詩人 T.S. エリオットは、4月を「最も残酷な月」と呼んだが、渡嘉敷では、3月こそが「最も残酷な月」である。
1971年の空中写真では、米軍の渡嘉敷ホークミサイル・サイトは黒塗りされている。
渡嘉敷島北部 (1971年03月20日撮影) 渡嘉敷陸軍補助施設。黒塗りされている北山の山頂部分は沖縄戦での渡嘉敷島住民集団自決地に建設された米陸軍のホークミサイル・サイト。
1945年3月28日 渡嘉敷の集団自決
渡嘉敷の聖地、北山 (ニシヤマという)
北ウタキは、渡嘉敷島の北にある標高208メートルの北山とよばれる山の頂上ちかくにあります。字では、ニシウタキと呼んでいるが、この場合のニシは、北を意味する言葉です。現在北ウタキのある渡嘉敷島の北山の頂上一帯は、国立沖縄青年の家の敷地になっており、北ウタキは、この国立沖縄青年の家の宿舎の東側に、イッシピ川原の上流に当たる谷間があり、その谷間をへだてた森の頂上のやや下方の平坦地にあります。北ウタキは、字渡嘉敷のウタキであるが渡嘉敷島の住民全体が崇拝するウタキでもあり、昔は渡嘉敷間切のさまざまな年中行事のときに神女が祈願するウタキでもあったのです。
その北山に、赤松隊がやってきた。
1944年9月20日、海上挺進第3戦隊の通称「赤松隊」が特攻艇の陣地を築く。
1945年3月27日、米軍が上陸。赤松隊は特攻艇を自壊し、北山山頂の避難壕に隠れた。渡嘉敷島の住民たちは、砲弾から身を隠す場所のない北山の広場に防衛隊や駐在らの指示で集められ、ここで集団自決が行われた。渡嘉敷島では329人の命が奪われた。また赤松隊は4月から終戦後の8月にかけて20人あまりの住民や韓国人軍夫をスパイとして惨殺した。
1945年3月28日、豪雨のなか、前夜からその日にかけ、渡嘉敷の強制集団死で329人が亡くなった。
慶良間諸島では、1945年3月26日に座間味島と慶留間島で、28日に私が住んでいた渡嘉敷島で集団自決が起こりました。 渡嘉敷では320余名、これに座間味と慶留間を合わせると610余名の人たちが集団自決を遂げました。 私たちは集団自決とは言わないで、「強制集団死」という言葉を使うのですが
1951年3月28日、渡嘉敷「慰霊の日」
1951年3月28日、強制集団死の現場となった北山 (ニシヤマ) で、慰霊碑「白玉之塔」の除幕式と合同慰霊祭が行われ、毎年、3月28日に慰霊の日として慰霊祭を行うことになる。ひとびとは、慰霊碑「白玉之塔」をたてた。
ところが・・・
1960年3月22日 - ホークミサイル基地として土地接収
1951年3月22日、9年目の慰霊祭の日 (28日) を目前にして、米軍は、その慰霊の場所そのものをホークミサイルサイトとして接収する。血も涙もないな。
1960年3月8日、渡嘉敷村へ米国民政府からホークミサイル基地建設が告知される。場所は北山山頂だった。
3月22日、米民政府より土地収用が宣告され、接収命令をうける。場所は沖縄戦の集団自決跡地であるため、慰霊碑「白玉之塔」は北山 (ニシヤマ) から現在のギズ山に移設され、新しく建立された。北山の頂上が大きく削られ1,799,000㎡ の広大なミサイル基地として造成された。
1962年6月1日、ホーク基地が完成し、約250人の米陸軍兵が駐留する。
ホーク・ミサイル基地予定地/渡嘉敷
ホーク・ミサイル基地予定地/渡嘉敷
ホーク・ミサイル基地予定地/渡嘉敷
北山頂上付近は米軍によって接収され、その山の形状ががらりと変わるほど造成されてミサイルサイトとなった。
1968年1月17日、米軍の準機関紙『星条旗新聞』は毎年恒例の沖縄のホークとナイキ・ミサイルの試射訓練を報じている。
30日は2月28日までナイキヘラクレスとホークのミサイルを発射し、沖縄と渡嘉敷の沖合に点在する各バッテリーの有効性と訓練をテストします。
Stars and Stripes archives Army missile units stay ready to defend skies over Okinawa
1969年8月2日、米軍のミサイル戦略の変更によってホーク基地が閉鎖される (運用期間はわずか7年) が、遊休化した状態で、その後もそのまま米軍管理下に置かれる。
米軍が、冷戦時代の核兵器と関連するミサイルサイトを沖縄の各所で建築した後、遊休化したまま放置して、1972年の「沖縄返還」の日を迎えることになるのだが、
その時、核兵器撤去と同時に、問題となるのは、分厚いコンクリート構造物で覆われたミサイルサイトと制御センターとシェルターを、どう解体処理するかということだ。つまり、「でも、解体するの、お金かかるんだよな」by 米軍、ということだ。たとえばメース基地など、途方もない解体・原状回復費用がかかる。だから4カ所すべてのメース基地は日本に返還し、日本がその解体費用を全負担するということだろう。
日米関係(沖縄返還)37( 46・4・28 マイヤーズ・シュミッツ 米北―長 米保長 条々長 ¦ 外務省外交史料館 PDF
要は、渡嘉敷のホークミサイルサイトについては「国立沖縄青年の家」を建設し、その建設費として施設解体費用を盛り込みねん出したのではないか。
1972年5月15日、沖縄返還「祖国復帰」を記念し、「国立沖縄青年の家」建設が宣言される。しかし、ミサイル発射台やミサイル格納庫などの施設撤去には8年もの年月がかかったという。
顧みますと、開設の当初は、米軍基地の残骸がそのまま残る荒涼とした敷地を改修し、利用することから始まりました。その後、当時の文部省はじめ多くの関係者の方々の献身的な御努力によって、本日式典を挙行しております管理研修棟や浴室棟の新営工事、また、宿泊棟や食堂棟の改修工事などが完了するなど、順次施設の整備が進み現在の充実した施設になりましたが、米軍時代のミサイル発射台やミサイル格納庫などの撤去には、設置から更に昭和55年3月まで、およそ8年という長い年月を要することとなりました。
