A-83 前島訓練場

渡嘉敷村 前島

前島は、渡嘉敷村にある慶良間諸島の島の一つ。

空自、無許可訓練認める 「永久承諾」と誤解 渡嘉敷村前島で2000年以前から | 沖縄タイムス

 

島の人口は、戦前から戦後にかけては慶良間薪や慶良間鰹の名産品で栄え、200~300人もの住民がいたが、最近は島の復興を願う高齢の住民一人が暮らしていたものも*1、現在は無人島となっている。

 

かつての集落跡が比較的良好な形で残されていて、自然の美しさもさることながら、沖縄のかつての集落の道幅などもうかがい知ることができるなど、歴史的にも魅力が満載な島です。

前島|沖縄文化・観光ポータルサイト(OKINAWAN-PEARLS)

 

概要

1945年、非武装を選び、沖縄戦の戦禍をなんとか免れたこの島は、しかし、1971年沖縄返還協定了解覚書において、地元の了承もなく「継続使用される米軍基地のリスト」 (A表) に記載され、大きな問題となった。これを受け、日米は前島を沖縄復帰前に「返還」したことに。また2018年には、自衛隊がこの島での軍事訓練を「永久承諾」されているとして無許可で訓練を行っていたことが明らかになった。

 

沖縄戦 - 日本軍のいなかった前島

特攻艇マルレの基地が設置された慶良間列島の島々では、「集団自決」によって多くの尊い住民の命が奪われた。1945年3月28日には、赤松隊の駐屯する渡嘉敷島で実に島民の半数近くの命が奪われたのだが、前島の情況は全く異なっていた。

 

軍がいなければ、標的になることはない。中国での経験からそう判断した校長は、島に軍を置かず、疑似砲台すら設置しなかった。そのため米軍の攻撃を受けることもなく、集団自決を迫られることもなかった*2

 

    前島は渡嘉敷村に属し当時52世帯274人が島の東側にある部落に住んでいた。在郷軍人は18人である。1944年10月10日空襲の少し前に渡嘉敷島の基地第3大隊の大隊長鈴木常良大尉以下5人の兵士が島の測量にやってきた。分校長をしていた比嘉儀清氏は鈴木大尉に測量をする目的を尋ねたところ、「住民を守るために一個小隊の兵を置くための準備だ」との答えが返ってきた。比嘉氏は元警官で上海事件に上等兵として従軍した経験等から、兵隊がいなければ敵は危害を加えないとの信念を持っていたので、決死の覚悟で駐兵を思いとどまるよう具申した。

    比嘉氏が前島に関して全責任を持つことを条件に鈴木大尉は了承、比嘉氏は青年学校教官、防衛隊長、竹ヤリ訓練の執行責任者となる。その後、渡嘉敷島との交通は遮断され、日本兵は前島に来なくなった。

    1944年10月10日以降、住民は、空襲の際には部落北部にある斜面掘り抜きの墓に避難した。1945年4月3日頃 (3月下旬の可能性もあり) 米軍の斥候5人が軍用犬を連れて島に上陸。サンネー壕の前に来たが、犬は吠えず米兵は去った。翌日以降1個中隊約150人が上陸して島に軍事施設がないことを確認して去った。

    比嘉氏「いずれにしても戦争している以上米軍が前島を攻めてくることは考えなくてはならない。在郷軍人は十分訓練した。敵が壕に入ってきたらまず私が突っ込んで2、3人は殺す。その混乱に乗じれば相当戦えると話したところが、老人たちは、わしらの孫を殺すのか、という。私には決死の覚悟はあったが自決ということは頭になかった。」

伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』(紫峰出版、2020年2月1日)

 

やがて米軍が上陸してきたとき、分校長を先頭に投降して島民は無事だった。

林 博史『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001.12)p177 

 

沖縄返還協定と前島 - 「前島訓練場」という虚

しかし、そんな非武装で島民を守った前島を、日本政府は米軍基地にしようとした。

 

1971年、沖縄を排除するかたちで日米間で締結された沖縄返還協定・了解覚書には、正確には軍用地ではない「一時使用訓練場」7カ所 (安波訓練場川田訓練場瀬嵩訓練場久志訓練場屋嘉訓練場浮原島訓練場前島訓練場) までが、A表 (継続使用として提供される米軍基地) としてリスト化されていた。

しかも、その七カ所のうち、川田訓練場瀬嵩訓練場は、地元が米軍に対して一時使用を拒否し続けており、また前島訓練場においては、また地元や土地所有者との間に十分な連絡がないまま記載されており、大きな問題となった。

 

前島は、地元や土地所有者の許可を得たうえで、使用料を払って利用する「一時使用の訓練場」であったが、そんな前島を、なぜ日本政府は米軍に提供する基地リストの中に入れたのか、以下、追及する国会議員の質疑を引用する。

 

