海軍 喜界島飛行場
現在の喜界島空港は、もともとは1931年に日本海軍が建設した飛行場で、太平洋戦争では前線基地として、また特攻機の中継基地として使用された。
1931年、海軍が不時着用飛行場として建設。
1943年、島民を総動員し滑走路を拡張、東西と南北、各1,000mの滑走路を有する。
喜界島模擬飛行場
米軍の喜界島への空爆が激しくなると、軍は北部の志戸桶集落の海岸にもう一つの飛行場を作った。模擬飛行場であり、竹とわらで編んで作らせた模擬飛行機を並べ、吹き流しを立てデコイとして攻撃させ、その間に喜界島飛行場から特攻機を出撃させるというものであった。
日本軍と慰安所
喜界島に駐留していた陸軍の独立混成第22連隊第3大隊(隊長 田村道之助少佐)では、将兵の鋭気培養のため喜界島当局に慰安所の設置を求めた。だが町は協力しなかったようで、田村少佐は町長に、軍に非協力的だと暴言を言って威嚇したという。すると軍が今度は西平守俊氏(本籍は沖縄、住所は喜界町)に命じると、奄美大島から13名の女性達が連れてこられ、田村部隊本部隣の滝川集落西南方に慰安所が設置された。営業利益は軍に寄贈されたという。慰安所の経営者5人は西平氏を始め、全員が喜界島赤連に現住所がある人達だった。だが折角設置した慰安所も軍が「色より食を望む」状態のため、あまり活用されなかったようだ。慰安所が設置された場所は、城久と滝川の間の松林がある窪地だった。・・・彼女達が相手にするのは、田村部隊の幹部達だった。喜界島の慰安所については、上級指揮官が慰安所の女性を独占し公舎に出入りさせたり、空襲の際に女性を連れて我先に退避したりして、部下から嘲笑されるということもあった。
特攻機の中継基地としての喜界島飛行場
1945年、沖縄戦に向かう特攻機や戦闘機のための給油や整備を行う中継基地としての役割を担い、陸海軍双方が使用した。
奄美群島の喜界島(きかいじま)は、鹿児島本土と沖縄本島の中間に位置する。そのため先の大戦の末期は沖縄防衛の中継基地と位置付けられ、海軍航空基地が造られた。そして、鹿児島の知覧から飛び立つ特攻機の整備・給油地ともなった。喜界島観光物産協会によると、特攻隊員が飛行する前、島の娘たちはテンニンギクを贈ったそうだ。その種が落ちて根付き、やがて飛行場周辺に咲いた花は、「特攻花」と呼ばれるようになった。
特攻の生還者
特攻機は機体本来の問題に由来する故障や、敵機攻撃による破損のため帰還することが少なくなかった。レーダーを駆使し特攻対策を強化した空母に対して「体当たり」するどころか、そこに近づくことすらが困難な状態であった。機体自体の問題も大きかった。
つまり生産機数が落ちているだけではなく、できあがった飛行機の質も著しく低下していたのだ。
1945年4月7日 - 第13振武隊の出撃
1945年4月7日、喜界島飛行場を発った第13振武隊は、徳之島上空でグラマン機の攻撃をうけ大きく機体を損傷する。
徳之島に不時着した大貫健一郎少尉らは、そこから喜界島を経由し、福岡市の振武寮に収容される。振武寮では、生きているはずがない特攻の生き残りとして、日々罵倒され侮辱と精神的苦痛を強いられる隔離収容所生活を送る。
振武寮で、アル中の「神経露出狂」というあだ名をつけられた倉澤参謀は、戦後このように語っている。
【注】話の状況をわかりやすくするために当ブログで括弧を挿入しています。
「『 (倉澤が) 年齢若くして参謀なんかになったため特攻隊員にならず、我々素人 (学徒) を特攻隊用に大学から引っぱって (特攻させて)、筋が違うのではないか』という態度が、露骨には言わなくても、消えなかった。 だから、これは悪口ではないけれど、(大学に行き) 法律とか政治を知り、人の命は地球より重いと分かってしまうと、死ぬのが怖くなるんです。それを世間常識のないうちから、(人間を) 徹底的にマインドコントロールして洗脳すれば、自然にそういう人間になってしまうのです」
喜界島の占領計画
基地建設計画は、当初の計画から沖縄島を中心に据えるようシフトした。
沖縄上陸前の最初の案では、米軍基地、なかでも飛行場建設予定地として、他の島も占領することになっていた。すなわち、沖ノ大東島、久米島、宮古島、喜界島、徳之島などが、アイスバーグ第3期作戦で占領を予定し、そこに戦闘機やB29やレーダー建設をすることになっていたが、時がたつにつれ、偵察して見て、これらの島のなかには、目的に適しないところもあることがわかり、占領は中止された。ただ、久米島だけが、6月26日に占領された。これは航空基地用としてではなく、沖縄群島の対空電探を強化するためであった。(445頁)
1945年1月2日時点での Iceberg Phase III における喜界島上陸計画。実際には上記の理由で実行されることはなかった。
Iceberg Phase III
(米軍は)「チャーリー」「エーブル」「ベイカー」と三つの作戦地図を作成して各部隊に配布。航空撮影とみられる戦術用地図には、集落の地名や攻撃の指定方向などが事細かく記されていた。地図によると、赤連地区を「ビーチレッド」、湾地区を「ビーチグリーン」、志戸桶地区を「ビーチイエロー」、早町地区を「ビーチブルー」などとしている。
エーブル計画は、早町地区方面などから艦艇で連隊を送り込み、百之台周辺を経由して前進する。チャーリー計画は湾、赤連、池治地区方面などから艦艇で上陸する戦略であった。米軍は徹底した喜界島情報の収集、分析を行い、地図を作成していた。リストに「17 May 1945」などと書かれているのは作戦開始日だったとみられている。
沖縄守備隊第32軍の参謀らは組織的戦闘の終焉を5月15日頃と予想していたが、米軍も同様の予測を立てていた。
米軍の作戦図によると、喜界島への上陸開始日は5月17日。沖縄南部がほぼ壊滅する時期であった。喜界島攻略図は三つあり、色別された漁港などから主陣地帯に前進する計画だった。航空撮影によって島内の各陣地や兵器、弾薬庫、無線施設などが調べ上げられ、攻略目標となっていた。
激しい爆撃を受ける喜界島飛行場の滑走路
米国海軍: Aerial view of Kikai Jima during bombing attack.
