那覇空港は埋め立てが必要なほど手狭なのか
大勢の人々が行きかう沖縄の玄関、那覇空港。
那覇空港は民間と自衛隊の軍民共用空港であるということは有名な話であるが、1本しかない滑走路をとんでもないF15の過密配備で、もう限界をとっくに通り越している。またF15の油圧トラブルの多さときたら尋常ではない。
みなさんも那覇空港の自衛隊機トラブルで延々と待ちぼうけをくわされたりしたことがあるのではないだろうか。自衛隊機のガラスの破片が滑走路に飛び散った、タイヤがパンクした、F15戦闘機が油圧で緊急着陸、等々である。
2016年1月31日からF15が40機体制に・・・。空港の内側はまさに地獄の過密状態。
部隊の新編に伴い那覇基地は既存のF15と合わせて40機体制となるほか、人員も現在より約300人増える。戦闘機数が現在より倍増するため、空の便で沖縄を訪れる観光客や周辺住民への影響も懸念される。
一本だとむりがある、ということで「那覇空港滑走路増設事業」が始まったのだが、ネトーヨの言説では、沖縄は辺野古の埋め立てはダメで那覇空港は埋めていいのかよ、などと騒ぎだす。当然だ。むろん埋め立てなど大反対である。では、なぜ埋め立てしてまで滑走路を増設しないといけないんだという疑問である。
知らない者には伝えてほしい。ご覧ください、土地ならある。ではなぜ埋め立てしなければならないほど、那覇空港は手狭なのか。
グーグルアースでみてみよう。小禄半島に広範囲に展開している自衛隊基地や米軍基地が那覇空港を圧迫している状態。いったいなぜ「沖縄の復帰」すぐ、こんな一等地に自衛隊が入り込むことができるのだろうか。自衛隊基地と米軍基地が小禄から撤収してくれれば、小禄半島の土地活用は無限大に広がり、埋め立てする必要もなかったかもしれない。
地理院タイル (標高タイル)を加工して作成
しかし、みなさんのなかには、民間地近くに滑走路をもう一本作るのは危険である、自衛隊基地なら安心だ、と考える人もいるだろう。
ならば、そういう方々のために
もっとグーグルアースを拡大してみよう。
ピラミッドですか、古墳ですか。
いえ、弾薬庫 (火薬庫)*1 です。
住宅密集地域で、すぐまわりには保育園や学校施設も見えますね、これは深刻に危険な状況ではないですか。
いざとなれば、弾薬庫やミサイルサイトは、まっさきに攻撃の標的となり、市民の出入り口が封鎖されるだけではなく、市街地に弾薬庫を抱えることで、市街地を巻き込んだ途方もない爆発事故になりかねない。
赤道ギニアの軍事弾薬庫爆発事故をみてみよう。
【2021年3月9日 AFP】西アフリカ・赤道ギニアの商業都市バータ(Bata)にある軍基地で7日に起きた爆発事故で、同国のテオドロ・ヌゲマ・オビアン・マング(Teodoro Nguema Obiang Mangue)副大統領は8日、死者が大幅に増加し、98人となったことを明らかにした。負傷者は615人に増えたという。事故では軍基地に保管されていた弾薬と爆薬が爆発。基地内の建物と周辺の住宅多数が壊滅的な被害を受けた。
なぜ、沖縄の玄関口、那覇空港が、ずらりと自衛隊基地や米軍基地に取り囲まれ、そこら一帯にミサイルサイトや戦闘機や弾薬庫がならんでいるのか。
なぜ、沖縄の「復帰」後すぐにやってきた自衛隊が、那覇空港周辺に膨大な基地を所有し、弾薬庫とミサイル・サイトまで所有しているのか。
以下、小禄半島の歴史をみてみよう。
1933年 - 日本海軍 小禄飛行場
1933年、旧日本軍により強制接収され小禄海軍飛行場が建設される。鏡水 (かがみみず) 地区から大嶺地区まで L字型の滑走路が構築された。
1944年10月10日、十・十空襲
米軍が撮影した小禄基地
5M3A - 6 撮影 1945年01月02日 「国土地理院の空中写真」より
そして、1945年6月4日、米軍が小禄半島に上陸。小禄の戦いが始まる。
1945年 - 米軍 那覇基地 (Naha AB)
1945年6月4日、米軍が小禄に上陸する。小禄の戦いが始まる。
1947年、パンナムの就航が始まる。
1953年、米軍はさらに基地を東側に拡大するため具志地区に武装兵を出動させ銃剣とブルドーザーで49,500 ㎡を強制接収。あらたに那覇空軍・海軍補助施設を作る。
1950年代後半、ナイキミサイル基地として那覇サイトが構築される。
1975年 那覇空港
那覇空港は厳密な意味で「返還」されたわけではない。軍民共用施設として、自衛隊と一本の滑走路を共有する状態となった。
1975年(昭和50年)6月27日に那覇空軍・海軍補助施設と那覇海軍航空施設が返還され、空港整備法上の第二種空港となった。
小禄半島にあった米軍基地リスト。
自衛隊にそのまま移管されたものを「返還」と呼ぶことはできるのだろうか。まだそこは厳重な柵のなかにある。多くの小禄の米軍基地は、そのまま自衛隊基地に移管されただけだ。
アメリカ軍基地(沖縄返還協定時) 備考 FAC6064 那覇港湾施設(旧称 那覇軍港) FAC6066 那覇空軍・海軍補助施設 返還協定C表: 空自 那覇基地 FAC6067 那覇サイト 返還協定B表: 空自 那覇基地 FAC6089 那覇海軍航空施設 沖縄空港 - 那覇ホイール地区 返還協定C表: 陸自 那覇駐屯地
民間地として返還されたのは金城地区など、限定的である。
戦前、日本軍が強制接収し、米軍が更に銃剣とブルドーザーで強制接収して東側に基地を拡大した。それを「沖縄返還協定」という名で、自衛隊基地にまるごと渡した。
これを「返還」というだろうか。自衛隊にとっては、戦時中の日本軍「小禄飛行場」の土地が倍返しで取得できたというだけのことではないのか。そうして、日米の両基地が並び立つ。
沖縄の「本土復帰」から 50年。
結局増えたのは自衛隊基地だったということである。
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ヤマト世から、アメリカ世、
そして今はヤマト世とアメリカ世のダブル世だ。