FAC6005 伊江島補助飛行場 (Ie Jima Auxiliary Airfield)

f:id:ospreyfuanclub:20220403191918p:plain

 

伊江島の歴史と米軍「伊江島補助飛行場」

f:id:ospreyfuanclub:20220322044106p:plain

 

1943年 日本陸軍伊江島飛行場建設

1943年 伊江島の土地を飛行場建設用地として強制接収、春から陸軍航空本部による飛行場の建設に着工。国場組が請け負う。

1945年3月10日 第32軍 (沖縄守備軍) の要請に応じ、大本営伊江島飛行場の破壊命令を通知。13日から自壊開始。   

 

 

第32軍は、3月10日には伊江島飛行場の破壊を命令、さらに3月30日には読谷・嘉手納飛行場が米軍攻撃で使用不能になり特攻配備が絶望となるや浦添飛行場滑走路  (ブログ註・「南飛行場」現在の牧港補給地区) の破壊を命令した。このように心血を注いで建設された飛行場は当初の目的に使用されることはなかった。

沖縄県「旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過」PDF 34頁

 

1945年4月16日 米軍上陸、その日のうちに飛行場は占領される。一週間の伊江島の戦いで伊江島守備隊はほぼ全滅。住民の半数が命を落とす。アメリカ軍はわずか2日で飛行場を復旧させ、アメリカ軍基地とした。

 

1945年4月16日 伊江島の六日戦争

伊江島は当時、東洋一と言われた飛行場が建設され、守備隊が配備されていたために、米軍の主要な攻撃目標とされ、4月16~21日にわたる戦闘で、一般住民約1,500人を含む4,700人余が犠牲となりました。

総務省|一般戦災死没者の追悼|沖縄県における戦災の状況(沖縄県)

 

伊江島の戦争は6日間で終わったわけではない。収容先でも、帰村後も、多くの住民の命が奪われた。

 


 

1945年 米軍「伊江島飛行場」の建設

1945年4月16日に占領後、米軍は基地の整備と拡大を開始する。

 

日本側は島の住民のほぼ半数にあたる1500が犠牲となり、兵士2000人が死亡しました。

 

住民が帰島を許可されるのは、1947年3月11日以降のことだが、巨大化した基地に土地は破壊され、また住む家も失われていた。

 

伊江島飛行場の建設

f:id:ospreyfuanclub:20210819060442j:plain

米空軍: A double line of dump trucks await turn to be filled with coral at huge pit on Ie Shima, Ryukyu Retto.

伊江島の巨大な採石場石灰岩を積む順番を待つダンプ・トラックの列。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

f:id:ospreyfuanclub:20210819062037j:plain

米空軍: Intelligence clerks must work hours before a mission digging out and preparing target, course and other information that will be passed on to the pilot. Enlisted men of the 318th Fighter Group compiling data area, left to right: T/Sgt. Charles L. Waters of Springfield, Kentucky and Sgt. Charles H. Newhouse of Des Moines, Iowa. Ie Shima, Ryukyu Retto.

任務遂行前に、情報部員はパイロットに手渡す標的や進路などの情報を数時間もかけて探しだし、準備しなければならない。第318戦闘機群データ管理室で作業する兵士たちは左からウォーターズ二等軍曹とニューハウス二等軍曹。伊江島。1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

1947年 住民の帰島が許可される 

一部が解放され、住民の帰島が始まる。家も畑もなく、人々は東海岸のトタン屋根のコンセットに収容された。

 

島に帰った当初も、実はずっと東海岸の近くに米軍のつくったトタンふきの、当時は米軍が利用した軍の施設だったと思うんですけれども、そこにみんな村民が移されたんですよ。… 慶良間列島渡嘉敷島に移されて、2か年間ああいう惨めな生活をして、島に戻ってきたら、今度は島の現状そのものがもう元の伊江島ではないというふうな感じをしたんですよ。もうあちこちみんな雑草がボウボウで。あの当時の気持ちはちょっとなんと言えばいいのか、言葉の言いようもないぐらいですね。

「揺らいだ日本軍への信頼」|戦争|NHKアーカイブス

 

その翌年の恐ろしい爆発事故。

 


伊江島飛行場は日本爆撃の拠点の一つとなる。

1955年 土地強制接収「銃剣とブルドーザー」

1953年7月15日、米軍は伊江村真謝、西崎の住民に立ち退きを通告。

1955年3月10日、米軍は最後通告を行い、翌11日に杭を打ち始めた。地元住民は中止を嘆願するが、14日には家屋に火をつけ、ブルドーザーで家屋や飲料水タンクを次々と引き倒し接収した。最近の調査でわかったのは、この新たな戦闘爆撃機は、LABS(低高度爆撃法)という当時開発されたばかりの核爆弾投下の模擬訓練をおこなうためのものだった。7月から翌年の1956年2月にかけて沖縄本島で非暴力による「乞食行進」を行って、米軍による土地強奪の不当性を訴え、1956年夏の島ぐるみ土地闘争に大きな影響を与えた。

 


   伊江島土地闘争とは・・・ 米軍は1953年、射爆撃場建設のため伊江村真謝、西崎両区の住民に土地を明け渡すよう通告した。55年には住宅をブルドーザーで引き倒し、放火して強制接収した。住民は琉球政府前の座り込み、本島各地を巡る「乞食行進」で世論に訴え、後の島ぐるみ闘争につながった。 

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■