C-23 宮古島ロランA送信所 (Miyako Jima LORAN-A Transmitting Station)

宮古島における旧日本軍飛行場

  1. 13. 海軍石垣島南飛行場(平得飛行場・大浜飛行場) 
  2. 14. 海軍 石垣北飛行場(平喜名飛行場・ヘーギナ飛行場)
  3. 15. 陸軍 石垣飛行場(白保飛行場) 
  4. 16. 石垣島 宮良秘密飛行場

 

宮古島における米軍基地

宮古島における米軍基地の返還面積の合計は42.0ヘクタールで、全返還面積の0.4 を占めている。返還された米軍基地は、3施設。

FAC6286 宮古島ボルタック施設

B表-11→ (運輸省) 航空通信施設

FAC6287 宮古島航空通信施設

B表-12 宮古島航空通信施設 → 航空自衛隊宮古島分屯基地

B表-12 宮古島NDB施設 → 運輸省

宮古ロランA送信所

C表-23 → 海上保安庁ロラン局

 

いずれも、日本の自衛隊運輸省に移管された*1

 

宮古ロランA送信所

ロラン (Loran) とは、Long Range Navigation (遠距離航法)の略語で、第二次世界大戦中に米国が開発した双曲線航法の一種である。太平洋戦争でのロラン基地局チェーンは米軍の日本軍攻略におおいに活躍した*2

 

1942年10月、最初のロラン局が大西洋岸で業務を開始した。戦中から戦後にかけて、米国防省は軍事上の理由から北半球各地にロランチェーンを展開し、日本占領後は日本と周辺地域にロラン局を設置した。

加島篤「北九州デッカチェーンをめぐる無線技術史―中距離航行用長波電波標識の建設と運用―」(2020年) PDF

 

現在は GPS 等の目覚ましい発展により、米、日、すべてのロラン局が閉局している。

 

管理: 米沿岸警備隊

名称: 宮古ロランA送信所 (Miyako Jima LORAN-A Transmitting Station)*3

面積: 49,000㎡

 

1952年8月9日~9月14日: 調査 ELMO 7 プロジェクト

1953年8月1日: 運用開始。11月23日、建設の完了

1959年9月15日: 台風 Sarah で電信電力棟を除き基地が壊滅した。

1969年: 隊員が地元住民に刺され、退避する*4

1972年4月: 日本の海上保安庁ロラン局として移管される。

 

海上保安庁 宮古島ロランA局とDGPS局

米軍海上警備隊宮古島ロラン局が日本の海上保安局に移される。

ロラン局の閉局に伴い、ディファレンシャルGPS局が設置される。

2019年3月1日に GPS局が閉局される。

 

旧ロラン局に自衛隊が屋内射撃訓練場を建設

米軍の船舶通信施設が、移管後は結局、自衛隊射撃訓練場になるという。

 

2018年、宮古島海上保安部は城辺保良の「旧ロラン局」跡地に屋内射撃訓練場の建設を開始。

 

射撃訓練場は屋内で整備/海上保安庁 – 宮古毎日新聞社

 

旧ロラン局の敷地に重機が運び込まれた (2019年11月11日)

施設は高さ約6㍍の鉄筋コンクリート1階建て。建築面積約689平方㍍、延べ床面積約685平方㍍。事業費は約5億円。施設内では標的に向けて武器(拳銃・小銃)を使用する訓練を行い、武器や弾薬は訓練のたびに運び込むとしている。

… 保良に建設する理由について宮古島海上保安部は「職員数が200人を超え、島内で訓練する必要が出てきた」と説明。海上保安庁が旧ロラン局を所有していることも理由に挙げている。

射撃訓練場建設に着手/宮古島海保 – 宮古毎日新聞社

 

そして、保良の市街地を挟んで、陸上自衛隊の弾薬庫が市街地からわずか200mという余りにも近い場所に建設されている。

 

 

かつて保良の里には、日本軍が弾薬庫を持っていた。

 

昭和十九年二月十三日、夕方畑仕事から帰って乳を飲ませ、すこし遊んでおいでといって、夕飯の仕度をしていた。しばらくすると、部落中が地響きする様な爆弾の様な音がした。飛行機の音もきこえんのにどうしたのだろうと思っていた。