砲撃を受ける喜界島。1945年5月5日
喜界島の戦後
武装解除
米軍は鬼界ヶ島 (Kikaiga-Jima) とも記載している。
米国陸軍通信隊: A 15cm gun emplacement atop Hill #465. As on the previous islands visited by the Northern Ryukyus Task Group, all military equipment on Kikaiga-Shima had to be inspected. Whatever equipment had been previously recorded by Intelligence was dismantled (1945年10月6日)
Hill #465 の頂上にある 15cm 砲の砲台。北琉球タスクグループが訪問した以前の島々と同様に、鬼界ヶ島でもすべての軍事装備を査察する必要があった。以前に諜報機関によって記録された機器はすべて解体された。1945年10月6日。
米空軍が撮影した喜界島飛行場。激しく爆撃された滑走路に注目。
喜界島事件
米軍は戦争捕虜を保護するジュネーヴ条約に基づき捕虜としてとらえた日本兵を処遇したが、一方で捕虜に対して徹底して「生きて虜囚の辱しめ」の概念を叩きこまれた日本軍は、時として捕らえた敵国捕虜に対しても非常に残虐に扱った。こうした捕虜に対する日本軍の虐待・処刑は米国国内の激しい怒りを招いた。東京裁判において、連合国側は日本軍の捕虜の虐待と処刑に関して非常に厳しい判決で臨んだ。
1945年4月11日、米海軍の艦載機が撃墜され一人の米兵が捕虜となった。輸送に関して「適当に処置せよ」との指示が来たため、吉田政義大尉が現場で指揮を取り、谷口鉄雄大尉が斬首した。さらに5月10日に捕獲された捕虜も、村民の面前で大島宗彦大尉によって処刑された。戦犯裁判では、佐藤勇少佐は死刑、大島宗彦大尉が懲役7年、木田達彦大佐と吉田政義大尉が懲役40年、処刑実行者の谷口鉄雄大尉が死刑(再審で無期懲役)となった*1。
現在の喜界空港
海軍「喜界島飛行場」は T字型の2本各1000kmの滑走路であった。現滑走路位置北側に加え、現在かなり良い状態で保存されている掩体壕のあたりまで滑走路が伸びていたと思われる。
戦闘指揮所跡(せんとうしきしょあと)
掩体壕(えんたいごう)
震洋格納壕跡(しんようかくのうごうあと)
特攻花(とっこうばな)
爆弾釣鐘(ばくだんつりがね)
著者は東京で生まれ、尋常小学校2年生で両親の古里、喜界島に移り住んだ。島には既に海軍航空隊の不時着飛行場ができていた。沖縄戦で特攻基地となり、飛び立つ特攻機を見送った。米軍の上陸による地上戦こそなかったが、奄美諸島の中でもこの島に空襲が集中した。銃爆撃、焼夷弾投下による襲撃対象は滑走路だけでなく、村落にも及ぶ。総戸数4051戸(約1万6600人)のうち1910戸が被災、120人が亡くなった。
今月、日米の合同訓練の舞台となった喜界島の現状が、(著者の) 大倉さんには、戦前の状況と重なって見えるといいます。「喜界島の場合は、不時着飛行場の建設から始まった。それがすべて後の災難のもとでした。台湾有事を理由に、いまあちこちで基地の拡大が進んでいますよね。どこかで歯止めをかけないと。」
基地化された島は必ず敵の標的になる。その時、住民が軍に「守ってもらえるかな」と楽観論に身をゆだねる人々は、現実を直視するため、まず歴史から学ぶことから始めるべきだろう。
大規模な日米共同訓練が初めて行われた喜界島では、大勢の地元の人たちが訓練の様子を見ていました。
このうち20代の女性は「訓練が行われることに不安もありますが、いざというときには守ってもらえるのかなと思います」と話していました。
一方、60代の男性は「訓練が米軍と一緒にやると聞いて驚きました。喜界島を戦場にしないでほしいと思います」と話していました。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■