国立沖縄青少年交流の家 「国立沖縄青年交流の家創立40周年記念誌」(2013年3月27日)
1979年3月28日、曽野綾子の戦跡碑
これもある意味、悲劇である。
1972年の「沖縄復帰」により、沖縄不在の沖縄返還協定によって一方的に沖縄で進められる自衛隊配備と同時に、「沖縄戦で日本軍は悪くなかった」論が押し寄せる。
数々の差別発言*1、そして無責任発言*2で悪名高い曾野綾子は、かつて、慶良間列島の名前が覚えにくい人のためにと、「慶良間ケラケラ、阿嘉んべ、座間味やがれ、ま渡嘉敷」という歌を作って、例の『ある神話の背景』(197にのせたが、
1979年3月、その曾根綾子の碑文が刻まれた戦跡碑が渡嘉敷に持ち込まれる。
場所は北山よりもの南側であるが、曽野綾子によると、渡嘉敷の集団強制死は、軍と軍が住民に持たせた手榴弾と集合命令のせいではなく、「愛」によってひきおこされたのだという。そうなんですか。愛がホロコーストを引き起こしたりしないのと同様に、愛は集団強制死を引きおこしたりはしない。こういう過剰に感傷的な誤魔化しで歴史を塗り直しても無駄である。
3 月 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所に集結したが、翌 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。
その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。人々はトカゲ、ネズミ、ソテツの幹までを食した。死期が近づくと人々の衣服の縫い目にたかっていたシラミはいなくなり、まだ辛うじて呼吸を続けている人の目に、早くもハエが卵を生みつけた。
315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、52 名は、米軍の攻撃により戦死した。
また、この戦跡碑には、その後も赤松隊によって虐殺されつづけた住民や軍夫20名のことは書かれていない。また碑文の最期に曽野は「陣中日誌」からの引用を書き加えているが、その文章は実際には1970年に書かれたものであり、とても陣中日誌とは言えないものである*3。都合のいいことだけで感傷的な虚構の城を書きあげ、挙句にあの2005年の「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」*4へと勢いづくわけだが*5、もちろん、こうした裁判の背後には、「自由主義史観研究会」「靖国応援団」「新しい歴史教科書をつくる会」がいたという、沖縄叩きと歴史修正主義という、「沖縄返還」後の日本のダークな話が続くのである。
しかも、1960年、ホークミサイルサイトのために移設を余儀なくされた慰霊碑「白玉之塔」は、設置してまだ9年しか経っていないにもかかわらず、実は「移設」されるのではなく、「新設」され、碑文が書き直されている。米軍はもとの「白玉之塔」を保存していたが、曽野綾子の『ある神話の背景』に「過剰反応」した役場の人が打ち壊してしまったという話だ。
1993年3月28日、8年をかけたミサイルサイト解体の後、土地が返還され、渡嘉敷村は新たに慰霊碑「集団自決跡地」の碑を建立した。
米軍のホークミサイル・サイトはわずか7年しか運用されなかったが、その解体には8年もの歳月と膨大な日本の税金が使われた。「沖縄返還」後、沖縄の合意もなく、再びどっと押し寄せてくる日本の軍隊を正当化するため、日本の歴史修正主義は「集団自決」をターゲットにした。
渡嘉敷は、日本軍、米軍、そして「沖縄返還」後の日本の歴史修正主義に翻弄されてきた。
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伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020)
謝花直美『証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』岩波新書 (2008)
服部あさこ「「集団自決」訴訟における軍命否定証言の背景」PDF
*1:アパルトヘイトを擁護する発言「南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。」(産経新聞 2015年2月11日)は、国内外から強い抗議の声が寄せられたが、曾野綾子からは謝罪もなく、1800年代の分離すれども平等的な「差別ではなく区別」という根源的な差別思考を披露する。
*2:例えば、福島原発事故に関し、「放射線の強いところだって、じいさんばあさんを行かせればいいんですよ。何も若者を危険にさらすことはない。私も行きますよ。もう運転免許は失効していますが、あそこは私有地だから無免許でも構わないでしょう(笑)」「かえって元気になるかもしれません(笑)」(月刊 WiLL2011年6月号) や、「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』を忘れてしまっていませんか?」という、自分棚の発言など、あげればきりがない。
*3:伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020)
*4:沖縄集団自決、軍関与認めた判決確定 大江さん側勝訴: 日本経済新聞
*5:曽野綾子の「誤読」から始まった。大江健三郎の『沖縄ノート』裁判をめぐる悲喜劇。 - 文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』