すり抜ける富と知 沖縄復帰50年(1)
米基地工事に本土企業 圧倒的資金で次々受注
2022年2月19日
儲かってるのは本土業者ばかり
「松村組、清水組、大林組。米軍の工事を請け負い、もうかっていたのは本土業者ばかりだった」
終戦からほどない1950年初頭。沖縄で米軍基地建設工事が本格化した。建設作業を間近で見てきた饒辺永太郎さん(86)は、キャンプ瑞慶覧近くの自宅で、70年前の様子を述懐した。
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沖縄の予算が半分近く本土に「還流」
凄惨(せいさん)な沖縄戦で灰燼(かいじん)に帰した沖縄。日本政府は27年間の米軍統治を経て72年、日本に復帰した沖縄へ振興策を始めた。「本土との格差是正」「自立的経済発展」を目標に掲げ、50年間で13兆円の予算を投じた。
だが、79年度からの41年間で国が発注した県内公共工事のうち、受注額の半分近い46・3%、金額で1兆1854億9452万円は本土企業が受注していた。
国の予算が沖縄を素通りし、本土へ富が蓄積する「還流」の構図だ。その源流をたどると、終戦直後の米軍基地工事に行き着く。
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1949年からの蜜月、米軍基地建設と本土のゼネコン
49年12月、米軍基地建設に向け、46人の技術者が沖縄に降り立った。鹿島建設、間組、大林組。いずれも本土の建設大手10社の社員で、翌年からの本格的な基地建設に向けた測量と設計のために、連合国軍総司令部(GHQ)が選抜したメンバーだった。
当時、米国とソ連の対立で冷戦の兆しが見え始め、49年には中華人民共和国が建国された。GHQはアジアでの軍事的拠点として沖縄を重視。沖縄の恒久的使用を決め50年2月に基地建設を開始すると発表した。
嘉手納弾薬庫、基地内住宅や教会、牧港の倉庫群、軍用道路1号線(現国道58号)-。現在の米軍基地の骨格となる工事が次々進められた。
沖縄現代史を研究し基地建設の歴史に詳しい鳥山淳琉球大教授は「米国の予算で米兵と家族が快適に生活する空間をつくっている。長期的な使用判断を裏付けるものだ」と指摘する。
嘉手納弾薬庫、牧港倉庫群は大林組、軍道1号の那覇-嘉手納間は間組など、本土の大手業者が工事を請け負った。業者は各地に拠点となる事務所や作業員宿舎を建設した。
北中城村瑞慶覧では東京の「隅田建設工業」が拠点を構えた。地域住民は、現在の瑞慶覧交差点近くの「大平バス停」を「隅田前」と呼び、瑞慶覧区の字誌には、作業終わりの労働者たちが商店の店先で酒を飲みにぎわった様子から、当時を「隅田時代」と呼んでいたとの記述も残る。
だが、「にぎわい」の元は、米軍工事を元請けとして受注した本土業者だった。この時代、一部大手を除き、圧倒的な資本力の差で沖縄の建設業者が工事の受注元となることは、ほとんどなかった。
饒辺さんは「瑞慶覧周辺にはどんどん基地が造られ、隅田建設も大きな屋敷に泊まり込んでいた。基地内の住居や兵舎建設を手掛けたのは、ほとんどが本土業者だった」と振り返った。
(企業名は当時。政経部・大野亨恭)
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沖縄は日本復帰から50年を迎える。5次にわたる振興計画の下、多額の予算が投じられたが自立経済は道半ばだ。沖縄に蓄積するはずの「富」や「知」がどこへすり抜けているのか。実態を検証する。
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本土ゼネコンが建てていたのは、基地内の住居や兵舎建設ばかりではありません。沖縄の各種の巨大な核施設の建設を請け負っていたのも日本のゼネコンです。非核三原則と言いながら、日本のゼネコンは建設しているのが核施設であることはしっかりと認識していたはずであり、またその資料も残っているはずです。アジアの奇跡とまでいわれた日本の経済成長の闇の部分、メディアにしっかり検証してもらいたいと思います。
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