海軍 南大東島飛行場
日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうちの一つは日本海軍が南大東島に建設した飛行場である。
南大東島と北大東島は、日本の私企業 「大日本製糖」 のプランテーション型植民地支配から、土地闘争のすえ、米軍統治時代の1964年に土地の払い下げが行われた。
その点で、同じ大東諸島でも、私企業「ラサ工業」による独占的土地所有のまま米軍基地となって今に至る「沖の大東島」とはまったく異なる歴史を歩む。
1900年 - 南大東島のプランテーション
1900年、アホウドリで巨万の富を築いた八丈島出身の玉置半右衛門*1が、今度は一転して大東諸島の開拓を開始。「入植者には30年後には現地の土地を与える」との約束のもとで入植者を集めたが、実際には、独自紙幣から、商店、学校に至るまで全島が玉置商会の管理下に置かれ、入植者は島から出ることを禁じられた。実質的な「シュガー・プランテーション」であった。半右衛門の死後、1918年に玉置商会は東洋製糖会社へ南大東島を売却、さらに1927年には、東洋製糖が大日本製糖に吸収合併され、企業による全島支配が続いた。
1944年9月 - 海軍「南大東島飛行場」の建設
1944年9月、海軍が南大東島飛行場を建設する。
1944年11月作成の「第三航空艦隊司令部 南西諸島航空基地一覧図」から
米軍の空中写真による南大東島飛行場の解析
米国海軍: Copy of uncontrolled mosaic map of Minami Daito Jima, Daito Shoto, Ryukyu Retto. Taken by Fleet Air Photo Interpretation Squadron 2 on 31 December 1944.【和訳】 南大東島の未調整のモザイク地図。艦隊第2空中写真解析部隊によって、1944年12月31日に撮影。
Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6
この島に部隊が来たのは、最初は昭和十六年ごろで、海軍の飛行場を建築したわけです。作業人夫として朝鮮人がたくさん来島しました。慰安所もあり、慰安婦が六人ぐらいいました。毎日トウガラシを取りにきたので党えています。慰安婦は朝鮮人のほかに沖縄本島から来た人もいました。工事は、海軍の警備隊のほかに、川砂の土木関係の人たちもきていて、警備隊が朝鮮人労務者を指揮して働かせていました。こちらの青年団も動員されて、そのほかにもだいぶ多くの人たちが飛行場設営に出ています
南大東島の中央に、今では使われなくなった空港の滑走路があります。「旧南大東空港」です。平成9年 (1997年) まで、島で唯一の空の玄関口でした。東西に伸びる滑走路はもともと昭和9年 (1934年) に日本軍が建設したものです。太平洋戦争末期、軍はこの滑走路のさらなる拡張を計画しました。昭和19年 (1944年) 7月にサイパンが陥落したあと、日本軍は、南大東島の要塞化を進めました。島には多くの弾薬などが持ち込まれ、岩の切れ目には、アメリカ軍機の来襲に備え、速射砲が隠されていました。滑走路の建設には、ダイナマイトも使われ、作業が急ピッチで進められたといいます。昭和19年から20年にかけて、島はたびたび艦砲射撃や空襲を受け、滑走路は、完成することなく終戦を迎えました。新しい空港の開港とともに、かつての滑走路はほとんどが取り壊され、村営住宅が建設されました。
【場所】旧南大東空港の滑走路は、島のほぼ中央にあります。旧南大東空港の旅客ターミナルは、今は、島にあるラム酒の工場として使われています。
南大東島に関する最近入手された文書には、戦争の終結段階が詳細に説明されています。現在、島には約1,300人が住んでいます。1945 年には、戦略的な飛行場を守るために 7,000 人の兵士がそこや近隣の島々に駐留しました。
A Little-known Battle Station in Okinawa | NHK WORLD-JAPAN News
ここでも滑走路は完成せず、その本来の目的で使用されることはなかった。
後でアメリカの将校が云っていましたが、南大東島には特攻機が四○機ばかり待機していると考えていたようです。実際には飛行機は一機もいなかったんです。
南大東島の沖縄戦
日本軍の飛行場があったために、南大東島の空襲は激しいものであった。また、1945年6月9日の沖大東島爆撃、10日の南大東島爆撃は、ナパーム弾などの新型兵器の実験として2日間で97.55トンの爆弾と46発のナパーム弾が使用された。
(米軍資料によると)「VT(近接)信管付き爆弾で高射砲陣地を爆撃するという目的と、様々な種類の目標物に投下方法を変えてナパーム弾を落としてみるという目的があり、その結果、規模が拡大した」と記載し、「両日の作戦は訓練・実験として非常に有益だった。敵施設の破壊という大きな副産物もあった」と評価している。
戦後 - 南大東島の土地闘争
南大東島は、戦後も全島を大日本製糖株式会社が所有し、住民には土地の権利がなく、プランテーションが続いていたが、もともと、沖縄島などから開拓農民を募るにあたって、30年間従事すれば土地所有権を認めるという入植時の取り決めをもとに、住民は1951年から1964年の13年間、土地闘争を展開した。
最終的に米国民政府キャラウエイ高等弁務官の仲裁ということで土地の払い下げが行われ、1964年7月30日、住民は悲願の土地権利を手に入れた。1977年にはキャラウェイの記念碑が建立された。
米軍統治下の圧政の象徴的存在であったキャラウェイは、大東島では英雄的歓迎を受ける。戦前から続く本土企業のプランテーション支配から人々を解放した、と、南大東島でのキャラウェイは別の意味での旋風となった。米国民政府広報局はここぞとばかりに歓迎と笑顔の写真を多数記録した。
USCAR広報局: High Commissioner Tours Minami Daito Island.【和訳】 南大東島を訪れる高等弁務官 南大東村 1961年 6月 8日 キャラウェイ高等弁務官(左)
USCAR広報局: High Commissioner Tours Minami Daito Island.【和訳】 南大東島を訪れる高等弁務官 南大東村 1961年 6月 8日 キャラウェイ高等弁務官(左)
旧・南大東島飛行場と現・南大東島飛行場
島の中央にある旧日本海軍がもともと建設した空港は、整備され、戦後も利用されたが、1997年に島の東海岸側に現在の南大東島飛行場が建設された。
1963年滑走路などが整備され、翌年12月には、滑走路1200mに整備しYS-11型機が就航した。しかし1972年、本土復帰に伴い日本国の航空法が適用されたことで、進入表面が同法の規定に抵触するため、滑走路を短縮して運用される形となり、1974年に、滑走路800mで供用開始した。これまで那覇間に、デ・ハビランド・カナダ(現ボンバルディア)のDHC-6型機が就航していたが、悪天候や横風の影響を受けやすいため、欠航が多かった。そのため機材の大型化に対応する新空港として移転整備し、1997年に現空港を供用開始した」(国土交通省大阪航空局)
2004年、旧滑走路にラム工場(株式会社グレイスラム)が設立された。
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