A-3 川田訓練場 (Kawata Training Area)
3. 川田訓練場
「川田訓練場」
- 1971年6月20日 「返還」
- 3,735,000㎡
沖縄返還協定の欺瞞 - A表 (継続使用基地) 問題
1971年、沖縄を排除するかたちで日米間で締結された「沖縄返還協定・了解覚書」には、正確には軍用地ではない「一時使用訓練場」7カ所 (安波訓練場、川田訓練場、瀬嵩訓練場、久志訓練場、屋嘉訓練場、浮原島訓練場、前島訓練場) までが、A表 (継続使用として提供される米軍基地) としてリスト化されていた。
しかも、その七カ所のうち、川田訓練場と瀬嵩訓練場は、地元が米軍に対して一時使用を拒否し続けており、また前島訓練場においては、また地元や土地所有者との間に十分な連絡がないまま記載されており、大きな問題となった。
アメリカが占領中に沖繩の住民を追い立てて、ブルドーザーでずっとやって、そうして基地にしてしまったという事実があるけれども、こういった、村民に通告をしない安波とか川田訓練場をA表に入れてしまったということは、アメリカの態度とあまり変わらないのじゃないか、このようにさえ私はここで申し上げたいのです。こういった事実に対して沖繩の県民が反対した場合に、強制収用になる。そんなことになれば県民は実力で対峙する。それには今度は自衛隊がそれに対して出動しなければならないということになっていったら、何のための施政権返還かわからない、こういうことですよ。この一例を見ても、協定がほんとうに喜ぶべきものかどうか。私がきょうお話しするのは、もうたった一つの例です。まだまだいろいろな例を検討中ですけれども、こういう証拠が出てきているわけですね。これは協定そのものに問題がある証拠なんです。
1944年 - 日本軍駐屯地と「慰安所」
豊かな木材資源がある川田村には、かつては日本軍 球部隊(約100人)と水勤隊(朝鮮人軍夫約130人)が駐屯し、朝鮮人軍夫に材木などの斬りおろしなどをさせており、また朝鮮人慰安婦 (約20人) もつれてこられ慰安所が開設されていた。
地元の証言者
1944年、日本軍が川田村に駐留し始め、日本軍の製材所の仕事を行う
1945年、米軍が村に侵攻し、捕虜となる
あれらが、動作見ても、同じ人間には、かわりないが、あんなに差別されて、仕事も怠けてやらず、ちゃんと彼らはやっていた。食べ物も満足はしない、少し悪いことしたら、すぐ制裁加えたりね。こういうこと、厳しいことあるから、かわいそうだと良くわかるよ。
東国民学校高等科1年生であった金城重信は、父政信がエーラ山の製材所の資材、労務関係の責任者だったことから、父政信が帰宅するときに乗って帰る時の馬を届けるために下校後は馬に乗ってエーラ山の製材所まで行くことが日課になっていた。ある日、製材所に勤務している父の友人に頼まれたサツマイモを馬の鞍に下げ、トーヤマに差しかかった時、そこの山小屋に監禁状態にされていた慰安婦(朝鮮出身の若い女性約20人)の3人がサツマイモを見つけて駆け寄ってきて「サツマイモクダサイ、オネガイオネガイ」と両手を差し伸べて懇願したので、それぞれに1個ずつあげた。その場面を見ていた仲間の慰安婦たちも「サツマイモ クダサイ、オネガイオネガイ」と駆けつけて来たので、びっくりしてその場から大急ぎで立ち去った。・・・水勤隊員等は日本兵よりも食事の量が減らされて支給され、毎日ひもじい思いをしながら厳しい労働を強いられていた。このような状況を毎日見ている川田の人達は水勤隊員等を家の近くで見かけると招きいれ、サツマイモをお膳に盛って食べさせていた。・・・しかし、民家に入って食事をしているのを日本兵に目撃されると罰されていた。また、川田には一時期朝鮮人の若い女性がいたがその女性達を「チョセンピー」と呼んでいた。
