日本統治時代の台湾における日本軍飛行場
台湾の玄関口、台北国際空港「松山空港 (しょうざんくうこう) 」は、もともと日本統治時代の1936年に建設された「台北飛行場」であった。
日本軍は台湾統治50年のあいだ、日本の植民地モデルとして台湾のインフラ建設に熱中しそれを内外に誇ったといわれている。こうした日本統治時代の建造物は、台湾の総統府から街の市場に至るまで随所で現在も見ることができる。
台湾の総統府は、東京駅と同じ辰野式ルネッサンス建築で設計された。現在の建物は蒋介石時代に復元・再建されたもの。
沖縄戦当時、米軍が鹵獲した日本軍資料の英訳版によると、1945年の時点 (日本統治時代) で台湾に接収、建設、あるいは建設予定されていた飛行場は、陸・海軍と民間あわせ、その数70カ所という、驚くべき数である。*1
台湾北部の飛行場
台湾南部の飛行場
DIGEST OF JAPANESE AIR BASES: SPECIAL TRANSLATION NUMBER 65, CINCPAC CINCPOA BULLETIN NO. 112 - 45, 12 MAY 1945, pp. 33-34.
日本軍は台湾を要塞化した。
阿里山には軍事基地を作っていたんです。というのも、阿里山は台湾に上陸された時に最後まで戦う場所として想定されていました。
米側またも訪台。「台湾有事」危機の高まりで振り返る78年前——終戦記念日に考えてほしい台湾統治のこと(田中美帆)Yahoo!ニュース
1944年10月12日~16日 - 台湾沖海戦
1944年10月12日から16日にかけ、米海軍は台湾沖航空戦で台湾から沖縄にかけてのこれらの日本軍航空基地を攻撃した。沖縄の十・十空襲はその作戦の一部であった。
1944年10月5日、ニミッツは米第3艦隊司令長官ウイリアム・ハルゼーに対し「台湾の軍事施設と港湾施設に恒久的損傷を与えよ」との命令を下した。フィリピン奪還に向け周辺の制空権・制海権を確保するためであり、台湾だけでなく沖縄、フィリピン北部も攻撃対象だった。10月10日、米軍は沖縄本島と周辺の島々の日本軍拠点を空爆*2。11日にはフィリピン諸島を攻撃し、翌12日、米第3艦隊は台湾に延べ1378機の艦載機を投入して高雄、台南、屏東、台東などに大空襲を展開した。さらに13日には台湾北西部の新竹飛行場や鉄道施設を攻撃、14日にも攻撃を続行した。日本海軍の第二航空艦隊は12日、約90機の航空機を出撃させ、台湾東方海上の米第3艦隊への攻撃を開始した。台湾沖海戦である。しかし、雲に視界を遮られ、逆に米艦の対空射撃を受けて出撃機の過半を失い、台湾守備に当たる航空機はほぼ壊滅状態に陥った。
しかしその敗北は大本営内部でも共有されることはなかった。
1944年(昭和19年)10月、敗色濃い日本に報道された台湾沖航空戦の大戦果。日本国民は驚喜にわいたが、後日、まったくの誤報と判明する。大本営海軍部は事実を事前に把握しながら陸軍部に伝えず、戦局は混乱して多くの犠牲者を出す。なぜ誇大戦果が生まれ、真実は隠ぺいされたのか。その後、どのような悲劇を生んでいったのか。関係者の証言と史料をもとに検証し、大本営という組織の構造的問題を浮き彫りにする。
沖縄守備軍第32軍にも、その「勝利」が伝えられた。
台湾沖の大航空戦の赫々たる戦果に気をよくした大本営は、関係各部隊にそれぞれ感状を授与した。
八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年・2015年。
特に日本軍拠点の多い台湾の地域は徹底的な絨毯爆撃をうけ、壊滅する。
主な攻撃目標は台湾軍(日本軍)の基地がある嘉義、台南、高雄。11月に入ると空の要塞と言われたB-29爆撃機がフィリピンから飛来し、波状的に空爆を繰り返した。…
1944年11月17日 - 第9師団 (武部隊) を沖縄から台湾へ
大本営は、沖縄守備軍第32軍の主力部隊であった「最強師団」第9師団 (武部隊) を沖縄から台湾へと転出させ、第32軍はその1/3の兵力を失う。
実際には、台湾の部隊がフィリピンに転用されたため、大本営と第10方面軍が、そのあとに沖縄から引き抜いた1個師団を持って来ようとしたのであった。しかも大本営は、沖縄沖縄から抽出した兵力の補填を約束し、台湾に引き抜かれた第9師団の後に姫路から第84師団を第32軍に入れると内示しておきながら、それを一日で撤回するという始末であった。
沖縄を見捨てるのか !