 安里 積千代 (あさと つみちよ) 衆議院議員 

もうめんどうくさいから私申し上げますが、一番初めになされたのが1964年9月から、しかもそれはたった1年間の問題、爆弾を使わない、実際の問題は耐乏訓練 (ブログ註=サバイバル訓練、実弾は使用しない条件で使用*3 )だということで、64年の9月1日に契約をされました。しかし、それはあくまでも一年限りのものだったと思います。そして翌年さらにまた一年間の契約。しかし、64年度も65年度も実際は使われておりません。したがって、一文の地料も入りません。使った日数に応じて使用料を払うというような契約の内容のはずです。そして、65年度も66年度も67年度も契約をしただけで使われてはおらない。そして、69年度と70年度の二年度しか、わずか30日足らずしか使われていない、こういう実態も御存じでありましょうか。そしていま問題になりますのは、覚え書き協定をつくりました当時のものは、71年に契約をされて、そしてことし一年間、つまりことしの6月30日で終わる契約だ、こういうこともよくわかった上で提供されるところの土地のうちに加えたわけですか。

… それを今度は日本の政府において、期間の定めもなく、これまで以上の大きな義務を負わされて提供するということが、ほんとうに日本政府としてこれは道理にかなうのだ、当然なアメリカ側の要求であるというふうに思われてやられたのですか、

第68回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第5号 昭和47年3月17日

 

沖縄を占領した米軍が、軍用地以外でも好き勝手に土地を訓練場として使用する、それに対して、1958年琉球政府はワシントンにまで赴いて交渉、軍用地以外の土地では許可制で一時的に訓練地使用を認めるという規制を設けた。日本政府は、そうした経緯をすべて「無いこと」にして、一時使用の訓練場をA表に追加し「継続して米軍に提供する基地」としたものだから、いったい、日本はどれだけ沖縄の歴史に無関心で、どれだけ沖縄によりそっていないのか、という問題になったわけである。

 

こうして、日本政府は前島訓練場など、幾つかの基地を前倒しで「返還」するよう米軍と交渉し、沖縄返還 1972年5月15日の前日、5月14日に、前島の1428000km2が「返還」され、A表から外された。

 

しかし、前島は、もとから軍用地でなかったので、厳密には「返還」ではない。日本政府は沖縄抜きの「沖縄返還協定・了解覚書」をもとから修正し沖縄に謝罪すべきだったのだ。

 

自衛隊と前島 - 訓練の「永久承諾」という虚

前島と同様、軍用地ではないにもかかわらず A表にいれられていた浮原島は、そのまま A表から外されることなく、沖縄の施政権移行後、「日本政府によって」米軍「浮原島訓練場として提供され、そしてその6年後、浮原島訓練場は米軍から陸上自衛隊移管され自衛隊の基地」となった。

 

もしかしたら、声をあげなければ、前島も浮原島と同じように自衛隊用地の先取り」として A 表にいれられていたのかもしれない。

 

しかし、米軍基地とならなかった前島も、いつのまにか許可なく自衛隊の訓練地として使用されていたのだ。

 

2018年12月10日航空自衛隊那覇基地が、前島での訓練実施に関し「永久承諾」の取り決めがあるとして、村に許可なく訓練を実施していたことが判明。

 

空自「理解されているものと…」渡嘉敷村「知らなかった」 訓練の永久承諾、書面確認できず

    沖縄タイムス 2018年12月12日 10:07

  同日、村役場で同基地第9航空団の管理部長ら3人と村の担当者が協議した。村によると、同基地からは「永久承諾という、通常使用しない文言を、書面で確認できないまま使用してしまった」との説明があったという。

  村は「訓練が前島の陸域で継続的に実施されていることは知らなかった。そういう認識はまったくなかった」と抗議。同基地は「理解されているものとして訓練していた」と答えたといい、双方で認識の違いが改めて明らかになった。   

  座間味秀勝村長は「この状態で訓練の場所を提供することはできない。住民や郷友会の理解を得た上で、今後どうするか検討したい」と述べ、同基地に訓練の自粛を要請した。村によると、既に訓練を自粛しているという。

   一方、2000年に取り決めがあったとされる「永久承諾」について、同基地から詳細な説明はなかったといい、村は「現時点では、取り決め自体がなかったと考えざるを得ない」との認識を示している。村によると今後、同基地と訓練に関する取り決めをするかについては未定という。

 


2018年12月9日  空自、通知せず島で年100回訓練 渡嘉敷村「聞いていない」 「永久承諾」主張、文書は不明 - 琉球新報

 

基地として土地を使用しなくても返還しない米軍と、またかつてのように理由をつけてはあちこちで島の土地を基地として利用しようとする日本政府のダブル。

 

1972年の「沖縄返還」でやってきたのは、

日本と米軍の、ダブルのご都合主義だった。

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 

*1:住民たった1人の島に多数の不発弾 戦時中の沈没船から漁師が回収、そのままに 住民「撤去してほしい」 - 琉球新報デジタル

*2:沖縄戦時に沖縄の離島で、校長先生が日本軍にお願いして撤退してもらったため、被害が少なかった事について... | レファレンス協同データベース

*3:第68回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第5号 昭和47年3月17日 安里 積千代「六四年から七〇年までの間にちょこちょこと一週間やってみたり、六日置いてみたり、しかも人間は五、六名、こういったようなものさえも、沖繩の返還によって軍用地としてアメリカに提供しなければならないという義務を、政府が唯々諾々としておるということは、あまりにも情けないと思うのです。」