14. 海軍 石垣北飛行場(平喜名飛行場・ヘーギナ飛行場)

海軍 石垣北飛行場「平喜名飛行場」

日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうちの3カ所は石垣島に計画された。

13. 海軍石垣島南飛行場(平得飛行場・大浜飛行場) 

14. 海軍 石垣北飛行場(平喜名飛行場・ヘーギナ飛行場)

15. 陸軍 石垣飛行場(白保飛行場) 

16. 石垣島 宮良秘密飛行場

宮良秘密飛行場をあわせると合計16カ所となる。

 

平喜名飛行場の建設

海軍の石垣北飛行場は、またの名を、平喜名 (ヘーギナ) 飛行場飛行場、第一石垣飛行場と呼び、500㎡ほどの正方形型で、おそらくは臨時の離発着用として構想された小飛行場であった。滑走路は対角を使用した。

 

場所: 八重山郡大浜村平喜名 (現沖縄県石垣市真栄里)

面積: 横500m 幅550m

 

防衛研究所収蔵・第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」(昭和19・11)

 

現在は「独立行政法人国際農林水産業研究センター」として使用されている。

 

石垣島には昭和8年(1933年)、すでに小型機用の簡易飛行場が設定されていた。通称はヘーギナ飛行場(大浜村平喜名)であったが、後に平得に海軍南飛行場が建設された時点で北飛行場と命名された。昭和19年(1944年)1月8日、佐世保鎮守府から「航空基地整備要領」が命令され、ヘーギナ飛行場(海軍北飛行場)の拡張工事と平得飛行場(海軍南飛行場)の新設工事を並行して着工した。ヘーギナ飛行場(海軍北飛行場)の滑走路は一辺500㍍の飛行地区を設けて、離着陸には対角線を利用するという小規模なものであった。
沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書(平成16年).」40頁

 

佐世保航空隊の石垣島派遣部隊 (通称、観音寺部隊) が駐屯、拡張工事や壕の建設などを監督。宮良川上流の南側岸面に石垣島でも最大規模の壕が2つある。「三連結壕」と、「ヘーキナー壕」、また農林水産業研究センターの北側に現在も「電波探知機壕」が残る*1

これらの壕の構築作業は、平喜名飛行場の建設の際に連れてこられた朝鮮人をはじめ平得地区の住民も徴用されたという。聞き取り調査では壕掘りの作業は主にツルハシによる掘削作業が行われ、昼夜交代制で軍の監視下で進められたとのことである。

沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅵ八重山諸島編 p. 46

 

平喜名飛行場への攻撃

昭和19年(1944年)10月10日午前10時頃、何処からともなく「本日午前6時頃より那覇市は空襲中」との報が伝わり、同日夕刻には「那覇市は灰燼に帰した」との噂が拡がったが、詳細の公表はなかった。超えて12日には初めて空襲があった。午前8時35分頃バンナ岳の北上空より平喜名飛行場へ向かって、4機の飛行機が空襲を行った。

沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書(平成16年).」31頁

 

Plan showing Miyako Jima and Ishigaki Jima, the two largest islands in the Sakishima Gunto group of islands, the targets for the British Pacific Fleet during Operation ICEBERG. There were 3 airfields on each island: Nobara, Hirara & Sukama on Miyako Jima and Ishigaki, Miyara & Hegina on Ishigaki Jima.

日本語訳: 先島群島群の中で最大の 2 つの島である宮古島石垣島が、ICEBERG 作戦中の英国太平洋艦隊の標的となった計画を表す。各島には、宮古島の野原、平良、洲鎌、石垣島の石垣、宮良、ヘーギナの 3 つの飛行場がある。

Royal Navy Research Archive: 1841 Naval Air Squadron

※ 計画地図では西表島にも軍の飛行場があると示されている。

 

平喜名飛行場の戦後

終戦後、接収された土地は国有地のまま、農地として利用される。その後1970年に農林省熱帯農業研究センターが置かれ、1993年に農林水産省国際農林水産業研究センターとなった。

 

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*1:沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅵ八重山諸島編 p. 46