私は師団司令部の暗号担当でしたので、その時の様子を窺い知ることが出来たのです。参謀本部から電報で「最強師団を抽出して台湾に移駐させよ」という内容だったと思います。第32軍では、「一兵も出さぬ、沖縄を見捨てるのか。(参謀が卓を叩いていた ) 」という強い返電だったと記憶しています。軍と参謀本部だか第十方面軍 (台湾軍)との電報の応酬だったか、結局は参謀本部の命令に従わなければならなかった。
軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)「幸運の武兵団第九師団 (沖縄・台湾)」 pdf
この後、沖縄の第32軍は、従来の水際撃滅戦法という攻勢主義から、沖縄島を作戦参謀八原のいうところの「寝技戦法」の土俵として利用する作戦へと変更する。
沖縄でアメリカ軍に出血を強要しできるだけ長く戦わせる、これが八原のねらいであった。沖縄を、いわば本土決戦のための「捨石」にしようとしたのである。
大本営の予測と異なり、米軍は台湾をスキップして沖縄に上陸する。最終的に、第九師団は太平洋戦争では一戦も交えることなく台湾で終戦を迎えることとなる*3。
台湾疎開という矛盾
大本営は、このように米軍の台湾上陸を想定し、沖縄から第九師団を引き抜いてまで台湾上陸に備えたが、一方でそれと矛盾するように、沖縄から台湾へ多くの疎開民も送りこんだ。
サイパン陥落後の1944年7月7日の緊急会議で、8万人を日本本土へ、2万人を台湾へ疎開させることを決定する。なぜ上陸戦が予測されている台湾に女性や老人や子どもたちを疎開させるのかを考えれば、そこに疎開政策の真の意図が見えてくる。つまり、沖縄に10万人もの兵士を送り込み、食料を確保するため、非戦力である10万人の沖縄人をどこにでもよいから (危険を承知で) 移動させる必要があったのだ。
次の侵攻目標が南西諸島となることが予想されたことから、日本政府は南西諸島の老幼婦女子10万人の疎開(九州へ8万人、台湾へ2万人)を決定し、沖縄県知事に命令しました。沖縄県は現地の日本軍と協議し早急に学童疎開を進めることとし、7月19日に「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令しました。すでに沖縄近海には米軍の潜水艦が出没する危険な状況になっており、沖縄・鹿児島間の海域では、対馬丸を含めた疎開船などが米潜水艦の攻撃で沈没し、多くの被害者が出ました。
6月23日、沖縄島で第32軍の最後の司令部壕が陥落し、組織的な戦闘が終わった後ですら、日本軍は米軍が上陸することのなかった八重山諸島で強制疎開を続行する。7月3日には尖閣諸島戦時遭難事件「一心丸・友福丸事件」がおこった。こうした背景には、民間人を排除し軍の食糧を確保するという、一貫した日本軍のエゴ体質があった。
1944年当時、八重山の人口は約3万3千人ほどだった。そこに、独立混成第45旅団を中心に陸海軍の部隊合わせて約8千人の軍人が移駐してきた。人口がいきなり25%ほども増加したため、島の生活は困窮し始め、特に食糧が大きな問題となった。
台湾への激しい空爆
台湾は日本軍の飛行場や軍需工場が多数あったため、上陸こそなかったものの、激しい絨毯爆撃をうけ、多くの命が奪われた。
(1945年) 3月9日には人口ダム湖・日月潭の発電所を破壊し、4月にかけて北部の工場や駅を攻撃、さらに高雄、台南、新竹、花蓮の軍需工場への攻撃を繰り返した。そして5月31日午前、連合軍は約3時間におよぶ台北大空襲に踏み切り、台北中心部の軍事施設、官庁街、日本人の住宅街などに約3時間におよぶ猛爆を加えた。死者は約3000人、負傷者や家を失った人は数万人に上るとされている。この爆撃で、日本の台湾統治のシンボルである台湾総督府は建物の右半分が破壊され、無残な姿をさらした。
台湾疎開
日本統治時代の台湾、植民地主義と重層的差別。台湾人、沖縄人、日本人、そして台湾先住民に対しては、米国の先住民隔離 (居留地) 政策と同化政策を模倣した*4。
