FAC6004 奥間レストセンター (Okuma Rest Center) ~「米軍美談」を検証する

奥間レストセンターとは

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/ospreyfuanclub/20220322/20220322032100.png

 

f:id:ospreyfuanclub:20220402211211p:plain

奥間レスト・センター - Wikipedia

 

沖縄県国頭郡国頭村に位置する在日米空軍管轄の米軍基地 (保養施設)。

  • 施設番号 FAC6004 奥間レストセンター
  • 場所:国頭村(字辺土名、字奥間、字桃原、字鏡池
  • 面積:546,000m2
  • 駐留軍従業員数:99人
  • 管理部隊:在日米空軍

空軍に限らず、米軍の保養施設として米軍人・軍人の家族・軍属に広く利用されることになっている米軍保養施設である。面積は135エーカーで50以上ものぜいたくな米軍保養施設が並ぶ。

かつては南側に VOA (Voice of America) 奥間通信所もあった。こちらは当時問題化され (VOA密約) 返還された。

 

奥間レストセンターは、航空写真で見ると小さく見えるが、かなり広大な面積を占有している。

f:id:ospreyfuanclub:20210506152244p:plain

米空軍が上空から撮影した赤丸岬。上空を飛ぶ戦闘機に注目。 wikipedia commons

 

 

沖縄戦後、1947年8月1日に米軍が土地を接収し、農地や茂みを焼き、保養施設を建設した。

 

さらに1951年10月1日にはさらに南側の土地も接収し、冷戦時代の情報戦略の拠点となった 奥間 VOA 送信所を建設した。村は強力な電波障害に悩まされた。地形を見てもわかるように、平地の少ない北部のこの土地は、沖縄三大美田と称された水稲の特産地。それが強制接収され、さらには強烈な電波障害が村を襲うようになる。なにが建設されたのかは住民には知らされていなかった。VOA施設は、沖縄返還協定の際に政治問題化され、1978年に返還されたが、VOA施設移転費1600万ドルを日本が支払ったという密約の存在が明らかになったことも問題となった。これはまた別の項目 (VOA 奥間通信局) で扱いたい。

 

1945年 - 赤丸岬の風景

1945年5月6日、日曜日。

この日、第32軍の無謀な逆上陸計画で何千という日本兵が戦死し撤退を余儀なくされていたなか、海兵隊の一人のカメラマンは北部西岸から辺戸岬までの沖縄の風景を撮影してまわった。

 

 

なかでも、目を引く写真は、現在は米軍基地 (保養施設)「奥間レストセンター」として占有され、今は入ることのできないかつての赤丸岬の風景である。おそらく、写真を撮った米軍カメラマンもこの静かで美しい岬の魅力に心打たれたに違いない。

 

今では見ることのできない赤丸岬の風景。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/neverforget1945/20210505/20210505162022.png

海兵隊写真資料 Akamaruno, Misaki Bay. Seawall, on west coast.
赤丸岬の入り江。西海岸の護岸。1945年 5月 6日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

海兵隊写真資料 Akamaruno Misaki Bay. Seawall on west coast of North Okinawa.
【和訳】 赤丸岬の入り江。沖縄北部の西海岸の護岸。1945年5月6日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

1945年5月6日のこの日、米軍が「前田高地」を制覇し南進するなか、海兵隊の一人のカメラマンが将校と共に残波岬のボーローポイントから西海岸沿いに車を走らせ、赤丸岬、そして北端の辺戸岬までの風景を幾つも写真に記録して回っている。壮絶な戦闘が続く米軍内では、リクリエーション・エリア (保養地) の選定が必要だったためではないだろうか。

 

それから二年後、米軍はこの赤丸岬を接収する。米軍の保養施設を建設するためだ。

 

  • 1947年8月1日 「奥間レスト・センター」として使用開始。
  • 1974年1月30日 第15回日米安全保障協議委員会で、軽飛行機用滑走路部分の土地約100,000m2の無条件返還を合意。 
  • 1976年9月9日 台風17号によって同施設の老朽化した防波堤が決壊し海水が進入、それが施設の排水と相まって、隣接農耕地へ流出し冠水、農作物に被害を与えた。
  • 1977年9月30日 施設管理権が米陸軍から空軍へ移管。
  • 1978年3月31日 浄水場用地等として、約12,250m2(昭和52年5月5日返還のV.O.A施設の給水管用地部分)を追加提供。 
  • 1985年3月20日 住宅用地約600m2を返還。 
  • 1986年4月3日 水道施設として、工作物(水道管)を追加提供。
  • 1987年6月30日 村道施設用地約12,000m2(主に浄水場用地)を返還。

  

撮影日時は不明だが、右側にみえるのは農耕地。地元民が食糧不足に苦しむなか、膨大な「純農耕地」を接収したことがわかる。

 

f:id:ospreyfuanclub:20210506165638p:plain

撮影年月日は不明。

航空写真/奥間レスト・センター(米軍保養施設) : 那覇市歴史博物館

 

米軍英語サイトが語る「歴史」とは!?

