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FAC6005 伊江島補助飛行場

伊江島の歴史と米軍「伊江島補助飛行場」

 

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伊江島 - Wikipedia 出典:『国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」

 

1943年 日本陸軍伊江島飛行場建設

米軍が記録する日本軍の伊江島飛行場。

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米海軍: Aerial view of Ie Shima.

伊江島の空中写真。 撮影地: 伊江島

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

1943年 伊江島の土地を飛行場建設用地として強制接収、春から陸軍航空本部による飛行場の建設に着工。国場組が請け負う。

1945年3月10日 第32軍 (沖縄守備軍) の要請に応じ、大本営伊江島飛行場の破壊命令を通知。13日から自壊開始。   

 

第32軍は、3月10日には伊江島飛行場の破壊を命令、さらに3月30日には読谷・嘉手納飛行場が米軍攻撃で使用不能になり特攻配備が絶望となるや浦添飛行場滑走路  (ブログ註・「南飛行場」現在の牧港補給地区) の破壊を命令した。このように心血を注いで建設された飛行場は当初の目的に使用されることはなかった。

沖縄県「旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過」PDF 34頁

 

1945年4月16日 米軍上陸、その日のうちに飛行場は占領される。一週間の伊江島の戦いで伊江島守備隊はほぼ全滅。住民の半数が命を落とす。アメリカ軍はわずか2日で飛行場を復旧させ、アメリカ軍基地とした。

 

1945年4月16日 伊江島の戦争と米軍の伊江島飛行場建設

伊江島は当時、東洋一と言われた飛行場が建設され、守備隊が配備されていたために、米軍の主要な攻撃目標とされ、4月16~21日にわたる戦闘で、一般住民約1,500人を含む4,700人余が犠牲となりました。

総務省|一般戦災死没者の追悼|沖縄県における戦災の状況(沖縄県)

 

 

1945年 米軍「伊江島飛行場」の建設

1945年4月16日に占領後、米軍は基地の整備と拡大を開始する。住民は伊江島の戦いで半数は死亡。生き残った人々は慶良間諸島の収容所や辺野古大浦崎収容所に移送された。住民が帰島を許可されるのは、1947年3月11日以降のことだが、巨大化した基地に土地を奪われ、また住む家も失われていた。

 

伊江島飛行場の建設

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米空軍: A double line of dump trucks await turn to be filled with coral at huge pit on Ie Shima, Ryukyu Retto.

伊江島の巨大な採石場石灰岩を積む順番を待つダンプ・トラックの列。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

伊江島飛行場は日本爆撃の拠点の一つとなる。

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米空軍: Intelligence clerks must work hours before a mission digging out and preparing target, course and other information that will be passed on to the pilot. Enlisted men of the 318th Fighter Group compiling data area, left to right: T/Sgt. Charles L. Waters of Springfield, Kentucky and Sgt. Charles H. Newhouse of Des Moines, Iowa. Ie Shima, Ryukyu Retto.

任務遂行前に、情報部員はパイロットに手渡す標的や進路などの情報を数時間もかけて探しだし、準備しなければならない。第318戦闘機群データ管理室で作業する兵士たちは左からウォーターズ二等軍曹とニューハウス二等軍曹。伊江島。1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

1947年 住民の帰島が許可される 

一部が解放され、住民の帰島が始まる。

しかし、その翌年、悲劇が起こる。

 


1955年 伊江島の土地強制接収が始まる

1953年7月15日、米軍は伊江村真謝、西崎の住民に立ち退きを通告。

1955年3月10日、米軍は最後通告を行い、翌11日に杭を打ち始めた。地元住民は中止を嘆願するが、14日には家屋に火をつけ、ブルドーザーで家屋や飲料水タンクを次々と引き倒し接収した。近年の資料でわかったのは、この新たな戦闘爆撃機は、LABS(低高度爆撃法)という当時開発されたばかりの核爆弾投下の模擬訓練をおこなうためのものだった。7月から翌年の1956年2月にかけて沖縄本島で非暴力による「乞食行進」を行って、米軍による土地強奪の不当性を訴え、1956年夏の島ぐるみ土地闘争に大きな影響を与えた。

 

 

 

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