不履行で収監してくれ。ああ、冗談じゃない、あのハバードおばさん野郎が僕に何かしようとするなら、殺されるためにわざわざ向こうに出向くなんてばかなことをするつもりはないからな。」

 

「おい落ち着つけよ」1等軍曹は私を落ち着かせようとして言った。彼は私の動揺を十分知っていた。 「あそこなら大丈夫だ。とにかく彼らはこの黒人大隊を解散させようとしているんだよ。彼らは島中に男たちを送り込んでいるから、フットボールチームはやられちまうだろう。とにかく落ち着いて、いつでも仲間がここにいるということを忘れないでくれ、必要ならすぐ帰って来い。さあ荷物の準備を始めるんだ、明日の朝から、出勤だ。」


こういうことだった。私は実験動物のモルモットだった。秩序は失われていた。軍隊における人種隔離政策は撤廃される予定であり、空軍もこれに従う方向に動いていた。彼らは私が白人部隊にぶちこまれたら何が起こるか試してみたかったのだ。おいぼれ軍曹はそんなことは教えてくれなかったが、私にはわかっていました。その上、彼らは私たち黒人のフットボールチームをつぶそうとしたのです。あるいは、そのつもりではなくとも、そういうことになるのだ。なんだよあの貧乏白人クラッカーどもは、なにが人種統合せよ (integrate) だ ! くそ!


それで準備がどんどん遅れたわけです。荷物をまとめてから出かけました。フットボール場に行き、タスキーギーで訓練を受けたパイロットであるドライバー中尉 (註・Elwood T. Driver) と話をした。彼はそのニュースを既に知っていた。彼は、自分が率いた唯一の優れたチーム (=タスキーギ・エアメン) が人種統合によって崩壊するのを見てがっかりしたが、命令は命令であり、万事はうまくいくだろうと。

人種差別により黒人を受け入れない米軍の改革の為、エレノア・ルーズベルトの肝いりで黒人大学タスキーギで始まった黒人空軍パイロットの養成。幾重にも立ちはだかる困難をクリアしたエリート青年たちは米軍史上初のアフリカ系アメリカ人の航空部隊「タスキーギ・エアメン」となった。レッド・テイルズとよばれた彼らの赤い尾翼の戦闘機は、第二次世界大戦中、ヨーロッパ戦線で活躍した。人種統合によって、彼らベテランパイロットは空軍の各所に再編成されることになる。

Honoring Tuskegee Airmen | News | palestineherald.com

 

本部の人種隔離部隊から那覇の白人部隊へ

本部半島オン・ザ・ロックの黒人部隊から、小禄の白人部隊への移動命令。

私は第 822 技術航空大隊の敷地内を歩きまわった。私はクオンセットの小屋は好きではあなかったが、私たちのほとんどがオン・ザ・ロックに住んでいたのです。朝出される食事がまずく、朝食を食べるのをやめていました。ロックに慣れるまでに長い時間がかかりましたが、ある面では慣れていました。

 

仲間たちと昼食をとりました。彼らは私に何の心の準備をするかを教えてくれました。喧嘩もしたし、食事の時にお盆で殴られることもあった。白人は、私に、死に装束を着させることになるだろう。わざわざロックの反対側まで下りていって、棺に入って戻ってくることになるだろう。遺体は家まで送り届けられるだろう。(註・人種差別の特にひどい) ミシシッピ州の白人クラッカーどもを人種統合しようとして「戦死」されました、と。

 

その日の午後に乗り換えて、夕食に間に合うように下山する予定だったが、あれこれ話し合った結果、10時過ぎに暗闇にまぎれて移動することにした。もし彼らが私のために「歓迎会」を計画していたとしても、深夜にそれをしようとするはずはないだろうと。その時間になんとか潜り込む予定だった。

 

私は11時ごろ、島の反対側のずっと下の方に到着しました (註・たぶん那覇) 。暗かったので当直の軍曹が親切でした。彼は私に空のクォンセット小屋に案内し、それは私のものだと言いました。そこには他に 7 つの個別のベッドがありました。それは小さな小屋で、そこにあるクォンセットはすべて小さくて、822dのような寄宿舎スタイルのものではなく、ある種、個人部屋のようなものでした。


「了解、今夜は私が一人でこの小屋で寝るって言うことですね?」私は軍曹に尋ねた。

 

