11. 陸軍宮古島中飛行場 (野原飛行場)

陸軍 宮古島中飛行場 (野原飛行場)

日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうち三カ所の飛行場が宮古島にあった。

10. 海軍 宮古島飛行場 (平良飛行場)

11. 陸軍宮古島中飛行場 (野原飛行場)

12. 陸軍宮古島西飛行場 (洲鎌飛行場)

今回は、陸軍宮古島中飛行場「野原飛行場」を扱う。

 

1943年 - 土地の接収

1943年 (昭和18年) 頃から土地接収が始まる。一方的な軍命令による接収で、土地に売買契約もなく地代もなかった。物件補償も一部現金で支払われることもあったが、ほとんどは強制貯金に回され、紙切れとなった。

 

陸軍中飛行場は、字野原の地で、所有者117人から約115 ㌶の土地を接収し、逆八の字型の滑走路2本、東側1700m、西側1400m、それに6km の誘導路と25 の掩体壕が建設された。(『みやこの歴史』より)。陸軍中飛行場の建設にあたっては、第 205 飛行場大隊、要塞建築第8中隊が関わっており、陸軍西飛行場と並行して作業が進められ、1944年5月に着工し、10月には完成している。

山口直美、久貝弥嗣「戦史資料にみる海軍飛行場と陸軍中飛行場の利用」

 

陸軍の接収に関し

土地代は形の上ではもらいました。だが、強制的に凍結貯金ですね。未だ、実質的支払いというのはうけていません。戦後は、境界線もはっきりしないまま、大体の検討で、開こんし、小作料を払って耕作しているんですがね。

戦争証言 宮古島 ( 1 ) - Battle of Okinawa

 

学童から老人まで、厳しい徴用だけではなく、軍の食糧供出まで強いられた。

昭和十九年五月に中飛行場の工事が始まり六十一歳の父が作業に 行っていた。 老人では体がもたんというので、私も病弱な体だが父と代って滑走路の整地作業に徴用された。資材の運搬作業で、馬車班として、自家用の荷馬車もろともの徴用です。 強行作業で夜は家にも帰さず、あかりをつけて夜明けまでの作業はつらかった。 あなたの島の人々を守るためだと言われ文句 も言えない。

戦争証言 宮古島 ( 2 ) 戦時下の保良部落

 

日本陸軍中飛行場戦闘指揮所内部(上野村野原)

沖縄県沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅴ宮古諸島編」(2005) 

 

 

無差別爆撃の開始と解析

軍の二つの飛行場を標的にするだけではなく、次第に島への激しい無差別爆撃が始まる。

十九年 (1944年) 三月以後は特に空襲がひどくなり、部内にも無差別爆撃 が始まりました。焼夷弾が落ちると、あっという間にカヤぶきの家など焼けてしまう。 兵隊たちはそれを消すのを手伝おうともしない。

戦争証言 宮古島 ( 2 )「ありがためいわく」な時代 

 

戦時中の宮古島には3カ所の飛行場と6本の滑走路があった。中央が現在の宮古空港となっている海軍飛行場、左上が上野野原の陸軍中飛行場、右上の来間島近くにあるのが陸軍西飛行場。

米軍空中写真を展示/「慰霊の日」平和展始まる – 宮古毎日新聞社

 

英国海軍資料から、野原飛行場の空中写真とその解析。

大日本帝国海軍航空隊が運営する宮古島の野原飛行場は、2 本の滑走路がつながっていない珍しい構図で、飛行場が分かれているように見えます。

1841 Naval Air Squadron

1944年12月23日に米軍が空中写真から制作した爆撃用資料。

Records of the U.S. Strategic Bombing Survey = 米国戦略爆撃調査団文書

 

特攻隊の出撃

作戦変更の都合によって宮古の飛行場が本格的な航空作戦に利用されることなく終戦を迎えた。陸軍中飛行場からは、誠114飛行隊、誠116飛行隊の10人が特攻隊として出撃し犠牲となっている。

