第六小飛行場 - 瑞慶覧小飛行場
米軍は、沖縄戦中に大きな飛行場だけではなく、軽飛行機用の小飛行場 (cub airstrip) を20あまりも建設したという。しかしその多くについては資料もなく、不明のままである。
詳細がまだ明らかになっていない多くの小飛行場のなかでも、今回は、米軍の「第6小飛行場」(#6 cub airstrip) として番号が特定されている瑞慶覧小飛行場について扱う。
キャンプ瑞慶覧には、戦後1951年にハンビー飛行場が作られ (1951-1981)、跡地は返還されて北谷のハンビータウンとしてにぎわっているが、それとは異なる。
沖縄戦当時建設された第六小飛行場 (#6 cub airstrip) は、のちに瑞慶覧飛行場 (Skiran Airstrip) と呼ばれ、現在はキャンプ瑞慶覧 (キャンプ・フォスター)内に大きく位置を占めるパレード広場となっている。
なぜ番号が特定できるのか
米陸軍が1945年8月末日に作成した軍機密資料に CUB FIELD NO. 6 と記されている。
70. ARMY HOSPITAL SITE 17 / 27TH STATION HOSPITAL (陸軍病院)
76. 7 AIR FORCE HOS. (空軍病院)
78. CUB FIELD NO. 6 ⇦ 第六小飛行場
Restricted U.S. Military Map of Okinawa produced by the 3020th Engineer Topographic Company (Corps) in September 1945.
1945年 - 瑞慶覧小飛行場の建設
北谷周辺は、かつては「北谷ターブックヮ(田圃)」として、国頭村の「奥間ターブックヮ 」、名護市の「羽地ターブックヮ」と並び、「沖縄三大美田」の一つとして知られ、肥沃な農耕地を誇った。さとうきび、米、イモ、豆などが耕作され、集落の豊かさを支えていた。海岸側に軽便鉄道がはしり、北谷駅があった。また現在の国道58号にあたる通りは、北谷街道(馬場)とよばれ、競馬などがひらかれ、様々な商店が並ぶ商店街となっていた。
1945年4月1日、北谷・読谷は米軍上陸地となる。
米軍は、住民を収容所に囲い込み、青々とした耕作地を削り滑走路を建設した。
米国空軍 Aerial view of Cub Field Number 6, Okinawa, Ryukyu Retto.
空から見た第6補助飛行場。沖縄。1945年
4月1日に上陸した米軍は、5月にはすでに北谷の土地を造成し「第六小飛行場」を建設している。北谷の馬場(北谷街道) は米軍の軍用道路「1号線」となった。
米国陸軍通信隊: Two aerial views of Cub strip #6 on Route #1. 45
1号線沿いの第6小飛行場の空中写真 北谷 1945年 5月
8月18日の米軍撮影による空中写真。
1950年代 - 基地建設と本土のゼネコン
1950年代、接収された土地のうえで、さらに米軍基地は拡張していく。「米国の技術」、「日本のゼネコン」、「沖縄の土地と安い労働力」、という構造が完成する。
朝鮮戦争によって、アメリカは極東における最大の軍事基地沖縄を急速に整備増強する必要にせまられた。そしてそのことは、進駐軍工事と特需景気の反映でよみがえった建築業界に新しい機会を与えた。それまでアメリカのモリソン・クヌードセンやビンネル、フィリピンのユーキンテンなどの外国業者のみが占めていた沖縄基地工事に、日本業者も参加をゆるされたのであった。・・・沖縄工事は代金がドルで支払われ、外貨獲得の国策に役立ったが、業者にとって最大の収穫はアメリカ式の機械化工法や合理的な事務処理などの実体に接し、それを身につけたことである。・・・
瑞慶覧小飛行場での住宅建設を請け負ったのは本土の「三幸建設工業」で、1952年から1954年の二年間だけでも、牧港の整地工事、キャンプ瑞慶覧の米軍兵舎建設、那覇空港の施設とH型兵舎建設工事、八重岳と久米島のレーダー基地建設などを建設している。
米国陸軍通信隊:he sign of a construction company, against a background of officer's housing units almost completed in the Sukiran Field area.
建設会社三幸建設の看板。後方の瑞慶覧飛行場地区には完成間近の将校宿舎が広がる。 1954年 4月13日
米国陸軍通信隊: Barracks under construction in the Sukiran Field area.
瑞慶覧飛行場地区内の兵舎建設現場。1954年 4月13日
瑞慶覧飛行場とそれを囲む扇方の兵舎の形状はこの頃形成されたように見える。また、1951年、道路を挟んで海岸側にはハンビー飛行場も建設された。
米国陸軍通信隊: Aerial view of the last retreat parade of units of the 75th Regimental Combat Team, RYCOM, at Sukiran Airstrip.
【和訳】瑞慶覧飛行場で行われた琉球軍司令部第75連隊戦闘団の最後の撤退パレードの航空写真。北谷 1956年3月5日
日本が沖縄で外貨を稼ぎ、米兵がカリフォルニアのサバービア同然のハウジングを満喫する一方で、戦後もブルドーザーで土地を奪われた住民は、ブラジルなどの海外へ移民することすら強いられた。
米軍は実力行使に打って出た。1955年3月、基地の建設工事を強行。止めようと集まった住民に対して、引き金に指をかけて銃剣を向け、銃尾で老人、女性みさかいなく殴りつけた。
銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民=(2)=戦中、機関銃で家族3人失う – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB
現在のキャンプ瑞慶覧
1981年にはハンビー小飛行場・メイモスカラー射撃場が返還された。瑞慶覧小飛行場を元に扇状に形成された広大なキャンプ瑞慶覧は、しかし、2015年に西普天間住宅地区と2020年に北谷城の遺構 (施設技術部地区) が返還された以外は、ほとんど返還されていない。基地として積極的に使用しているはずのない北谷城のある小さな区域すら、返還するのに75年というシブシブさである。いったいなにがこれほど米軍の心をかたくなにさせるのであろうか。
U.S. Department of Defense Publications: U.S.-Japan Okinawa Consolidation Plan
上が北谷城のある施設技術部地区、下が西普天間住宅地区。
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