元は士族の家系だった朝清さんは台北で、出自に対する差別を目の当たりにした。日本人は1等国民、琉球人(沖縄県人)は2等国民、台湾人は3等国民-。石垣島では見えにくかった差別意識が、生活の中にあからさまに入り込んでいた。
本土人から沖縄人に対する差別はそれはもうたいへんなものでした。
戦後の「琉球難民」
昔から台湾と宮古島や八重山諸島の交流は強く*5、疎開者だけではなく多くの沖縄系移民が暮らし、先島諸島を中心に親族や縁者も多かった。
台湾にいた沖縄出身者は約3万人。就職や学業のために移民した人、戦時中に疎開した人、米軍侵攻を前に南洋群島から引き揚げて台湾にたどり着いた人、軍人・軍属とさまざまだった。
45年9月末時点の沖縄からの疎開者は計1万2939人で、このうち親族など頼る先がなく集団疎開した「無縁故」疎開者は8570人。多くが宮古島や石垣島など先島諸島の出身だった。台湾での疎開先は佳里などの「台南」が2564人で最も多かった。…
郷土史家の詹評仁氏によると、44年11月~45年12月、佳里の隣町、麻豆(台南市麻豆区)では、沖縄からの疎開者321人のうち33人が死亡している。死亡率は1割という高率。黄さんの記憶とも重なる、疎開者の悲惨である。
1945年10月17日 - 中華民国軍の上陸
日本の敗戦後、台湾に上陸したのは米軍ではなく、中華民国軍であった。こうして50年の日本にわたる帝国主義、植民地支配は終わった。
僕らはその光景を目の前で見ましたが、彼らは沖縄人に対しては暴力は振るいませんでした。彼らは沖縄人を「琉球人(琉球ラーン)」とよび、「琉球人は台湾と同じなんだ」という理由で「琉球人には仕返しはしないが、日本人(ジプラーン)には恨みを返す」といって本当にたいへんな光景でした。もう無警察状態ですから、日本の人々は逃げ回るしかありませんでした。本当にたいへん気の毒でした。
1945年11月1日 -「栄丸」の遭難
1945年11月1日、台湾で沖縄の疎開者が乗りこんでいた引揚船「栄丸」が基隆沖で遭難した。主に宮古島出身者100人以上が犠牲になったといわれている。
宮古島の三カ所の飛行場建設で土地を奪われ、強制疎開で台湾に送られ、かつ米軍占領下の沖縄人の帰還だけが見通しもなく放置された。そのため粗悪な船に大勢の沖縄の疎開者が殺到し、犠牲となったが、遺族には国からの補償も何もなかった。
栄丸の遭難は、戦争中のことではないので、何の補償もされていません。直接弾丸にあたらなかったというだけのことであって、国の政策にしたがって (宮古島での日本軍の飛行場建設のために) 土地をとられ、台湾に強制疎開させられた。戦争は終っても国が引揚げのめんどうをみてくれないので、自力で帰えろうとして遭難したのです。戦争の犠牲者であることには変りはないはずです。母の立場からすれば昔から住みなれた家も屋敷も知もとられ、そのうえ夫と二人の娘を同時に失ったのだ。せめて母が生きているうちに、以前の土地だけでも返してもらいたかった。母は悲しみのあまりろくに外出もせず、数年後に死んでしまいました。
1946年2月21日 - 台湾引揚げの開始
1946年1月、今や中華民国となった台湾で捕虜収容所に収容されていた日本兵の復員が始まり、2月には一般の日本人の引き揚げが始まった。しかし、同じ占領下でも、米軍統治下の沖縄への帰還は許されていなかった。台湾に縁者のいない沖縄からの疎開者は餓死者も出るほどの困窮した生活を余儀なくされた。
記録によると、輸送が始まったのは高雄の1946年2月21日が最初だったと見られる。この時には軍人軍属家族の4人が高雄を発した。最大の輸送基地となった基隆では3月2日の軍人軍属家族138人、花蓮は4月1日の遺族留守家族343人が最初となった。
第1期は、基隆からは20万23人、高雄からは6万4,702人、花蓮からは1万9,380人が日本へと向かった。その後、1949年8月まで6期に渡って輸送が行われた。