「もちろんです。明日はさらに人が来る予定ですが、今夜はあなたのものです。」

彼は冗談を言っているな、と私は自分に言いきかせた。彼は今夜私を殺害するように仕向けようとしている。簡単に捕まえられるように、私を一人でここに入れておくつもりだ。

 

「了解、この辺に警備員はいるのか?」

「今夜は徹夜勤務です。でも、ここでは何の問題もありませんよ。うちの従業員は三交代制で働いています。クオンセットの小屋は小さく、仕事に出かけるときに誰も起こさないでいいんですよ。あなたのチームは一緒に寝ることになっています。事務所のスタッフに幾つか変更があることは理解されています。」

 

「そうですか…わかりました。何か質問がある場合は、オフィスに来てもいいですか?」
「そうです。準備できたら、コーヒーを飲みに来てください。」
「ロジャー」


ベッドを整えた。私は照明をつけたままにした。内側からドアに鍵をかけた。準備はできたよ。私はベッドに入り、電気をつけ、服を着て、行動の準備をしました。音ではなく、あちこちで声が聞こえるだけだ。夜中。みんな静かだ。 1時。動きはない。2時。照明を消した。 3時。そろそろ寝てもよさそうだった。


安全だった!しかし、私はまだ不安でいっぱいで、早起きした。私は洗面道具を持ってクオンセット小屋から朝の空気の中を歩いた。肌寒く、風が吹いていた。島はまだ暖かくなっていなかった。洗面所となっているクォンセット小屋で白人を二人見かけた。もう楽にしなよ、と私は自分に言い聞かせた。彼らは私に話しかけなかった。私は彼らに話しかけなかった。顔と歯を洗い終えて出発したとき、彼らはまだ水を浴びていた。

 

占領と奴隷制

日本の小禄海軍の要塞を見る。基地で働く背をかがめた沖縄人のすがたに、黒人奴隷が奴隷所有者の「お屋敷」に働きに行く姿をかさねる。

私は小屋に戻り、洗面道具を片付けた。私は外に出て、緊張しながらも敷地内を散歩した。朝食まではまだ15分もある。私は食堂を越えて太平洋を眺め、日本軍がアメリカの侵略から島を守るために大規模な要塞を築いた那覇の洞窟のいくつかを見ました。参考までに、この島と極東を守るために設計された大型爆撃機や戦闘機の着陸帯のある那覇空軍基地の一部が見えました。


仕事に向かう沖縄人の男女数名を見かけた。彼らは年老いていて、物静かで、背中をかがめていました。奴隷たちが主人の大きな屋敷に行くのを思いおこさせた

 

人間の頭の中だけでなく、その臓腑にまでいきわたる差別

食堂へ向かいました。これは大きな試練でした。昨夜、私は事前にトラブルに備え、そして何も起こらなかった。今日は心底、朝食を食べたくなかったが、遅かれ早かれ対決は避けられなかった。この白人どもとの対決だった。彼らがどうでるか全く予測はつかない。私は軍隊内での人種差別が正しいとは信じていなかったが、このような格好で人種差別を終わらせることが自分の身に起こりたくはないのだった。

 

ついに網戸を開けた。さあいくぞ。食堂は混雑していた。座席は右側に、そして目の前には食事の列が。そしてその向こうには沖縄の料理人と彼らを監督する二人の白人料理人がいた。彼らは列をあちらこちらへ動き回り、奇妙な仕事をしていた。生卵。私は彼らが新鮮な卵を割っているのを見た。私は自分が見たものを信じられなかった。新鮮な卵。私はオン・ザ・ロックに半年ほど住んでいたが、町のレストランで買わない限り、生卵など味わったことはなかった。彼らは新鮮な卵を、逆さにしたり、スクランブルしたり、好きなように調理していた。見たのは見たが、理解できないのだ。

 

「料理はどうしますか?」白人の料理人が私に尋ねた。これは騙しに違いないとわかっていた。彼らは人種統合を望んでおり、私のために喜々として特別なショーを開いているのに違いない。自分たちが偏見を持っていると思われたくなかったのだ。可能な限り人種統合への移行をすみやかにするつもりだと聞いていたが、くそ、ここまでする必要があるのか?

