FAC6067 那覇サイト (Naha Site)

 

那覇サイト

米軍「那覇エアベース」に付随するミサイルサイト「那覇サイト」は、核弾頭ミサイル、ナイキ・ハーキュリーズを配備していた。1973年4月3日に航空自衛隊那覇基地に移管された。

 

1945年6月4日 - 米軍の小禄半島上陸

1945年6月4日、米軍は小禄半島に上陸する。そうしてたちまちのうちに小禄の海軍飛行場を占領し、米軍の那覇飛行場を建設する。

 

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USMC Operations in WWII  [Chapter II-9]

 

米軍は銃剣とブルドーザーで戦後も強制的土地接収を進め、小禄半島の多くが米軍基地となっていた。那覇サイトは那覇エアベースの海側に配備されたミサイルサイトを持ち、管理施設は滑走路の東側にあった。

 

 

米軍統治時代の空中写真はミサイルサイトや弾薬庫などの超機密エリアが黒塗りになっているが、那覇エアベースに関しては滑走路をはじめとして自体が黒塗りとなっている。現在は観光客でにぎわう沖縄の玄関口だが、米軍占領時代は、それだけ「ヤバい」米軍基地であった。

 

 

1972年施政権移行後の空中写真では、自衛隊へ移管された旧「那覇サイト」を見ることができる。左側の海沿いにあるのがミサイルランチャーと思われる。

 

 

那覇サイト8には、4つの発射台があり、それぞれの地下にミサイルが保管されている。通常は1発が核弾頭つきのタイプで、3発が通常弾頭タイプだ。

松岡哲平『沖縄と核』(新潮社、2019年)

 

1959年6月19日 ナイキ誤射事件

1959年6月19日、とんでもない事件が起こる。核弾頭が搭載されたナイキ・ハーキュリーズ那覇サイトで誤発射されたというものだ。核弾頭が搭載されていたかや、詳細については若干の情報の揺れがあるが*1 、誤発射された点については一致している。

 

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核ミサイル、沖縄で1959年誤発射 「爆発なら那覇は吹き飛んでいた」 | 沖縄タイムス

 

突如爆音、同僚の体切断 【証言】1959年 那覇・核誤射
2017年10月26日

整備を担当していたナイキ・ハーキュリーズのそばに立つロバート・レプキー氏=1958年ごろ、米軍那覇飛行場(本人提供)

 

58年前の6月19日。金曜の晴れた朝に、核弾頭を装着した地対空ミサイル、ナイキ・ハーキュリーズの誤射事故は起こった。緊急事態の指令の下、ある兵士が点火装置の接続に失敗し、ブースターが誤って点火。ごう音を響かせてミサイルは水平に発射され、ものすごいスピードで海に落ちた。体が切断され、血だらけの兵士、海中に沈んでいくミサイルの破片―。元陸軍整備兵、ロバート・レプキー氏(81)の証言で、沖縄県民に知らされることのなかった基地内の惨事が明らかになった。

 レプキー氏によると、那覇のナイキ基地には、東シナ海に面して2台の発射台が備えられ、少なくとも4発のミサイルが常備されていた。発射台周辺はフェンスや擁壁、丘に囲まれ、「外からは見えない場所だった」と話す。

 事故当日、レプキー氏が点火装置の接続を計測器でチェックすると、異常を知らせる小さな音がした。「接続しない方がいい」。別の兵士に伝え、発射台の前を横切り、別の機械を取りに行こうと階段を下りるその瞬間、耳をつんざくごう音が響いた。一瞬のうちに頭上を花火のような青い炎が飛んでいった気がした。

 海の方を見ると、ミサイルは海中に落下。発射台近くに、レプキー氏が「接続しない方がいい」と伝えた兵士が吹き飛ばされ、体は半分に切断されていた。「何かを言おうとしているように口を動かしていたが、既に死んでいる状態だったと思う」

 ブースターの炎でやけどを負った兵士、フェンスに吹き飛ばされた兵士。救急作業が行われる傍ら、高性能爆薬を搭載したもう1基のミサイルが運ばれ、発射準備が行われるその時、これは訓練であり「待機せよ」との指令が流れた。

 同僚の多くが亡くなり「事故のことを知っているのは、私だけかもしれない。知っていることは全て話したいと思った」と語るレプキー氏。当時の経験を通して、沖縄の人々に伝えたいことはあるかと聞くと、「ミサイルは侵略のためではなく、防衛のための配備だった。沖縄の人々を、私たちの権益を守るためだった」と語った。

突如爆音、同僚の体切断 【証言】1959年 那覇・核誤射 - 琉球新報

 

核誤射「戦争」指令で 1959年の那覇基地ミサイル事故 元整備兵が本紙に証言
2017年10月26日

 国立公文書館の人事記録センターミズーリ州)に保管されているナイキ部隊の日報では、6月19日、兵士1人が「ナイキの点火により、死亡」と表記。大惨事につながりかねない事故だったが、米軍は詳細を一切公表せず、ミサイルは海中から極秘に回収された。部隊の日報には翌日以降も通常通りの任務が遂行されたことが記されている。

 レプキー氏は当時、ミサイルの組み立てや整備を担当していた。事故後、国防総省や中央情報局(CIA)などの事故調査団から聴取を受け、事故は機密扱いであり、一切口外しないよう口止めされていた。

 冷戦当時、米統治下の沖縄では1950年代半ばから72年の日本復帰まで、米軍の核兵器が大量に配備されていた。国防総省は2015年、復帰前の沖縄での核兵器保有を初めて公式に認めた。

核誤射「戦争」指令で 1959年の那覇基地ミサイル事故 元整備兵が本紙に証言 - 琉球新報

 

県民の合意どころか、秘密裡に米軍が沖縄にもちこんだ核兵器は、その数だけではなく、その種類の多さにおいても群を抜いている。

 

【訳】1954年から1972年の間に、沖縄の基地には19種類の核兵器が置かれていました。ベトナム戦争の最盛期には、沖縄だけで約1200発の核兵器が保管されていた。2017年に機密解除された文書は、1969年に日本が米国の沖縄への核兵器持ち込みに正式に同意したことを示している。

The History of U.S. Decision-making on Nuclear Weapons in Japan - Federation of American Scientists

 

そして日本政府は米軍が沖縄に核を持ち込んでいることに同意し、利用した。

 

1973年4月3日 - 航空自衛隊に移管

那覇飛行場におけるミサイル管理施設とミサイルサイトは「那覇陸軍補助施設」という名称であったが、沖縄返還協定に伴い「那覇サイト」として名称変更され、1973年4月3日に航空自衛隊に移管された。

 

現在では、航空自衛隊那覇基地航空自衛隊那覇基地那覇高射教育訓練場となっている。

 

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