陸軍中飛行場は、特攻隊の燃料補給や整備の為の中継地としての役割があった。陸軍中飛行場からの特攻隊出撃は 2 回、誠第 114 飛行隊と誠第 116 飛行隊で、不帰の兵隊は 10 人(知覧特攻平和会館の資料による)、最年少 17 歳~26 歳までの若者であった。日中、激しい爆撃を受け、穴だらけになった滑走路の修復は、夜を徹しての作業となり、山砲兵第 28 連隊をはじめ戦車第 27 連隊第 3 中隊や特設警備隊第 210 中隊、輜重兵第 28 連隊等、其の他多くの住民も駆り出され、翌日には飛行機の飛来を可能にしたとのことである。

(山口直美、久貝弥嗣「戦史資料にみる海軍飛行場と陸軍中飛行場の利用」

 

英国海軍太平洋艦隊の攻撃

宮古島石垣島の攻略は英国海軍太平洋艦隊が主導した。

先島群島群の中で最大の 2 つの島である宮古島石垣島が、ICEBERG 作戦中の英国太平洋艦隊の標的となった平面図。各島には、宮古島の野原、平良、洲鎌、石垣島の石垣、宮良、へぎなの 3 つの飛行場がありました。

1841 Naval Air Squadron

日本の飛行場、おそらく野原。TF-57 からの航空機によって砲撃されています。主滑走路の右側には多数の護岸が見えており、画像の左中央にある樹木が茂ったエリアは、日本軍がどのように航空機を隠すことができるかを示しています。多数の爆弾クレーターが地形に点在していることから判断すると、この画像は ICEBERG の終わりに向かって撮影されたものですが、繰り返しになりますが、ターゲットを何度も攻撃する必要があることを強調しています。写真:シェパード紙

NAVY BLUE FIGHTER PILOT — Episode Three — Vintage Wings of Canada

 

1945年 - 米軍「宮古島航空通信施設」

日本軍が周辺の土地を強制接収し建設した陸軍宮古島中飛行場 (野原飛行場) は、戦後、滑走路部分について、耕作が許可され、農地に戻った*1。しかし米軍は、滑走路東側の野原岳周辺、日本軍もやはり幾つかの電波探知機壕を建設したあたりを米軍基地「宮古島航空通信施設」として利用した。

 

野原岳の米軍の巨大なラドーム。

Miyako Air Station Radomes on the hill, Detachment 1, 623rd AC&W Sq, Miyako Jima, Japan 1957

623d Air Control Squadron - Wikipedia

 

1973年2月15日 - 空自「宮古島分屯基地」に移管

沖縄返還協定に基づき、1973年2月15日に自衛隊に移管され、航空自衛隊那覇基地宮古島分屯基地となった。また、上水道施設や畜産センターなどが建設されている。

 

自衛隊への引継ぎ

623rd AC&W Sq, Det 1 Reversion Ceremony 15 Feb 1973

 

2019年3月26日 - 陸自宮古島駐屯地」とミサイル基地

 

2015年、防衛省陸上自衛隊駐屯地として野原の千代田カントリークラブを、弾薬庫射撃場として北部の大福牧場を候補地として指定した。島の貴重な地下水源が守られないとして、住民の反発は大きかったが、下地敏彦市長は「千代田」に受け入れを表明。

2017年10月から、住民の反対を押し切って工事が着工された。空洞や断層もある石灰岩の軟弱地盤の地下に100トン級燃料タンク7基を埋没、住民には弾薬庫は設置しない説明しながら弾薬庫を建設、密かに中距離多目的誘導弾が搬入されていた、など数々の問題が明るみになった。2021年5月12日には、1月に落選した前市長下地敏彦とカントリークラブ当時社長が収賄容疑で逮捕された*2

 

現在の「野原飛行場」

「野原飛行場」滑走路があったとされる推測位置。英国海軍空中写真から。

  1. 青ライン - 野原飛行場の2本の滑走路跡 (推測位置)
  2. 南側 - 中飛行場戦闘指揮所跡
  3. 右側 グレー - 航空自衛隊宮古島分屯基地
  4. 右側 赤枠 - 野原岳・大嶽城跡公園戦争遺跡群
  5. 左側 緑 - 陸上自衛隊宮古島駐屯地
  6. 中央 - アリランの碑