地元の証言の他に、川田で使役された朝鮮人軍夫の記録には、ここで朝鮮人慰安婦の「慰安所」の建設をさせられた時の衝撃と屈辱と嫌悪感が記されている。その後、彼は若い「慰安婦」の1人から、どのように騙されここまで連れてこられたかを聞かされる。
朝鮮人「慰安婦」の慰安所建設を命じられた、ある朝鮮人軍夫の日記から
1月16日、作業班長に任命される。任務は、書きたくないが、あえて書けば、慰安婦の幕舎づくり」だ。
「慰安婦」を嫌悪した金はやがてだまされて慰安婦にされた「貞子」の身の上を聞く
貞子 (軍は朝鮮人慰安婦に日本の女性の名前をつけた) は、多くの同僚たちと共に務めていた百貨店を解雇された。解雇されてすることも無く遊んでいる娘、ということになれば、明日にでも、挺身隊志願の勧告を受けるだろう。こういう切迫した時期に、母親は愛国班長から、耳寄りな話を持ち掛けられた。内地にある民営企業で女工を募集しているのだが、千円の前金をもらえ、二年間の契約で寝食を提供された上に、五十円の月給をもらえるという条件だった。母親は「娘を挺身隊から逃れさせたい」一心で、この話に飛びつき、貞子は貞子で、千円の金があれば、母親が楽に暮らせるだろうと考えて、募集に応じる決心をした。
米軍 許可訓練場「川田訓練場」
その後、琉球列島米国民政府の統治下で米軍基地の演習地として利用されていく。川田訓練場は、正規の軍用地ではなく、使用するにあたって一年ごとに地元自治体との更新が必要な「許可訓練場」であった*2。
もう一つ、東村の川田訓練場、これはすぐ上にベトナムに行くゲリラの訓練場がありまして、そこに上がっていく通行路にもなっている。しかし、これは明らかに村有地である、部落有地である。言いかえれば字有地でもある。ここは部落総会が開かれまして、皆さんはずいぶん、地元の方方をたよって、部落の中に、毎日毎日部落民が額を合わせて、ああでもない、こうでもないといって、部落会部落会で開かにゃならぬような騒ぎを起こされた。しかし、そのことをいまここでとやかくは申しませんが、結果的に、部落総会を十月の十日に開きまして、今後、小さな農道も含む部落内の演習を一切拒否する、このことを村長さん以下決定をして米軍に申し入れている。これは、通過だけさしてくれといって、実は通過だけではなしに、そこに天幕を張って、二日間米軍が野営をして演習をやった。この東村の川田訓練場の川田部落は、実はちょうど半分が私有地、個人有地になっている。パイン畑が至るところにできている。これをたいへん踏み荒らした。女子供も家から出られなかった。通過だけといって三拝九拝して頼んでおいて、この結果は何だということになって、断じて貸さない、部落総会でこれまた決定いたしております。これまた連絡をいたしましても、断じて貸す気はない、部落総会の満場一致の決定である、こうであります。
1971年の駆け込み返還
一旦、米軍に提供する沖縄返還協定 A表 リストに載せたものの、1971年6月20日に駆け込み返還。
71年当時、恒久使用の米軍基地以外に、市町村との契約に基づき7つの沿岸部水陸両用訓練地域が存在していた(安波[国頭村]、川田[東村]、瀬嵩第1・第2、久志[名護市]、屋嘉第2[金武村]、浮原島[勝連村])。これらは自治体とUSCAR間で12ヶ月毎の更新が成される許可訓練場であった。7つのうち北部訓練場に隣接する、東村の川田、名護市の瀬嵩第1については反対の声により許可が下りず、安波に関しては区長と国頭村長の許可は取ってあるが、同年10月16日に開催予定の日本の議会の結論を待つという内容であった。もし自治体長らが訓練場使用許可を出さなかった場合、USCARは高等弁務官布令第20号により、強制使用の場合があると考えていた。
森啓輔「統治と挑戦の時空間に関する社会学的考察ー戦後沖縄本島北部東海岸をめぐる軍事合理性、開発、社会運動̶」(2016) p. 149.