話は戻るが、奥間レストセンターはどのように米軍基地になったのだろうか。

 

f:id:ospreyfuanclub:20210506160246p:plain

https://www.facebook.com/KadenaFSS/posts/2792982947409750

 

空軍関連の Homepage をみてみよう。まず、沖縄戦の苦しみから二年後の1947年、これほど閑静な沖縄のビーチをどのように軍が所有するに至ったのか、Okuma Beach の HP には、その歴史 (history) が書かれている。

 

ざっと英訳する。

「いくらだったんだ?」マッギーは尋ねた。「なしだよ」 (?) とヘイデン将軍は答えた、そしてマッギー中佐は現場にむかったのです。

沖縄の高齢農家7人が敷地を所有し (7人? 地主世帯は現在200軒以上) 、家賃の請求額を尋ねられた。農場あたり40ドル相当が決定された金額でした。しかし、農民が公正な取引を得られるようにするために、マギー中佐は自分のポケット (?) をまさぐって、それぞれ50ドル (貨幣については下記を参照 *1 ) にしました。

沖縄公共事業 (軍政府の公共事業局) のブルドーザーとオペレーターを無料で提供してくれたマツオカさんの助けを借りて、この地域は一掃されました。沖縄の人々は、この地域には多くのハブヘビがいるため、ワルパイ(背の高い草)を燃やすように主張しました。ワルパイを燃やした後、彼らは163のハブの焦げた残骸を見つけました。

農民が土地の代金を支払われたという事実は、これが町の町長たちを喜ばせた (下記に記すように mayor たちは村民と共に嘆願書を出し接収に強く抗議している。) ので、途方もない資産であることがわかりました。彼らは集まり、建設のための豊富な労働力を保証しました。大工は不足していて需要が高かったので、これは特に重要でした。請負業者は労働者に日本本土で働くことを奨励するあらゆる種類のインセンティブを提供したが、労働者は奥間プロジェクトを去ることを断固として拒否した (なぜ里を捨てて本土にいかなきゃならんのだ !? ) 。辺士名高校の生徒たちは、毎週1日、敷地を掃除する時間をボランティアで提供しました。

Kadena FSS - Okuma Beach History

 

いかにも主体的に沖縄県民が歓喜し、県民がブルドーザーを持ってきて農地をつぶしたように書かれているが、ざっとみただけで奇妙な箇所は幾つもある。

 

軍が砂糖菓子のように美談を語る時には、しっかり話の裏を確認したほうがいい。この美談には何一つソースがなく、現地の町長の裏書もない。沖縄戦から二年目、基地で土地を奪われ、海外移住まで余儀なくされる時代が長く続くなかで、ボランティアとは、なかなか洒落た美談になったものだ。

 

しかも沖縄戦から2年後の混乱期だ。収容所にいれられ、すべての生活基盤が破壊された地獄のような季節、常識で考えてもフェアな契約がなされうるとはとても思えない。

 

で、探してみました。

当時を記録した嘆願書が公文書館に記録されています。

 

1948年4月18日 国頭村大宜味村両村による嘆願書

国頭村大宜味村の両村の村長が、住民1266名の嘆願書を提出し、貴重な農耕地である土地を解放するように求めている。

 

f:id:ospreyfuanclub:20210506163628p:plain f:id:ospreyfuanclub:20210506163654p:plain

対米国民政府往復文書より 奥間休養中心地の解放請願について [嘆願書]

国頭村移動展 – 沖縄県公文書館

 

ここにある「奥間休養中心地」とは、「奥間レストセンター」のことである。センターが「中心地」という訳になっている。

 

嘆願書

奥間休養中心地に定められた地域はその位置及び農耕地としての観点から我々の村の最も有益な土地であります。平常の収穫年には、この地域は甘藷年4万ポンドを生産するのであります。この地域の生産物の中の甘藷◯類 (判別不明) で、わが村だけでなく大宜味村も生活していたのであります。

 