 

「私の場合は目玉焼きを上にのせて食べたいのですが」と私は答えた。

「幾つ?」

 

「幾つ?」私は驚いて尋ねました。これが王室の扱いというものか。 「2つ以上持ってもいいということですか?」なんとか質問することができた。

 

「食べたければ4個食べてもいいよ。食べたらまた戻ってきて、もっと食べてもいいよ」と白人の料理人の一人は語った。

 

やっぱりな。悪い冗談だとわかっていたよ。しかし、彼が卵を割ってグリルにのせたとき、私が卵を見ていなかったら、おそらく注文しても私は食べきれなかったろう。多すぎる。

 

「2つだけいただけますか」と私はついに言った。黒人が貪欲だと思われたくなかったのだ。

 

「欲しければ、もっと食べてもいいよ。」

「2つで十分です」と私は言った。この親切さが私には本当に理解できなかった。それは騙しに違いない。私に何か別のことを考えさせる余裕などはなかったのです。人種隔離された社会で育ったことが生み出す恐怖、猜疑心、憎しみ、曖昧さから、私はこの料理人がからかっていると確信していたのだ。

 

それから私は列の最後尾に着いた。新鮮な牛乳のパックが積み重なっているのが見えた。私はレストラン以外で新鮮な牛乳を見たことはない、それはまれにしか見たことがありません。第822大隊では粉ミルクを飲むのはごくたまにでした。ここでは新鮮な牛乳を提供していました。第822大隊では、ひしゃく1杯や2杯の粉ミルクしか飲めないので、沖縄人が粉ミルクをコップに注いでくれた。しかし、ここには係員はいなかった。

 

「コップを兵舎に忘れてきたんです」と私は列の後ろにいる白人のコックの一人に話した。 「ミルクを飲むので、ここにコップはありますか?」

 

「飲みたければクォート丸ごと飲んでください。コップは必要ありません。」私は上の容器ではなく、下の容器からクォートを取り出した。いつネタバレが行われるかわからないが、私は彼らが私のために特別なごちそうを用意してくれたとまだ信じていた。

 

それから私は疑問に思い始めた。テーブルに目をやると、他の空軍兵たちが飲んでいる数リットルの牛乳が見えた。突然、私たち黒人はだまされていたこと、いまいましい人種隔離の空軍が兵士の頭のなかと尊厳だけでなく、そのはらわた臓腑にまで介在している、ということに気がついた。私たち822dの黒人は、飛行場を建設したり、丘を取り壊したりする重労働をしていたが、ここにいる彼らが新鮮な卵と牛乳を享受する一方で、私たちは数少ない量の粉末卵と粉末ミルクばかり食していたのだ。

 

テーブルで私は白人たちに食事について尋ねた。半年以上オン・ザ・ロックにいた白人の中には、新鮮な牛乳がなかった日を思い出せないくらいの人もいた。朝食に別のものがあったために卵がない日もあったが、卵があるときは常に生卵だった。粉末卵はない

 

私は朝は卵を食べ、一日にクォートの牛乳、新鮮な牛乳と卵を食べるようになった。私は空軍の人種隔離政策を呪いながら、新鮮な牛乳と卵を食べた。

 

人の人生には、何の関係もないと思われる時期があります。焦点の合わない、バラバラな出来事や行動に満ちた人の人生という文脈では、それらは無意味に思えます。空軍は私にとってそんな時代の一つでした。私の兵役体験全体は、悪い夢が終わるのをただ長く待っていただけでした。私は入隊するというひどい間違いを犯したが、その事実を変えることはできません。沖縄は悪い夢が終わるまでの時間を刻む場所だった。そこでの私の活動はすべて、夢をできるだけ現実的なものにするための試みだった。

 

沖縄とフィリピンとの違い

独立のフィリピンと占領下の沖縄のちがい。

しかし、何よりもマニラは黒人としての私の精神を解放してくれました。当時、私はアメリカによるフィリピンの搾取についてあまり知りませんでした。友人たちと私が目にしたのは、主に肌の色が褐色の人々によって運営されている国、公共の場で人種差別を経験していない国、人種差別が撤廃されたばかりの軍隊で戦う二級国民ではなく男性であるように思われる国だった。 私たちは街を歩き、行きたいところへ行く人間であることができた。私は、長年の重み、あらゆる形態の人種差別の重みが私の体から離れ始め、空中に消えていくのを感じた。それらは一瞬のうちになくなり、私の体は軽く感じました。その7日間で、私は人種差別の抑圧的な負荷が私と他の黒人たちに何をもたらしたのかを感じ始めた。ここの文化には問題がありましたが、人種差別は問題の一つではないようでした。後年、パリの1平方マイルには米国全土よりも多くの自由があるというリチャード・ライトの文章を読んだとき、彼は差別がなくなったことに対する大きな安堵感を述べているのだと思いました。私にとってマニラはそんな場所でした。

