12. 陸軍宮古島西飛行場 (洲鎌飛行場)

陸軍 宮古島西飛行場 (洲鎌飛行場)

日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうち三カ所の飛行場が宮古島にあった。

10. 海軍 宮古島飛行場 (平良飛行場)

11. 陸軍宮古島中飛行場 (野原飛行場)

12. 陸軍宮古島西飛行場 (洲鎌飛行場)

今回は3つ目の陸軍「西飛行場」を扱う。

 

1944年5月 - 西飛行場の建設開始

1943年から日本軍の5回にわたる駐屯で陸海約3万人の兵士が宮古島にやってきた。軍は住民に半ば強制的に疎開を進め、宮古島の住民約6万人のうち1万人は台湾などに疎開した。

1943年頃から土地接収が始まる。一方的な軍命令による接収で、土地に売買契約もなく地代もなかった。物件補償も一部現金で支払われることもあったが、ほとんどは強制貯金に回され、紙切れとなった。陸軍西と中の飛行場は1944年5月に工事開始された。

老人から女性、学童まで総動員で飛行場建設に徴用された。

 

昭和19年5月、下地に陸軍の飛行場作りの作業が始まった頃です。町役場から徴用令状が来ました。区長の所からとどけて来た令書には5月15日、午前八時、西飛行場へ集合、ツルハシ、スコップ、毛布、針、糸、弁当、その他身のまわり品等持参する事と書いてありました。戦時下だし、女子が作業に行く事も致し方ないとしても、毛布も持って来いという事は何を意味しているのだろう、夜は慰安婦の役をさせるのだと泣いていました。

戦争証言 宮古島 ( 1 ) - Battle of Okinawa「女子報皇隊員」

五月になって、下地の西飛行場作業に父が徴用され連日の作業で、過労のすえ体の調子を悪くしてしまった。父の代りに作業に出る事になった。西飛行場作業現場まで徒歩で行く。時間に間に合って行くのに午前の三時には起きねばならない。… 反抗したとなぐられるにきまっているからだまってしかられる。当時、日当はあったが、債券、貯金にまわすといわれ、手にとった事はない。自分の家の家畜類を売ってさえ、強制貯金をさせていた時代だった。

戦争証言 宮古島 ( 1 ) - Battle of Okinawa

 

昭和十九年四月、 二年生になって一般教課の授業はほとんどなくなりました。軍事教練のない日は農業の時間が主となり、[月になると、海軍飛行場の作業に動員され、続いて下地の陸軍飛行場作りにかり出されました。そこにあったはずの農家はすでにこわされて徹去させられていたし、屋敷あとの石垣をくずす作業から始まり、モッコで低地にある指定された畑へ、石運びをしました。

県立宮古中学校の学徒兵 - Battle of Okinawa

 

1841 Naval Air Squadron

1944年12月23日に米軍が空中写真から制作した爆撃用資料。

Records of the U.S. Strategic Bombing Survey = 米国戦略爆撃調査団文書

 

使われない飛行場

それにもかかわらず、作戦変更の都合で宮古の飛行場が本格的な航空作戦に利用されることなく終戦を迎えた。洲鎌飛行場は地図で見るように地形的に難があるため、利用されなかった。

 

陸軍西飛行場については、正面に来間島がひかえていることから、ほぼ利用されることがなかった。

山口直美、久貝弥嗣「戦史資料にみる海軍飛行場と陸軍中飛行場の利用」

 

工事が急速に進められ、多数の老若男女が作業に動員され、更に陸軍部隊が次々進駐して、街にカーキ色が氾濫するようになって、一般郡民の間には次第に戦局の前途に容易ならざるものを感知するようになった。

 

一九四四(昭和十九年五月に、下地村与那覇の西陸軍飛行場、同野原の陸軍中飛行場建設が開始された。これは防諜上も緊急な工事で、八月以降は飛行場設営隊(玉木少佐)も投入され、昼夜兼行の突貫作業が強行された。しか機動力がなく、ツルハシとスコップ、モッコという非近代的な作業のため、工事の進捗は思わしくなく、学童までも動員されている。そして10月5日には一応の完成を見た。

 

西陸軍飛行場は1250メートルの滑走路と5キロの誘導路、28個の駐機場があったが、雨あとのぬかるみや、正面に来間島を控えて地形上の離点があり、ほとんど使用されなかった。この西飛行場に関しては、『宮古島建築兵始末記』(野口退蔵著)の中で、「西飛行場は出来上ったが、ぬかるみと風向きの悪さ、それに正面に来間島が、台湾を縮め格好で控えていて、飛行機の発着には不便だった」と述べている。

平良市史 第一巻 (1979年) 486頁

 

目の前に来間島があることぐらいは、わかりきっていたことだが、軍は昼夜兼行で人々に滑走路を造らせ、使えない飛行場に加えられる激しい爆撃に耐え、修繕し続けた。

 

 

1944-45年 - 飛行場への攻撃

1945年10月10日午前7時30分、十・十空襲でも、宮古島に建設された3カ所の飛行場から応戦する機体が飛びたつことはなかった。9機が撃破され、飛行場は大きく損傷したが、軍はそのたびに滑走路の補修を命じた。

 

カナダ空軍飛行士の記録から

先島群島にある日本の飛行場。滑走路に爆弾による損傷が見られますが、画像はおそらくICEBERGの初期段階で撮影されたものです。TF-57 には夜間飛行能力がなかったため、日本軍は通常、夜間に滑走路を修理することができ、航空機は毎日同じ目標に戻ることを余儀なくされました。

NAVY BLUE FIGHTER PILOT — Episode Three — Vintage Wings of Canada

 

昭和19年(1944年)10月10日から敗戦に至るまでの10ヵ月の間に1日平
均50機余の連合国軍空軍機が飛来している。その数字は延べ5,250機。昭和20年(1945年)4月1日沖縄本島に米軍上陸後は宮古島攻撃はさらに激化し同月だけで695機が飛来し、多い日は1日で延べ140機による空襲を受けた。攻撃目標は港湾、飛行場にとどまらず周辺離島の来間島多良間島にいたるまで爆撃による被害を受けている。

沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書」平成16年3月 p. 30.

 

現在の陸軍西飛行場

西飛行場のおよその位置。国道390号線から来間島に渡る一直線の道路が、ほぼ陸軍西飛行場滑走路跡に位置する。また来間島にも壕やたこ壺と銃座が建設された。

 

 

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