… 隊が弾薬箱を荷車につんで運んでいた様です。子守の子を使って兵隊は卵などもを買わしていた事があったし、仲良くなった子供は、その兵隊たちのあとを追って遊んでいたのです。 ごとごと押している荷車の安全ヒモがはずれ、弾薬箱が路面に落ち、爆発したのです。荷車のあとかたもなくふっとばされた現場は、道ばたの立木も黒くこげていました。現場から遠くはなれた所に、子守りと共にふきとばされて弘子はたおれていました。ぐったりした吾が子をかかえて、狂乱状態で家につれて来ましたが、 ほとんど即死だったのです。 子守の平良みつえらやんも四、 五日してなくなりました。 五人の男の子の末っ子に生れた女の子で、夫はようやく娘が出来たと喜び自分の名の弘をとって弘子と名づけ自から髪の手入れをして女の子らしく育てるのだといってオカッパにしてやったり、オシロイをつけてやったり、たいへんなかわいがり様だったのです。娘が死んだ翌日、夫が帰って来ました。寝がえりをうちながら弘子弘子と呼びつづけるのです。やけ酒を飲み、墓に通いつづけるのです。気がふれた様になって、それがもとで、病の床にふし、 二十年五月には夫も死んでしまいました。

シゲマツ、村山という二人の兵隊も即死したが、生き残った南軍曹という人が後日見舞に来て耳はきこえなくなり自分みたいに不具者 (ママ) になるよりはよかったかも知れないと慰めていた。いくら慰めても死んだ幼子は帰って来ない。

沖縄県

 

歴史から学ぶことをしない日本では、まるで歴史が螺旋を描いて続いていくように見える。

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*1:沖縄県知事公室 基地対策課「沖縄の米軍基地」(平成15年12月)183頁

*2:ロラン局の展開について

しかし、ロランが戦争の勝利に直接最大の貢献をしたのは太平洋戦争でした。太平洋の距離は膨大です。アメリカ軍が西に移動するにつれ、ハワイの海に点在する小さな島々や環礁の多くに飛行場が建設されました。第二次世界大戦の航空機の多くは航続距離が限られていたため、着陸と燃料補給を頻繁に行う必要がありました。天体観測によるナビゲーションは、天候が許す場合にのみ可能であり、さらに、ナビゲーション以外は飛行機でほとんど何もしない高度な訓練を受けた男性が必要です. 長時間の訓練が必要なため、特に陸軍航空隊の飛行機に搭乗する天体航法士は非常に不足していました。ゆえに、ロランは燃料補給に必要な使いやすく正確な航行システムと飛行場を提供しました。
日本への集中爆撃は、航空機が往復するのに十分な距離に航空基地が確保されるとすぐに始まりました。正確な航行は、精密爆撃だけでなく、大量のガソリンの備蓄の代わりに最大の爆弾搭載量を運ぶためにも必要でした。ローランシステムは、この正確なナビゲーションの手段を提供しました。第二次世界大戦の終わりまでに、75,000 を超える受信機を使用して運用中の航空機や船舶のニーズに応える 75 の標準ローラン ステーションがありました。1950年代に日本海域と東シナ海域をカバーしました。

ロラン基地の乗組員の規模は、場所によって多少異なります。彼らは平均して約15人の男性を抱えています。ステーションは完全に自給自足である必要があったため、送信機の操作と保守を行う電子技術者に加えて、コック、病院の衛生兵、損害管理員、エンジンマンが配置されていました。各ステーションは、通常は中尉 (ジュニア グレード) である下士官が指揮し、次官は下士官でした。将来の指揮官は、配属前にロランと管理に関する短い訓練コースを与えられました。ロラン基地の指揮は、ほとんどの場合、若い沿岸警備隊将校の最初の独立した任務であり、彼がリーダーシップの資質を示す絶好の機会を提供しました. 他の多くの若者は、孤立のためにロランの義務を恐れ、しかし、それが終わった後、彼らのほとんど全員がそれが十分に価値があったと感じました. 孤立した駅では、勤務期間は 1 年間でした。ロラン基地の大多数は、年に 1 度か 2 度寄港する沿岸警備隊の補給船によって、燃料、かさばる予備部品、大型の必需品を供給されていました。大規模なコミュニティの近くに配置されていない限り、ロランの基地は、沿岸警備隊の飛行機によって郵便物、人員、新鮮な店、および緊急スペアパーツを受け取りました. ほとんどの駅には独自の滑走路がありました。ロラン基地は、沿岸警備隊の飛行機によって郵便物、人員、新鮮な店、および緊急スペアパーツを受け取りました。ほとんどの駅には独自の滑走路がありました。ロラン基地は、沿岸警備隊の飛行機によって郵便物、人員、新鮮な店、および緊急スペアパーツを受け取りました。ほとんどの駅には独自の滑走路がありました。

Loran-A

 

*3:Agreement with Japan Concerning the Ryukyu Islands and the Daito Islands, Signed at Washington and Tokyo on June 17, 1971

*4:Loran Station Miyako Jima