その当時、厳しい人種差別からのがれ、リチャード・ライトやジェームス・ボールドウィンら黒人作家や芸術家をはじめ多くの黒人の知識人がパリに逃れ自由を見出した。それはパリが植民地主義から自由であるという意味ではなく、ただアメリカの差別から逃れたという安堵感だった。そこをしっかりとフォアマンは見ている。

それはまるで美しく激しいオーガズムのようでした。ライトの言葉以来、私は何度かパリを訪れ、彼の発言はある文脈で読まれなければならないことに気づきました。彼は米国での人種差別の経験を去ってすぐにこの言葉を発した。アメリカと対照的に、パリでの生活は楽園に見えたに違いない。白人の植民地国家としてのフランスの人種差別的な現実はまだ彼に影響を与えていなかったのだ。

 

それでも、マニラでの数日間私が感じたように、黒人が完全で完全に自由だと感じ、その感覚を切望することは可能です。私たちにとって闘争は人生の本質ですが、闘争の形態は個人の心理に違いをもたらします。私は、私たちの闘いが何らかの形で個々の参加者の苦痛や感情の複雑さを軽減し、400年間の犠牲と死の後に見たものよりも明確な勝利の約束が得られることを願ってきた。しかしその時、マニラを出発する飛行機の中で、私はその全体性の味に触発され、何らかの形でそれを達成するために熱心に取り組みたいと心底願ったのでした。

 

その後、フォアマンは、空軍を退役後、1952年に南カリフォルニア大学に入学した。2学期目に警察に暴行され逮捕された後は、学生と若い世代の公民権運動のリーダーとなり、また大学でも教鞭をとった。

 

ラルフ・アバナシー、ジェームズ・フォアマン、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアジェシー・ダグラス、ジョン・ルイス。キングは1965年にアラバマ州セルマからモンゴメリーまで、5日間、54マイルの投票権を求める行進を率いた。

 

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占領と植民地主義

1948年、フォアマンは米軍占領下の沖縄に奴隷制度をみた。占領とは、土地を力づくで自分たちの「もの」にし、その土地の人々の声を聞きもせず踏みつぶすことである。占領下で人々は女も男も声を上げつづけたが*6、しかし人々の声は踏みつぶされ、立ち上がった者たちは銃をつきつけられ黙らされた。

1972年、沖縄の施政権は米軍から日本に移行する。しかしそれで沖縄の占領という植民地主義は終わったのだろうか。今も、米兵による性暴力を訴えた少女の声すら不可視化され、求める住民投票すら行われず、県民投票の結果すら無効化される。フォアマンが見た沖縄の占領は、今も続いており、それは、今や単に米軍によるものというだけではない、日本政府が主導しているものであり、多くの人々はその現実にすら目を向けようとはしていない。奴隷制は多数派 (マジョリティー) の無関心によって持続されるのである。

 

 

*1:N-word の表記について、極めて人種差別的な言葉であるため、原文では、"Nigger" とあるが、ここでは表記を N*** としました。

*2:Gook に関しては以下を参照のこと。See. 1945年9月4日 『こんな国のために死ぬもんか』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

*3:沖縄の数多くの証言には、兵士の数としては決して多くなかった黒人兵による性暴力が数多く記録されている。それは、黒人兵への沖縄人の偏見によるもの、と主張する人もいるが、それは実際の記録から目をそらすものである。「白人男性が沖縄女性に対してやっていること」を自分たちもすることができるということは、ある種、抑圧された者たちにとって、自分たちがあたかも白人男性のようになる、男性性の回収ということすら意味していたかもしれない。

*4:つまり1948年までのアメリカの戦争は、白人男性が主体となっており、マイノリティーに武器を持たせることは慎重に回避された。しかし、これ以降、アメリカの戦争はその形を変える。いわばマイノリティー貧困層が前線を担うようになり、ついに1973年、アメリカの徴兵制はやがて廃止される。

*5:リンチングの現場写真は、戦利品のように白人至上主義社会で流通した。いわばリンチングの写真自体が究極の白人至上主義の可視化であった。そのためここではあえてリンチングの写真を示さない。

*6:フォアマンがいた隣の地区では、1945年、勝山事件が起こっているが、それは常習的に繰り返されるレイプに若者たちが立ちあがり、犯人と信じられた海兵隊の3人の黒人男性を殺害した事件である。