イカ、トマト、キャベツ、サトイモ等の新鮮野菜が東京及び阪神地区の遠くまで輸出されておりました。この理由で当地は沖縄のデンマークなりと呼ばれておったのであります。なお、この土地は砂地で高い地温があり、春の間、自然熱の苗床だと言われている程で、春季には甘藷の収穫は他の土地より大量であります。しかしながら現地軍が1947年にこの土地に休養中心地を設定した時、それはこの特別地区に頼っておった農民たちにとっては全くの打撃であったのであります。

 

そのとき村は村民から甘藷を集めて、それを農民たちに配給して援助することができたのでありましたが、我々はまたまた1948年5月1日までに純農耕地22エーカーを明け渡すようにとの命令を受けました。その結果、生活恐慌がその土地に関係している310家庭の1266名の人々の50%に急にもたらされたのであります。

 

そして現在の食料事情では我々はもはや甘藷を集めて彼等を支えることはできない立場にあります。そして我々は社会政策の見地において、この問題について非常な関心を持つものであります。貴官の特別なるご配慮とご同情を二カ村の村民の嘆願書に垂れんことを懇請する次第であります。この全制限地域の解放に対する即刻の認可を、国頭、大宜味村1266名の署名をもって願いあげます。

 

1948年4月18日

歎願の代表者

国頭村長 新里尊福

大宜味村長 平良仁一

❒ 文字の書き起こしについては誤字などがあるため原文を必ずお確かめください。

 

町長たちが喜んだどころか、北部の少ない平地を奪われた二つの村は、国頭、大宜味村1266名の署名とともに村長が土地接収に反対して嘆願書を提出していた。

 

つい二年前まで、おびただしい数の県民が国頭村で餓死した。土地を奪われ、住むところもなくなった。そんな時代に、米軍の海水浴のリゾートのために、円満に土地をさしあげボランティアまでするなんて、まあ普通に考えて、リクリエーションのための典型的な「米軍美談」である。 

 

f:id:ospreyfuanclub:20210506174441p:plain

Okuma Recreation Facility - Military Living

 

現在の「奥間レストセンター」マップ

f:id:ospreyfuanclub:20210509232017p:plain

Kadena FSS Okuma Outdoor Recreation – Okuma Beach

 

歴史をしっかり見ていかなければ、すぐに沖縄の歴史は軍や国によって書きかえられる。

 

1945年夏。

山の中での私たちの食べ物なんですが、芋があればごちそうなんです。桑の葉とかヨモギとか名も知らない草を、人が食えるというものは何でも食べてみました。ソテツが主食になっていましたが、ソテツを刻んで発酵させるまでは草や木の葉を食べて飢えをしのいでいました。国頭の山の中に園田という生物の先生が避難していましたが、この人は食用植物は何でも知っているということで、毎日のように避難民が問い合せにおし寄せてきたそうです。これでは自分の食糧さがしができない、ということになって「山羊の食べられる草や木の葉は人にも食べられます」と書いた紙きれをあちこちの木に貼りつけておいたそうです。皆が山羊にまでなりさがった状態であったわけです。飢饉の年は椎の実やイチゴがよくできると年寄りたちが言っていましたが、たしかにその年はいちばんよくできた年で、イチゴなど初めのうちはバケツの半分もとれたものでした。それがまたたく間に取り尽くされてしまったんです。

 

常食のソテツは幹を切りとってきて、皮をはいで、水にさらして白い木質のところを真黒になるまで朽して、発酵させてから食べるんですが、避難民のなかには処理法を知らずに、また知っていても発酵するまで待てなくて中毒で死んだのも大分いたようでした。

 

私の家族も栄養失調で骨と皮になっていましたが、それよりもっとひどいのは町方からの疎開で、私たちが落した芋の皮を金蠅がたかっているのもかまわずに母親と女の子が争って食べていたのを覚えています。七月のはじめごろになると、山道には栄養失調で動けなくなった者、餓死した者がどろどろころがっていました。そこを通ると悪臭がたちこめて、銀蠅がブーンと飛び立って、いつかは自分もああなるだろうかとたまらない気持になったものでした。

沖縄戦 国頭村 - Battle of Okinawa

 

1986年、国頭村は奥間レスト・センターの全面返還を要望している。

1991年10月 には、跡地利用再開発基本構想を策定している。

 

米軍の保養施設を楽しむみなさんには、ぜひ、米軍広報のネットには書かれていない地に足のついた沖縄の歴史を知ってもらいたいと思います。

 


■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 

f:id:ospreyfuanclub:20210506181811p:plain

 

*1:27年で5回も通貨が変わった沖縄 つくられた基地依存経済と3次産業の拡大 | 女性自身 この時期、沖縄の「貨幣」は軍政府によって猫の目のように変えられた。