日本軍が沖縄に建築した飛行場

 

日本軍が沖縄に建築した飛行場

大本営は沖縄に15箇所の飛行場を命じた。

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日本軍が沖縄に建設した15の飛行場 

 

※ 宮良秘密飛行場を入れると 16カ所になる。

 

※ また、沖縄県平和祈念資料館によると、沖縄戦当時の沖縄の飛行場として、宮良秘密飛行場を除き、次の3カ所を加えて18カ所としている*1

 

沖縄「不沈空母」構想の根源的な破綻

沖縄の日本軍はこれら15もの飛行場を、土地の強制接収から始まり、学徒、女性、老人、朝鮮人軍夫を徴用し、牛馬、モッコや担ぎ棒、食糧に至る物資の供出まで、過重な負担を地元に強いて建設させた。なぜか。

 

モッコと担ぎ棒で壕の構築に動員される八重山農学校女子部の学徒

沖縄県 沖縄戦継承事業チャンネル 八重農(女子)学徒隊  - YouTube

 

1942年6月のミッドウェー海戦において惨敗した日本軍は、多くの航空母艦や航空機を喪失し、以後の戦況を立て直すことができなかった。そのため大本営沖縄の島々に多数の飛行場を建設し、島を「不沈空母」となして地上から航空作戦を展開するという構想に願いをかけた*2

 

ただ飛行場を多く作ればよいというトップダウン型作戦の破綻。

… 航空作戦準備の要領は、努めて多数の飛行場を建設するとともに、これを有機的に集約連接し、一面敵の攻撃力を分散し、わが兵力の消耗損害を防ぎ、他面わが防空を確実にし、指揮運用を敏活ならしめ、兵力機材の移動集結を容易ならしむるにあった。だが航空優先主義が徹底した反面、多くの弊害を生ずるに至った。島嶼、適地があれば全部飛行場にしてしまう。伊江島のような小島に大飛行場を造るかと思えば、沖縄島には至る所、多数の飛行場を建設する。そこには守勢に立った場合、いくばくの地上兵力をもって、いかにしてこれを確保するかの顧慮に欠けていた。ただ無闇に飛行場を多く造ればよいといった、がむしゃらな考えが横行する。

八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年

 

沖縄守備軍「第32軍」は、もともとこれらの飛行場建設のために創設されたものだった。また小禄の海軍もしかりである。しかしながら、これまで見てきたように、この15の飛行場のほとんどが、使用されないまま、あるいはほとんど使用されないまま、破壊命令がくだされ、あるいは放棄されて退却した。そうしてそれをまた奪還するための「逆上陸」命令がくだされるなどして、その度におびただしい人命が奪われた。第32軍の作戦参謀八原博通はこう後述する。

 

従来の太平洋の戦いでは一生懸命に多数の飛行場を造ったが、わが方がこれを使用するに先立ってアメリカ軍に占領される場合が多い。まるで敵に献上するために、地上部隊は汗水垂らして飛行場造りをやった感が深い。しかも一度敵に占領されると、今度は敵に使用されぬために、わが地上軍は奪還攻撃を強行し、多大の犠牲を払い、玉砕する始末であった。南西諸島における航空基地構成についても、右のような不満があったが、軍は忠実に任務を実行した。ところが、軍指揮下の飛行場建設に任ずる部隊の多くは飛行場勤務に任ずるのが専門で、建設専門の部隊が少なかった。使用器材も円匙、十字鍬に類する原始的なもので、人力主体とならざるを得ない。そこで勢い、島民を大々的に動員した。その数は徳之島約二千、沖縄約二万五千、宮古約五千、石垣約三千に達した。各飛行場とも、市民、学生の勤労奉仕者が雲集して作業する光景は壮観であり、またわが島を守らんとする県民の心意気がしみじみと感ぜられた。この人海戦術と軍民の熱意とにより、牛歩の如く遅々としながらも、各飛行場はどうやら概ね計画通りにできあがりつつあった。

八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年

 

15の飛行場の多くが、完成するかいなかで破壊命令が下された、あるいは未完のまま放棄された飛行場である。

 

また、これら15の飛行場は、上陸した米軍に接収されるやいなや、即座に再造成、拡張され、米軍の飛行場として使用された。馬やモッコや担ぎ棒ではない。大型ダンプや破砕機やフットローラーが縦横無尽に稼働した。

 

