C-21 那覇憲兵隊事務所 (Naha Field Office)

那覇憲兵隊事務所は、沖縄返還協定了解覚書で返還される米軍基地リストC表に挙げられた米軍基地のひとつ。

 

沖縄返還協定「了解覚書」問題

1971年、当事者である沖縄県を素通りし、日米間で合意された沖縄返還協定とその了解覚書では、「久志訓練場など、本来は米軍が地元に個別に許可をとり、極めて短い期間内 (3日~10日など) で使用した経緯のある非軍用地7カ所を、沖縄の施政権移行後に日本政府が継続して基地として米軍に提供するA表に追加するなど、様々な問題点が浮上した。

 

C表においては、「核抜き本土並み」をうたった「沖縄返還」で、返還される米軍基地の面積は4,959,000㎡となったが、これも同様に非軍用地であった膨大な面積の「奥訓練場」 (3636,000㎡) や瀬嵩第二訓練場が占めており、後は、建物の2階を借り切った憲兵事務所までリストに書き込み、実質的な返還する予定の米軍基地リストC表の中身はかなり中身の薄い見かけだおし「水増し」((第67回国会 参議院 本会議 第5号 昭和46年10月22日))状態のものであった。那覇憲兵事務所は、建物の一部を借り切ったため、実質的には返還されるべき土地の面積として計上されることができない。

 

C-21 那覇憲兵事務所 (Naha Field Office)

名称: 那覇憲兵隊事務所 (Naha Field Office)

場所: 那覇市鏡原30

床面積: 587㎡

 

「コザ憲兵隊支署」( C 表| 8 )、「ザ憲兵隊詰め所」(同 9 )、「那覇憲兵隊詰め所」(同)の三つがそれである。これらはいずれも、コザ市那覇市の一般住民地域のど真中にあって民間アパートの一部を貸りているか、バーを改造した小さな事務所である。…

那覇市鏡原三十四七、面積五百八十七平方メートル(約百七十七坪)。三階建ての民間アパートの左側半分を全部、憲兵隊詰め所として使用しているもの。 DE 当局は、直接契約の実態を明らかにしてないため、関係者は、「直接契約が憲兵隊の詰め所など三ヵ所のほかにもあることが考えられる… 

瑞慶山茂『沖縄返還協定の研究―幻想の「核ぬき・本土なみ」返還論 (1982年) 』201頁

 

那覇憲兵隊詰所(五八七平方メートル)』は、那覇市鏡原にある民間アパートの二階の一室。CID (陸軍捜査機関)が一年前から借りているという。リスト一九番の『コザ憲兵隊詰所(床面積一一二平方メートル)』はコザ市照屋のメーンストリートに面した某ペイント店の二階。ここも CID が使用しているといい、窓は全部閉め切られ、…

牧瀬恒二『日本史の再発見としての沖縄の歴史解放新書』1971年 326頁 

 

驚いたのは那覇憲兵隊詰め所であった。私たちの訪れた時、すでに中身は移転してしまっていた。この場合、(それが米国政府が使用していた設備の)私人家主と賃貸借契約の家屋らしい。これを返すことまで、「基地の返還」などと麗々しく書き立てる意味があるのであろうか。」(要点のみ抜き書き)この文章に添えられた図面をここにのせておく。このような状態で、返還された基地は名目的には三十四か所もあるが、実質的には僅かであった。

隅谷 三喜男『沖縄の問いかけ―苦難の歴史と共生の願い』四谷ラウンド (1998/10/1) 81頁

 

 

 

 

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( 38 万 2 千)の本部補助飛行場( 182 万 3 千)石川ビーチ( 10 万 4 千)の渡嘉敷陸軍補助施設( 37 万 8 千) 2 羽地陸軍補助施設( 31 万 2 千) O 嘉手納第 4 サイト( 8 万)大木サイト( 6 万 1 千) 1 久場サイト( 8 千) 9 コザ憲兵 ©赤道サイト( 7 千) 194. 1 久場サイト( 8 千) 9 コザ憲兵隊支署(床面積 47 )コザ憲兵隊詰め所(床面積 112 )の泡瀬防空待避所( 5 万 9 千) D 那覇憲兵隊詰め所( 587 )楚辺方向探知西サイト( 1 万 2 千) 23 宮古島ロラン A 送信所( 4 万 4 千) ... 

瑞慶山茂『沖縄返還協定の研究―幻想の「核ぬき・本土なみ」返還論 (1982年) 』195頁

 

の中にあり、 MP の詰め所で、酔っぱらった米兵などを一時留置するようにつくられているもので「軍事機能」とは一切関係ないもの。以前はバーだったという。所有者の大城賢紀さんの話によると、 D E (米軍工兵隊)を通じて憲兵隊と二年前から契約、一九七一年七月一日に一年間の契約をしたというが、 DE から大城さんへの連絡によると「この詰め所は復帰後、自衛隊が自動的に使用することになっている」という。

瑞慶山茂『沖縄返還協定の研究―幻想の「核ぬき・本土なみ」返還論 (1982年) 』202頁