そうして台湾を出発した船は、数日かけて長崎県佐世保港、広島県大竹港、和歌山県田辺港などへと到着した。ただし、中には船内で疫病罹患者が発生し、海上で何日も停泊を余儀なくされたものもあったようだ。上陸後は、列車へと乗り継ぎ、各自の目的地へと向かった。
そして、日本による50年間の帝国主義植民地支配と太平洋戦争が終焉した後、台湾にやってきたのは、更なる弾圧と言論統制の日々であった。1947年2月28日には、蔣介石の国民党によって2万人以上が虐殺されたという。
2・28大虐殺事件は死傷者が数千人あるいは1万人、さらには3万人ともされる悲劇だ。国民党が関係資料を破却したため、今日に至るも分からないことが多い。財団法人二二八事件紀念基金会は、淡水にあったイギリス領事館の記録文書、南京の歴史的文献資料なども含めて丹念に集めた証拠や聞き取り調査をまとめ、2006年に500ページ強の『「二二八事件」研究報告』を発表した。
日本人にとって、夏は60カ所を越える都市空爆や沖縄戦、原子爆弾の惨禍に思いをはせ、首を垂れる季節である。しかし、かつて日本の国の一部だった台湾と台湾人が被った甚大な被害に思いを寄せる人は、今日いったいどれほどいるだろうか。
沖縄も台湾も、外来勢力に翻弄され、過酷な歴史を歩んだ。それは『戦後』の一言では片付けられない。そして最大の犠牲者はいつも、逃げ場のない子どもだった。
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Map Resource: Formosa City Plans - Perry-Castañeda Map Collection - UT Library Online
*1:
空港探索ブログ さんによる日本統治時代の台湾の各飛行場のまとめ。
- 台北飛行場跡地
- 宜蘭飛行場跡地
- 桃園飛行場跡地
- 湖口陸軍演習場跡地
- 新竹飛行場跡地
- 鳳山飛行場跡地
- 台中(公館)飛行場跡地
- 台中(西屯)飛行場跡地
- 旧鹿港陸軍飛行場跡地
- 嘉義(陸軍)飛行場跡地
- 屏東(南)飛行場跡地
- 屏東(北)飛行場跡地
- 高雄(岡山)飛行場跡地
- 佳冬飛行場跡地
- 澎湖島(猪母水)飛行場跡地
- 馬公旧飛行場
- 台南(南)飛行場跡地
- 台東(北)飛行場跡地
- 東港水上機基地跡地
- 桃子園(左營)飛行場跡地
- 花蓮港飛行場(北)跡地
- 台南北(永康)飛行場
- 麻豆飛行場跡地
- 小港(西)飛行場跡地
- 潮州(西)飛行場跡地
- 恒春飛行場跡地
- 花蓮港新(花蓮南)飛行場跡地
- 淡水飛行場(水上機)跡地
- 埔里臨時飛行場跡地
- 埔里飛行場跡地
- 草屯飛行場跡地
- 北斗飛行場跡地
- 里港(北)飛行場跡地
- 小港東(大寮)飛行場跡地
- 卓蘭飛行場跡地
- 高雄(苓雅寮)水上機基地跡地
- 八塊飛行場跡地
- 大崗山飛行場跡地
- 後龍飛行場跡地
- 上大和(南)飛行場跡地
- 新化飛行場跡地
- 燕巣(岡山東)飛行場跡地
- 大肚山飛行場跡地
- 宜蘭(西)飛行場跡地
- 大林飛行場跡地
- 北港飛行場跡地
- 旗山飛行場跡地
- 池上飛行場跡地
- 苗栗飛行場跡地
- 平頂山(內埔,老埤)飛行場跡地
- 金山飛行場跡地
- 苓雅寮飛行場跡地
- 彰化(鹿港東)飛行場跡地
- 台中(東)飛行場跡地
- 潮州東飛行場跡地
- 台北南(板橋)飛行場跡地
- 虎尾飛行場跡地
- 龍潭(西)飛行場跡地
- 紅毛飛行場跡地
- 林田飛行場跡地
- 塩水(鹽水)北飛行場跡地
- 塩水(南)飛行場跡地
- 新社飛行場跡地
- 桃子園水上機基地跡地
- 台中西(豐原西)飛行場跡地
- 鹽埔(新圍)飛行場跡地
- 台東(南)飛行場跡地
- 宜蘭(南)飛行場跡地
- 二林飛行場跡地
- 歸仁飛行場跡地
*3:軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)「幸運の武兵団第九師団 (沖縄・台湾)」 pdf