1945年4月1日の接収から一か月後の嘉手納飛行場

米国空軍: Construction of Kadena airstrip on Okinawa, Ryukyu Retto, by men of the 1878th Engineer Aviation Battalion.【和訳】 第1878工兵航空大隊隊員による嘉手納飛行場建設工事。嘉手納  1945年 5月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

日本は「戦争をしてはいけない」ということも道理だが、日本は今でもその本質において、いくら膨大な予算をつぎ込んでも、国民に犠牲を強いる以外にまともに/まともな「戦略」のない国である、ということは知る必要のあることだ。

 

その最大の理由は、民主主義と人権という概念を真の意味で理解しておらず、現場の声に耳を傾けるどころか、現場の声から学び、現場の声を生かすことの大切さを理解していない惰性の権力主義がまかり通っているということだ。現場を知らないものが、命令を下す。フィードバックがなく、常に上からの至上命令をこなすことが命題となる。合理性より官僚主義。無理難題な命令であればあるほど、御上 (おかみ = 天皇、朝廷、政府、官庁、主君((広辞苑))) 声に従い犠牲を払うことが美徳とされる。そんな国は真の意味で「戦いに勝利する」ことはできない。置き場もないのに閣議決定オスプレイやイージス・アショアをFMS購入する例を挙げるまでもない。まさにコロナとの戦いで、置き場のない布製アベノマスクに税金をつぎ込み続けるようなものである。

 

作戦も勝算もないまま、ただただ本土決戦を先延ばしにするため、沖縄島の南端まで島と住民を「捨て石」にした沖縄戦。その作戦参謀であった八原博通は日本軍の高級将校を「感情的衝動的勇気はあるが、冷静な打算や意志力に欠ける。心意活動が形式的で、真の意味の自主性がない」と批判するが、彼自身が、国体という非合理な様式にとらわれ、沖縄と沖縄県民を殲滅させた沖縄戦の作戦参謀だった。軍への批判はあれども、彼の手記には自身の自己検証はない。

 

旧・日本軍飛行場から米軍基地となるが、既に返還されたもの

 

旧・日本軍飛行場から、再び自衛隊基地となったもの

 

現在も米軍基地のままの旧・日本軍飛行場

 

旧軍飛行場用地問題

復帰前の沖縄島は実に27.2%が米軍基地として占有されていた。米軍は、沖縄島の広大な土地を占有しているだけではない。また同時に、ほとんど利用されていない地所ですら、握ったまま返還しようとしないことで悪名高い。

 

しかし、それと同じほど、あるいはさらにたちが悪いのは、戦争中の混乱に乗じて土地を強制接収し、ろくに代価も支払わず、その後の途方もない戦禍に巻き込んでおきながら、さっさと占領地として相手に差しだし、27年後に施政権を手に入れるやいなや、その土地は「国有地」だ、と主張し、返還しない事だろう。

 

つまり、沖縄の米軍基地の国有地は、その多くはもともと私有地で、旧日本軍が戦時目的で取得したことで国有地になりました。その結果、米軍に取得された土地のように、軍用地使用料が支払われることはありません。

§1-2 - 琉球政府の時代

 

石垣市は国有地の無償譲渡を求めている

… 用地接収に際しては地主との話し合いはなく、軍関係者と関係町村長、部落会長、その他の代表者を八重山警察署に招集して説明会がもたれ、軍の一方的な指示により村役場において書類が作成されたと聞いております。

石垣空港における国有地の無償譲渡を求める要請決議 

 

自衛隊駐屯地を建設するため国有地が利用される。

沖縄県石垣市平得(ひらえ)大俣地区で工事が進められている陸上自衛隊石垣島駐屯地(仮称)の建設用地を巡り、石垣市が建設予定地内に保有している市有地と旧石垣空港跡地(同市真栄里)の国有地との交換を検討していることが分かった。旧石垣空港跡地はもともと、日本軍が戦時下に約百二十人の地主から接収した旧海軍平得飛行場用地の一部で、元地主らはこの交換案に強く反発している。 

石垣市、国有地と交換案 陸自基地予定の市有地 元地主ら猛反発:東京新聞 TOKYO Web

 

土地を強制接収し、返還せず、いまだに基地建設に有利に利用しようとしている点において、米軍と日本政府はさほど変わりがないのである。

 

それに関しては、また時間のある時にまとめてみたい。

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