陸軍 徳之島北飛行場「浅間飛行場」
日本軍が建設した飛行場
16 海軍喜界島飛行場
17 陸軍徳之島北飛行場
18 陸軍徳之島南飛行場
1944年11月の日本海軍による記録では、徳之島北南飛行場 (瀬滝飛行場)は「徳之島第二飛行場」と記されている。
米軍が鹵獲した日本軍資料の翻訳ヴァージョンでは、滑走路1500mx200mという第二滑走路の図が示されているが、地図の位置はかなり大雑把である。
Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases. Report No. 3-d(54), USSBS Index Section 6
しかし、戦史叢書によると、徳之島南飛行場は、北飛行場 (浅間飛行場) の南側の天城町瀬滝に計画されていたことがわかる。
戦史叢書第36巻「沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦」45 ページ
徳之島には浅間の飛行場の他に現天城町の瀬滝集落にも飛行場が建設されている。徳之島南飛行場(瀬知滝飛行場)である。南飛行場の建設経過は不明な点が多い。『徳之島町誌』によると44年2月、第75飛行場中隊が建設を開始したとなっている。だが南飛行場の設定準備が命じられたのは5月2日、さらに同中隊が徳之島に到着したのは6月11日のことである*1 。実際に工事が始まったのは5月か6月と考えるべきだろう。
この頃南西諸島全体では13個の飛行場が建設されていたが、大本営は作業の遅延している6箇所の工事を一時中止した*2。この中に南飛行場も含まれていた。南飛行場は僅か1、2ヵ月弱で工事中断に追い込まれたのである。その後工事が再開されたのかどうかは不明だが、沖縄戦で使用されたが北飛行場のみであることから、未完成のまま放棄されたものと思われる。
6月12日から、中隊は瀬滝集落の住民が移住した跡地で、立木を倒したり、整地したりの土木作業を開始した。昼食は弁当持参で、1日を現場で過ごした。雨の日は作業が休みで、生徒の授業が終わるまで隊員は廊下で待機していた。(『山県隊の記録』5頁)中隊が学校を使用していたのは夜の間で、昼間は生徒がこれまで通り授業をしていたようだ。
沖縄に米軍が上陸する気配を見せると、陸軍第6航空軍は徳之島や喜界島を中継基地として3月29日から沖縄攻撃を開始した。だが米軍は飛行場へ昼夜を問わず空襲を行ってその使用を妨害し、前進する日本機を途中で戦闘機で迎撃して前進を阻止した。そのため4月6日頃からは徳之島からの出撃はほとんど不可能となった。さらに徳之島は対空砲部隊が配備されていないため米軍機の跳梁を許し、輸送機で何回か爆弾を空輸したことからも分かるように、飛行場の整備も充分でなかったようだ。最終的には13日の井戸田参謀の視察の結果、徳之島は不時着基地として使用し、海軍の対空砲部隊のある喜界島はまだ活用の余地あると判断された。以降徳之島は陸海軍共に沖縄攻撃の行き帰りに使用する不時着基地として敗戦を迎えるのである。
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