沖縄にあった日本軍の司令部壕
陸軍 第32軍司令部壕
海軍 海軍司令部壕
- 小禄の司令部壕 1945年6月13日陥落
第32軍司令部壕 (津嘉山)
1944年3月22日 第32軍の創設
1944年3月22日。大本営は第32軍 (沖縄守備軍)を創設した。それは米軍が沖縄上陸前の組織的な爆撃を沖縄全域で開始する1年と1日前のことである。
沖縄本島を中心とした南西諸島における航空基地の守備を主任務とする第32軍が新設されたのは昭和19年 (1944年) 3月22日付けの大本営命令による。海軍も陸軍の動向に呼応して沖縄方面根拠地隊と第4海上護衛隊を編成した。
1944年4月22日 津嘉山司令部壕の建設
第32軍創設当初、軍の司令部は那覇市安里の養蚕試験場内にあった。 1944年夏頃から南部地域の住民を徴用し、壕掘り作業を開始した。壕掘り作業は24時間体制で、ツルハシやスコップを使用して行われた。司令部壕は、一本の主抗に数本の副抗がつながっていた。
第 32 軍司令部壕は、1944(昭和 19)年4月 22 日より南風原町津嘉山に当初構築されました。この一帯は軟質な地盤であるクチャ層のため、構築しやすい反面、強度に問題がありました。戦後は埋没したために長らくその実態は不明でしたが、南風原町教育委員会が 2005・2006(平成 17・18)年度に道路建設のため発掘調査を部分的に行うことにより、その存在が明らかになりました。
南風原町津嘉山にたたずむ小高い丘。この丘の中に総延長およそ2キロに及ぶ、巨大な人口地下壕がありました。旧日本軍の後方陣地だった「津嘉山壕」です。戦後、入り口が埋まり、正確な位置がわからなくなっていましたが、平成16年 (2004年) 、道路建設に伴う発掘調査で、初めて確認されました。
1944年10月10日 十・十空襲
第32軍が津嘉山に構築した総延長約2,000mの人工の司令部壕。およそ3千人もの兵士らが配属され、16人のひめゆり学徒も動員されていました。1944(昭和19)年夏頃、陣地構築専門の野戦構築部が中心となり、南部の住民を徴用して構築。同年の米軍による「十・十空襲」後、第32軍は新たに首里城地下に司令部壕を構築して、作戦の指揮の中枢は首里へと移されため、津嘉山壕群には、経理部・兵器部・法務部・軍医部の一部が配備されました。
首里司令部壕への移動
首里への移動
1944年12月3日 第32軍司令部、軍司令部の首里変更を決定。
1944年12月9日 首里城地下に司令部壕構築を開始。
1945年3月23日 第32軍司令部が首里の地下令部壕に入る((沖縄県文化振興会「第5回 第32軍司令部壕保存・公開検討委員会・文献調査最終報告」PDF (令和4年3月28日)))。
第32軍司令部の南下
1945年5月27日 第32軍、首里司令部壕を放棄し、津嘉山経由で南下を始める。
1945年5月30日 津嘉山を出発し、その日のうちに摩文仁に到着する。
難攻不落を誇った首里を撤退して南下する途中、津嘉山に仮の新戦闘司令所を設けた守備軍首脳…は、…30日午前零時ごろ津嘉山を発ち、その日のうちに摩文仁へ到着した。
本壕を第32軍が使用したのは、首里から撤退する時の5月27日から 5月29日のみであった。
伊是名島から津嘉山壕の構築に徴用された男性の証言
話は前後しますが、司令部壕は津嘉山から金良、長堂、真玉橋まで伸びていたようです。奥行きが狭く、一〇〇メートルぐらい行くと直角に曲ってサンガネ型になっているわけです。あそこは土壌がジャーガルですからしばしば落盤にあって死傷者も多く出たようです。あの壕はぜんぶ徴用で掘ったものですよ。私らは壕入口の擬装の作業でわりと楽な方でしたが、他町村の人たちは落盤事故などでずいぶんやられています。陣地作業は各班に分かれてやっていました。一月二十三日の空襲はその壕に避難しました。
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