そして内陸に孤立して位置している北部訓練場は、奥訓練場、安波訓練場、川田訓練場と連結させなければ、海兵隊の上陸訓練ができないこと。
北部訓練場の成立は、その後の度重なる新規訓練場やヘリコプター着陸帯の建設、地元民のゲリラ訓練への動員など、同地域に軍事的インフラを埋め込んでいく。北部訓練場は米軍統治下においては、北部に位置した奥訓練場、南部に位置した川田訓練場などとも隣接していたが、施政権返還後は、東部に位置する安波訓練場と隣接しながら、海兵隊の水陸両用訓練を可能にしていく。・・・
森啓輔 (2016) p. 99.
しかし許可の更新が必要なこれらの訓練場で、米軍は、つねに地元の反対があれば、訓練できなくなるという危機感をもっており、
もし上記の許可訓練場の継続使用を諦めるならば、「沖教組(OTA)やその他の者達に、全面撤退の道を開く第一歩となってしまうだろう」(同上:7)と報告されている。当時海兵隊が、沖縄の革新勢力を非常に警戒していたこと分かる。
森啓輔 (2016) p. 150.
その不安を解消し、より恒久的な基地として確保するため
結果として、川田、瀬嵩第1・第2訓練場は返還され、屋嘉、久志、浮原、安波訓練場は、日米地位協定2-4-(b)に基づく一時使用により、施政権返還後も継続使用されることとなった。
森啓輔 (2016) p. 99
1974年 - 福地ダムの完成
福地ダムと農用地として跡地利用される。
- 1971年6月20日、3,735k㎡ の全面返還
- 1974年12月9日、福地ダム(湛水面積2.45k㎡)が東村川田に完成。
返還された川田訓練場の多くが福地ダム (514k㎡) とその水源涵養林 (1,333k㎡) にあてられている*3。
しかし・・・
しかし、県内最大のダム、県民の水がめとしての「福地ダム」はそれでも北側の過半が北部訓練場に面しており、また様々な事件事故が起こっている。
飲み水を供給するダムや水源涵養林が軍の訓練地 (基地) となっており、ダムの上を米軍ヘリが飛びかう場所が、どこにあるだろうか。
国頭村にある安波ダムで低空飛行で旋回する米軍機CH53E
これは、環境的人種差別 (environmental racism) そのものである。
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*1:第66回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会公聴会 第4号 昭和46年9月4日
*2:布令二十号の軍用地と、そうではない許可制の訓練場との違いについて
「これは御存じのとおり、1955年、ここで沖繩全土をゆるがす土地問題についての大きな争いが起こりました。たいへんな争いが起こりました。そして代表の方々がワシントンにまで行っている。やたらそこらじゅうで勝手に演習をする、不法不当に使って、たいへんな危険が住民に及んでいる。全島あげての大騒ぎになった。この中でアメリカまで行って、ワシントンでいろいろ訴えた。そして沖繩に三つの分科会をおつくりになった。この三つの分科会から代表が一人ずつお出になって、特別委員会、琉米両側委員間の同意事項というものを、1958年10月28日でございますが、おつくりになっている。この中で演習地域についてという話し合いによる便宜措置をこしらえた。それが村長なり市長なりの許可証によって一定の許可の期間だけ米軍が訓練に使うことができる、こういうふうに合意ができた。布令二十号には基づいておりません。琉球政府による統一見解の中には、軍用地の定義が明確になっております。第一は、➀ 布令第二十号によって米合衆国軍隊が賃借している土地、➁ 米国民政府財産管理課の割り当てにより米合衆国軍隊が使用している国、県有地、➂ 米合衆国機関が埋め立てた土地、これだけが、四半世紀にわたる米軍との争いの中で確立をされた、米軍と琉政の合意に基づく軍用地の定義です。」