 

1. 野原飛行場滑走路跡

野原飛行場の日本の滑走路は戦後消滅したと思われる。

 

2. 中飛行場戦闘指揮所跡

一部、林が残る地帯に1944年10月5日に突貫工事で完成させた戦闘指揮所跡が残っている。中飛行場第一滑走路と第二滑走路の交差地点にある。

 

3. 航空自衛隊宮古島分屯基地

戦後、米軍基地「宮古島航空通信施設」として使用され、1973年2月15日 - 空自「宮古島分屯基地」に移管される。新里宿舎と野原宿舎を含む。

 

4. 野原岳・大嶽城跡公園戦争遺跡群

野原飛行場の東側に南北にのびる野原岳には、数多くの日本軍施設と壕が設営された。この野原岳・大嶽城跡公園戦争遺跡群には、司令部壕や兵舎、電波探知機壕、発電施設、また御真影奉護壕など数々の地下壕が掘られている。現上記の航空自衛隊宮古島分屯基地内にある。

 

5. 陸上自衛隊宮古島駐屯地

宮古駐屯地のカメラ「市民監視でない」防衛省が説明 - 琉球新報

2019年3月26日、旧野原飛行場の跡地に陸上自衛隊宮古島駐屯地が新設された。また同時に、これに付属するものとして南端の保良地区に覆道射場と弾薬庫を含む保良訓練場が建設された。

 

6. アリランの碑

大陸から沖縄に移駐した日本軍はまた数多くの慰安所も沖縄に持ち込んだため、部隊ののそばに住んでいた住民の多くが慰安婦たちを目撃している。2008年、宮古島慰安婦について証言している地元の住民のなかの一人が、土地の一画を提供し、アリランの碑を建てた。宮古島には、野原、豊原、下里、福山、地盛、宮原、野原越、盛加、下北、比嘉、花切、国仲、仲地で慰安所が開設されていた*3

 

宮古島のいま

宮古島ルポ 自衛隊ミサイル基地に抗う島人たち(週刊女性PRIME)

 

空撮 保良弾薬庫/基地建設現場(動画) - simazima ページ! (jimdofree.com)

 

いったん軍事基地となれば、世代を超えて軍事施設として再利用されていく。日本軍 → 米軍 → 自衛隊という弧を描いてまた基地が増殖する。「沖縄返還協定」、「SACO」、「嘉手納以南の基地返還計画」等、返還という言葉で報道されつつも、多くの場合は移管、移転、増設であったりする。その歴史を知らなければ、なぜ沖縄が基地に反対しつづけているのかを理解することは難しいだろう。

 

ミサイル基地や弾薬庫が建設強行され、そして2022年12月16日に閣議決定した国家安全保障戦略など安保関連3文書によってミサイルの「反撃能力」を承認、「適地」を攻撃するミサイル配備へと*4、ミサイル基地建設が強行されている宮古や石垣など島の安全はさらに不安定なものとなっている。

 

防衛省は保良地区に弾薬庫を設置、さらに大がかりな予算をかけて弾薬庫を創設するという *5

 

かつて日本軍は保良地区に軍の弾薬庫を置いていた。その爆発事故で幼児をふくむ4人が亡くなっている。

 

娘が死んだ翌日、夫が帰って来ました。寝がえりをうちながら弘子弘子と呼びつづけるのです。やけ酒を飲み、墓に通いつづけるのです。気がふれた様になって、それがもとで、病の床にふし、 二十年五月には夫も死んでしまいました。・・・ いくら慰めても死んだ幼子は帰って来ない。ガタピシの悪い道路を危険物を運ぶのに子供たちを遠ぎける事さえしなかった。部落のまんなかに弾薬を入れる壕を掘るくらいだから。

戦争証言 宮古島 ( 2 )主婦 - 弾薬庫の爆発事故

 

日本はふたたび同じことをこの島でやっているのではないか。

 


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